あやかしよりまし

葉来緑

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続章【逢魔】九日目⑥

紅い瞳

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……雨が強くなって来た。
雨の中を秘密基地で過ごすのは初めてだ。
あいつが……兄さんが僕の事を捜してるって言っていた。
もう、家には帰れない。
帰ったら、完全に外に出られなくなってしまう。
────明日の朝まで此処で過ごした方が良さそうだ。

毛布もあるし、食べ物だってある。
自由な空間だったけど……今は寂しさを感じた。
トシゾーは怒って出て行ってしまった。

「トシゾー……────もう、戻って来ないのかな」
日記を書き終えた後、膝を抱えてうずくまった。
「……トシゾーが悪いんだ、勝手に人の日記を見るから」

日記を見られたくなかった。
トシゾーは、僕が女だって知らない。
きっと日記を読んだらその事を知られてしまう。

“俺はお前の事……名前も知らねえし……何も知らねえじゃねえか!”

“お前は信用できねえ!!”

トシゾーの言葉を思い出す。
トシゾーは女が苦手だって言っていた。
知られたら、今の関係が崩れてしまうんじゃないかって思った。
でも……明日、叔父さんの家に行ったら、どのみち打ち明けるつもりだった。
叔父さんの家に行ってしまえば、トシゾーがいくらわめいた所で簡単に帰る事は出来ない。
しかしそれも……トシゾーが戻ってこなかったら、意味のない事だ。

だけどもう一つの秘密……『人の心を読める』と言う事は、話したくなかった。
それは…それだけはきっと間違いなく嫌われるだろう。
「…………」

でも、……トシゾーならもしかして。
わかってくれるんじゃないかって、ほんの少し────期待してた。

誰もわかってくれなくて良い。
誰も居ない遠い世界に行きたかった。
だけど……誰も入って来ない秘密基地に一人でいると……。
とても…………心細い。
そう考えると、本当に叔父さん夫婦が受け入れてくれるのかも……不安になった。
「一人で行くのは……寂しいな」
叔父さんには、友達と遊びに行くとしか、伝えていない。
一人で行って、また家出扱いされて、補導されるかもしれない。
頭を振り、悪い考えを追い出した。
「…………大丈夫、きっと戻って来る。……よし、戻ってきたら驚かしてやろう」



服を脱ぎ、来る時に着ていた服に着替える。
高いワンピースなので、汚さないように気を付けた。
好きな服じゃなかった。
でも、ユウキやツカサは可愛いって言ってた。
あたし達も着てみたいって言ってくれた。
髪を結って、出来るだけ女の子になっておこうと思った。

手鏡を見て、変じゃないか何度も確かめてみる。
トシゾーが見たら、どんな反応をするだろう?
もうどこからどう見ても、女の子の外見をしていた。
……僕だって気が付かないかもしれない。
それならそれで、からかってみようかと思った。
前髪を気にしたり、服装を整えたりしている内に……
何だが自分がバカなんじゃないかと思えてきた。

そんな事をしていると……誰かが近付いてくる気配がした。
(……トシゾーだ!)
謝ったら許してあげよう。
ぼくも色々隠していた事を謝ろう。
男ならともかく……女の子の日記を読むのがサイテーな事くらい、いくらトシゾーだってわかるはずだ。

程なくして、入り口の方で音がした。
この格好でいざ会うとなると、やっぱり緊張する。
嫌われたり……しないだろうか。
手鏡を見て、何度も確認した。

足音が近付いてきた。
手鏡に……背後の様子が映り込んできた。




だが、鏡に映っていたのは……。
────トシゾーじゃなかった。

鏡に映っていたのは……義兄────鏡介だった。
「え───?」
「紗都梨……こんな所で何をやっているッ!」
「に……義兄さん!?」
思わず後退り、壁に背を向けた。
目の前に立つ義兄……鏡介は怒りの表情を顕にしていた。
右腕は怪我をしているのか、血が滴っていた。
「……ど、どうしてここが?」
「あいつが此処から出てくるのを見た……そんな事より俺の質問に答えろ! お前は外に出てはいけないと何度も言っているだろう! 戻るぞ────お前は病気なんだ!!」
「い、嫌です……! 私は……戻りません! 嘘つき呼ばわりされるのは……もう沢山なんです!!」
「またそれか……悪質な嘘もいい加減にしないと本気で怒るぞ!」
鏡介は肩を掴み、抑え付ける。
指が食い込み、痛かった。
「わ……私はウソなんかついてない! 私は……人の心が読める! 母さんを殺したのは義兄さんよ!」
「そもそもそれが妄言だと言うんだ……ッ! お前は義母の死のショックで……偽物の記憶を信じ込んでいるだけだ!!」

