始まりの魔人

魔人

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夜明けの息吹

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最初に気づいたのは、音だった。
 枝がはぜる焚き火の音に、遠くから細い水音が混じり始める。やがてどこかで小鳥がひと声だけ試すように囀り、沈んでいた森の輪郭が、少しずつ音で満たされていく。凛は目を開け、身を起こした。背中には地面の硬さが残り、肩は少し重い。だが夜の間じゅうまとわりついていた冷えは弱まり、呼吸は楽になっていた。

 焚き火はまだ生きている。赤い芯が灰の奥で呼吸し、息を与えれば火は戻るだろう。凛は手袋をはめ直し、細枝を数本くべてやった。火はあくびをするみたいにゆっくりと口を開き、橙の光が霧をやわらかく押し広げる。
 東の空は薄い乳白色に変わり始めていた。霧は夜の間に地表へ沈み、いまは膝下の高さでゆらいでいる。顔を上げると、木々の梢のあいだから、弱い光が刺し子のように落ちてきていた。

 「生き延びたな」
 凛は小さく言い、肩の力を抜く。ザックを開いて水筒を取り出し、口をすすいだ。昨日からの緊張でこわばっていた舌に、水の冷たさが気持ちよく染みる。携帯食をひとかじりしてから、彼は立ち上がって周囲を見回した。

 夜の間、焚き火の外側は黒い壁のように見えた。だが朝になってみると、その壁はただの森に戻っている。倒木、盛り上がった根、湿った落ち葉の斑。見慣れたはずの要素が、どこか少しだけ違って見えるのは、ここが“いつもの山”ではないからだろう。
 凛は自分が寝ていた場所の周りを一周した。足跡、踏みしめた跡、枝を集めた痕。人間の痕跡は当然として――それ以外の「何か」の形跡を探す。

 見つけたのは、焚き火の明かりが届かなかった草むらの縁だった。
 草の先端に、