手にしていた手鏡を鏡介に向ける。
「この手鏡が……義兄さんの部屋にあった。母さんが死んだあの日……母さんが握っていたものよ」
「それは……!?」
「母さんが死んだ日……部屋の鏡で、これだけが割れてなかった。────どうして義兄さんはこれを隠したの?」
「…………!」
すると……強い思念が伝わってきた。


【…………ソレハ…………ワタシノモノ……】


「────?」
今の声は……何?
鏡介の……こいつの声じゃない。
「何故……お前はそれが現場にあった事を知っているんだ? あの場にお前は居なかった筈だ……」
「こ、心が読めるって言ったはずよ……ッ!! 義兄さんが見たものが……伝わってきたの!!」
「その手鏡は鏡花のものだ。あの日、義母さんが持っていた手鏡には鏡花が映ってた────」
鏡介は狼狽えはじめた。
「……どうやら、心が読めるのは本当らしいな。お前の方こそ化物に取り憑かれてるんじゃないのか!!」
声を荒げ罵倒する鏡介を睨みつけ、心を読んだ。


【ソレヲ……カエセ……】

────激しい憎悪の思念だった。

【…………ドウシテ……オマエハ……ワタシノモノヲ……ウバウ……?】

────戦慄が走る。

【……ユルサナイ……ユルサナイ……カエセ……カエセッ!!】


明らかに殺意がこもった感情が伝わってきた。
「うるさい……うるさい!! お前こそ母さんを返せ! この人殺し!! ────お前なんか大っ嫌いだッ!!」
恐怖を振り払うかのようにありたっけの声で叫んだ。
────完全な拒絶の態度。
「この……ッ!! こうなったら、無理矢理にでも連れて帰ってやる!!」
右手を後ろに回され、羽交い絞めにされた。
泣き叫ぶと、口元を押さえ込まれた。
「…………!!」
思いきり手の甲を噛んだ。
「……────うッ!?」
鏡介が噛まれた手を押さえ込んだ隙に逃げようとした。
だけど……、入り口に回り込まれて逃げ道は塞がれた。
入り口を背にし、流れる血を滴らせながら睨みつけてきた。
「出口は塞いだ……もう、お前が逃げる場所はない」
「…………ッ!!」


【…………コロシテヤル】


凍りつくような冷たい感情だった。
「い、嫌……やめて、殺さないで……!」
壁を背にして震えた足のまま、そのまま座り込んだ。

……目の前には、サバイバルナイフが落ちていた。
これを拾われたら、きっと殺されてしまう。
ナイフを取ろうと手を伸ばすと────即座に突き飛ばされ、ナイフを拾い上げられてしまった。
鏡介はナイフを片手に激しく睨みつける。
「もう……認めざるを得ない。お前には────悪魔が取り憑いている。悪魔の声に……そそのかされているんだッ!」

逃げ道は塞がれた。
もう……逃げられない。
誰か……助けて。
…………トシゾー。
助けて…………トシゾー……。

薄れる視界の中に、将棋盤があった。
────……もう、君と将棋を打てないのかな……。
ぼくはもう……────詰まれてしまった。
……でも、トシゾー……君は……。
君は────どんなに追い詰められても……常に逃げ道を作っていたよね。

…………。
…………。
…………逃げ道。
…………あった。
一つだけ逃げ道が……ッ!


ブルーシートを剥がし、錆びた鉄格子をずらす。
────そこには、かろうじて子供が通れる程の穴が空いていた。
意を決してその中に潜り込んだ。
「…………何だと!?」
鏡介が背後から手を伸ばして来た。
だが、穴は深く掘られていた。
寸での所でかわし、奥の方へと突き進んだ。

……まもなく、行き止まりになった。
────戻る訳には行かず、これ以上は自分で掘るしかない。
土は比較的柔らかく、必死になって掘り続けた。
何回も曲がりくねり、自分がどの地点に居るのかわからなくって来た。

……────硬い感触がした。
大きな岩が、穴の中で立ち塞がっていた。
別の穴を掘ろうと思ったが、もう……そんな体力は残っていなかった。
「……今度こそ行き止まりだ」
空気が薄くなってきて、意識が朦朧として来る。

その時…………薄れる意識の中……微かに水の流れる音が、岩の向こう側から聞こえてきた。
必死に岩を押し続けると……少しずつ動いた。

突然、目の前に穴が空いた。
穴の向こうは……また別の通路に繋がっていた。
土は湿り気を帯び、泥状になっている。
雨水が流れてきていて地上へと繋がっているのかもしれない。
土は次第に湿り気を増し、出口へと近付いてきている事がわかった。

穴の向こう側に光が見えた。
「……出口だ!」



出口に差し掛かり、おそるおそる地上に顔を出す。
そこは孟宗竹がふんだんに生えた竹やぶだった。
竹やぶを掻き分け、周囲の様子を伺う。

────……誰も居なかった。
雨に濡れながらも、安堵の溜め息をつく。
右側は崖上の壁になっており、かなりの高さの位置まで切り立っていた。
左側は傾斜の急な林で、足を滑らせるとそのまま川の方に落下して行きそうだ。
前方には、いつもの高台の公園から降りてくる場所があるはずだ。

(……とにかく、あいつが居なくなるまで隠れてなきゃ)
雨音もひどく、雑音は掻き消される。
暗闇に身を潜めていれば……見つかる事はないはずだ……。

しかし……前方を見ていると、足音がゆっくりと近付いて来た。
「…………!」
息を殺してやり過ごそうとするが、足音は迷わずこちらの方向に向かって来ている。
……鏡介だった。
片手にはナイフを持ったまま、近付いて来る。

【…………ミツケタ】

うっすらと見えるその表情は不敵に笑っていた。
「……────!!」
逃げようとするが、身体が動かない。
ただただ怯え、うずくまるしかなかった。
目の前に立った鏡介は歪んだ笑みを浮べる。

【…………モウニゲラレナイ……】

昏い眼差しが、真っ直ぐに見つめてきた。
────凍り付く様な感覚。
身動きが取れない……体が……体が動かない。
「誰か……誰か……」
鏡介はひと言も発せず、ひたすら憎悪の思念が流れ込んできた。

【ダレモイナイ……ダレニモキコエナイ……】

鏡介はナイフを取り出し、首筋のすぐ隣に突き立てた。
「い……いやだ……だ、……誰か……助けて……」
刃物が首筋に触れ、ひやりとした感触──凍りついた体は震えが止まらない。
声をあげても、周りには誰も居る筈がない。
でも……叫ばずにいられなかった。


「────助けてッ!!!!」
嗚咽が混じった声で雨雲に向って懇願した。

【…………ウルサイ……ダマレ】

何か見えない力が首から口元を掴み、背中ごと地面に叩きつけてきた。
「…………ッ!!」
身体の動きを全部封じられ、首を締め上げてきた。
もう声をあげる事も出来ず、ただ天を見つめる事しか出来なかった。

天を見上げると、いつの間にか雨音は穏やかになり……止まっていた。
空を覆っていた雨雲の隙間から、ほんの少しだけ星が顔を覗かせる。

ああ……もう、僕は死んじゃうんだ……。
せめて…………。
せめてもう一度……星を見たかった……な。

昔……母さんと天体観測に行って……でも、空は曇ってて……。
とても残念で……。
でも……でも……。
代わりに綺麗な……月が見れたっけ……。

【ナニヲ……ミテイル……?】

鏡介は僕の視線の先に何があるのかと、背後を振り返った。
背後には何もなく────風に揺られた木々のせせらぎしか聞こえない。

【…………ダレモイナイ……ダレモミテイナイ……ッ!!】

ナイフが握られた手が天を覆う。
そして、それはそのまま────振り下ろされてきた。



その時────天から何かが降ってきた。
澱んだ空が少しだけ晴れ、朧状の月が顔を覗かせる。


月明かりに照らされ、影はゆっくりと姿を見せた。
ゆらりと起き上がった影は次第に……────人の形に姿を変えてゆく。
「────ト……シゾー……?」
降ってきたのはトシゾーだった。
六尺棒を手にし、鏡介の方を真っ直ぐに見ている。

一陣の風が吹いてきた。
風は髪をなびかせ────……隠れていた右目を顕わにする。


……その瞳は、目の前の魔を。
────見抜くように。
────暴くように。

とても……あかい。
────紅い色をしていた。

六尺棒を薙ぎ払い、鏡介の手にしたナイフに打ち付ける。
だが、鏡介はその衝撃を受け流し────体勢を整えた。

【ジャマヲ……スルナ……!】

返すナイフの刃が、トシゾーの胸を目掛けて突き立てる。
だが、ナイフは途中で停止した。
……まるで見えない何かが防いで居るようだった。
トシゾーの……────犬のお守りだ。
「キョウスケ、お前……憑かれてるぞッ!! 鏡の妖に……ッ!!」
トシゾーは六尺棒を振り下ろし、鏡介のナイフを叩き落す。

トシゾーは刃物を落とした鏡介を押さえ込もうと、六尺棒で襲い掛かる。
衝突が数回、繰り返された後、トシゾーの身体は弾き飛ばされた。
「うわッ!?」
鏡介の体術はトシゾーの六尺棒をさばき────そのまま衝撃を返していた。
加えて……二人の間には圧倒的な体格の差があった。
「くそ! 何なんだ一体!!」
悪態をつき、立ち上がるトシゾーの背後に何か、光る物が見えた。
「トシゾー……後ろだ!! 避けて!!」
「────!?」
トシゾーが振り向いた瞬間、先程叩き落したナイフが襲ってきた。
ナイフは避けたトシゾーの左耳を掠め、再び襲い掛かる。
────まるでポルターガイストだ。

ナイフは再びトシゾーの頭上の空中で止まり、犬の唸り声のような声が聞こえてくる。
「こ……の野郎ッ!!」
トシゾーはナイフの向こうの何かを掴み、引き離そうとしていた。
……気が付くと、見えない何かに抑えつけられていた身体が……自由が効くようになっていた。
起き上がり、トシゾーに向かって叫ぶ。

「トシゾー!! 逃げて……! 相手をしちゃ駄目だ!!」
「────!? その声……お前、イサミか!? 何でそんな格好……とにかく、お前こそ逃げろ!! この妖は危険だ!!」
突如、ナイフは引き────トシゾーの身体は引っ張られる。
そして次にナイフは────こちらに向かって飛んで来た。
「────!」

「────吽狛ァッ!!」
トシゾーの叫び声とともに、ナイフは停止した。
走り込んで来たトシゾーが、前からナイフを掴み……制止させる。
そしてナイフを奪い取った。

……次第にわかって来た。
今、この場ではトシゾーと鏡介以外に別の何かが二つ……争っている。
その時、背後の鏡介がトシゾーの肩を掴んだ。
背中ごと打ち付けられ、足蹴にされる。
「ぐわっ!!」
鏡介は我を忘れたような表情で、トシゾーを蹴りつけた。
何度か激しく蹴りつけて、トシゾーが動かなくなると────今度はこちらの方を向いた。
「…………あ、ああ……」
今度は足が震えて動かない。
鏡介の腕が胸元を掴んだ。
もう片方の手で────首を絞めて来る。
だが、その腕に突然、犬の歯型の様な傷口が、突然開き────鮮血に染まった。
……しかし、それでも鏡介の表情は変わらず胸元から首を締め上げてくる。
「イサミ……ッ!! てめえ……離せよ……ッ!」
突如、トシゾーが鏡介との間に割って入り、その腕を押し退けた。
「何やってんだ……イサミ!! 早く逃げろ!!」
六尺棒を構えて、トシゾーが叫ぶ。
「う、うん! トシゾーも逃げて……ッ!!」
震える足に気合を入れて、高台の公園に向かい走り出した。

しかし……足元に何かが絡み付いてきた。
「ああっ!?」
足元を掬われ、そのまま転がり込む。
だが……、足元を見ても其処には何もなかった。

【…………ニガサナイ……】

……次第に理解した……。
さっきから聞こえてくる声は……鏡介からだったんじゃない。
この────……見えない何かから聞こえてきたんだ。
「は、離せ! い、嫌だ……! 助けて……!!」
「この……ッ!!」
トシゾーが走りこんできて、見えない何かに向かって六尺棒を叩きつけた。
だが、六尺棒の動きは止まる。
逆に掴まれて、離せなくなっていた。

【オマエハ……ジャマダ……ッ!】

そのままトシゾーは凄い勢いで壁に向かって叩きつけられた。
何度も何度も叩きつけられ、トシゾーは声にならない叫び声をあげる。

「あ……あ……止めて!! 止めて!! トシゾーが死んじゃう!!」
すがるように見えない何かにしがみ付く。
一際勢いをつけて、壁に叩きつけられたトシゾーは、そのまま動かなくなった。

「トシゾー!!」
倒れこんだトシゾーに駆け寄ろうとした。
しかし────身体が動かなかった。
そして背後からゆっくりと……鏡介が近付いて来た。

『オマエガワルインダ……』
鏡介からは、まるで別人のような声が聞こえて来た。
『オマエガ……ゼンブ……ワタシノモノヲウバッタ……』
……今、目の前に居るのは兄────鏡介じゃない。
『ワタシノフク……ワタシノカガミ……』
……別の何かだ。
思念と言葉で……憎悪が二重に伝わってくる。
『スベテヲウバッテ……』
ゆっくりと首を締め上げられた。
『ニイサンヲ……クルシメテ……』

意識が薄れていく……。
その声は……女性の声だった。
『カラッポニシタラ……ツカッテアゲル……』
空っぽ……使う……?
もう、考える力も無くなって来た。

────意識が流れ込んできた。
まるで別の魂が入り込むように内部に浸透していく。
その時……目の前に鏡のようなお化けがうっすらと浮かびあがってきた。
鏡に映った自分に、不思議な生き物がのっている……?。

さらに鏡の中からは、女の形をしたモノが身を乗り出していた。
その影の両腕がぼくの首を絞めていた事に気付く。

ああ、この顔は────……見た事がある。
お父様の部屋で見つけた────……写真の女の子だ。
────体中が侵食されて行く感覚がした。

……いやだ。
…………いやだ!
この身体はぼくのものだ!
お前なんかに……やるもんか!

くやしい……!
………………くや……しい……。
かあ……さん……。
トシ……ゾー……。
たす……け……て……。



『ウゥ……』
…………犬の鳴き声が聞こえた。
その声は、倒れているトシゾーの傍から、聞こえてくる。
犬……きっとトシゾーの…お守りの声だ…………。

ぼんやりと見えたその姿は……仔犬のような外見だった。
しかし、次第にその鳴き声はどんどん大きくなり、獣のような咆哮になっていく。
そしてその姿も……荒々しいものに変わっていった。

違う……。
これは……いつも感じてた犬の思念体じゃない。
もっと……もっと……大きい。

まるで……────獅子のような姿になった。
同時に、トシゾーもゆっくりと立ち上がって来る。
その紅い瞳は怒りに満ちていた。


鏡の中の女は背後の気配に気付いて、黒い腕を伸ばす。
その黒い腕は大きく形を変え、獅子に向かって襲い掛かった。
獅子は大きく唸り声を上げると逆にその腕に対して襲い掛かった。
────そして、黒い腕に喰らいつき、引き千切る。
女は激しい苦悶の表情を浮かべ、鏡の中に入り込んだ。

獅子は、鏡のお化けに向かって突進した。
激しい衝撃音が響いた。
その衝撃はまるで自分に帰ってきたかのように獅子はのた打ち回った。
だが……鏡のお化けの鏡面に、少しだけ亀裂が入る音がした。
トシゾーは六尺棒を手にし、鏡介に向かって激しく何度も打ち付けた。
鏡介は体術で捌こうとするが、そのまま後方へと圧される。
六尺棒が薙ぎ払われ、鏡介の体は吹き飛ばされた。

すかさず鏡の中から黒い腕がトシゾー目掛けて襲い掛かるが、六尺棒でそれを弾く。
────そして獅子が本体の鏡介に爪を立てた。
『…………ウウッ!?』
トシゾーはもの凄い速さで駆ける。
飛び込み、鏡のお化けを目掛けて一文字に払った。
再び────鏡に亀裂が入る音がした。
更に続く獅子の咆哮。
牙は鏡の外殻から鏡面部分へと食い込んでいく。
『ア……アアッ! …………アアアァッ!!』
そして────まるで叫び声のような鏡が割れた音がした。
「────……はッ!?」
同時に、鏡介の顔は激しく歪んだ。
「う……うう? 俺は……一体、何を」
鏡介は目を押さえながら、そのままよろめき────傾斜の急な場所で足を滑らせた。
「う、うわああ!!」
鏡介の体は転がって行き、切り立った崖の向こう側へと放り出されそうになった。

────落下する寸前に、鏡介の腕が崖の岩肌を掴んだ。
鏡のお化けは……崩れ落ちるように、崖の下へと落下して行った。
「……な、何だこれは……? た、助けてくれ……!!」

その声は……いつもの義兄の声だった。
片腕が動かないらしく、傷だらけで……今にも落ちそうだった。
「目が……目が見えない……助けてくれ」
悲痛な声が聞こえて来た。

「……兄さん……」
その様子をずっと見ていた自分は……身体を懸命に動かし、助けに行こうとする。

しかし……身体は一向に動かなかった。
むしろ今、自分が生きているのかもわからない状態だった。
間にはトシゾーが立っていた。
獣の様に我を忘れて興奮していたトシゾーは、……まだ落ち着きを取り戻していなかった。

「……助けてくれ!」
────再び、鏡介の助けを呼ぶ声が聞こえた。

「…………!!」
喉の状態がおかしくなっていた。
搾り出すように声を出す。
「…………ト……シゾー」
その声に気付いたのか、トシゾーはゆっくりと……振り向いた。
「………………に……にいさんを……たすけ……て」
トシゾーは苦しそうに頭を抱える。
「ウ、ウウ……」
落ち着きを取り戻し、表情は次第に穏やかになって行った。
いつの間にか……獅子の姿は自分には見えなくなっていた。

トシゾーは、ゆっくりと鏡介の方に向かって歩いていく。
兄さんの目の前に行くと、ゆっくりと手を差し伸ばそうとした。
だが……兄さんは激しく身を震わせた。
「う……!? な、何だお前は……止めろ……止めろ…………近付くな! 化け物め!!」

その時────岩が崩れる音がした。

叫び声とと共に、兄さんの身体は崖の下まで落下して行った。
「…………!!」
差し伸ばされた手に脅え、そのまま……身を引いてしまったのだ。

トシゾーは、目の前で何が起こったのか理解するまで────しばらくの時間がかかった。
「あ、ああ……」
頭を抱えて、トシゾーは苦悩する。
「う、うわあああああ……」
苦悩の表情をした顔をあげると────逃げ出すように走り出した。
「トシ……ゾー……ッ!! まって……!」

だが……声はもう、トシゾーの耳には届かない。
そのまま────闇の中へと姿を消して行った……。



再び雨は全てを洗い流すかのように、激しく振り続ける。
ただ一人、雨の中取り残された。

……兄さんも。
……鏡のお化けも。
……トシゾーも。
誰も…………いない。
みんな……いなくなった……。








そこで記憶は途切れた。
────……吐き気がするような忌まわしい記憶だった。
御堂の記憶を修復すると同時に────……自分の欠けた記憶も補完された。
「イサミは……御堂は、この事を俺に思い出せないようにしていたんだ……」
激しい怒りが、吽狛の姿を変え────人を傷付けた。
怒りに任せて……人を殺そうとした。

「その記憶は俺の許容量を越えて……記憶を封じ込めていた」
だけど、御堂は覚えていた。
ずっと一人で抱えていた。
鮮やかになって行く記憶の景色は、ひと際大きく、そして────……深く澱んでいた。

周りの様子が変化し始めてきた。
忌わしい記憶は、他の記憶を支配するかのように不安定に暗くしていった。
「…………まずい。まだこの記憶を修復するには────早すぎたのかもしれない」
この記憶を支える別の記憶が必要だ。
これの支えになる────力強い記憶が。




《九日目⑤終了 九日目⑥に続く》
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月神世一
ファンタジー
​「くそっ、魔王はまたトカゲの抜け殻を美容液にしようとしてるし、女神は酒のつまみばかり要求してくる! 俺はただ静かに農業がしたいだけなのに!」 ​ ​ブラック企業で過労死した日本人、カイト。 彼の願いはただ一つ、「誰にも邪魔されない静かな場所で農業をすること」。 ​女神ルチアナからチートスキル【絶対飼育】を貰い、異世界マンルシア大陸の辺境で念願の農場を開いたカイトだったが、ある日、庭から虹色の卵を発掘してしまう。 ​孵化したのは、可愛らしいトカゲ……ではなく、神話の時代に世界を滅亡させた『始祖竜』の幼体だった! ​しかし、カイトはスキル【絶対飼育】のおかげで、その破壊神を「ポチ」と名付けたペットとして完璧に飼い慣らしてしまう。 ​ポチのくしゃみ一発で、敵の軍勢は老衰で塵に!? ​ポチの抜け殻は、魔王が喉から手が出るほど欲しがる究極の美容成分に!? ​世界を滅ぼすほどの力を持つポチと、その魔素を浴びて育った規格外の農作物を求め、理知的で美人の魔王、疲労困憊の竜王、いい加減な女神が次々にカイトの家に押しかけてくる! ​「世界の管理者」すら手が出せない最強の農場主、カイト。 これは、世界の運命と、美味しい野菜と、ペットの散歩に追われる、史上最も騒がしいスローライフ物語である!

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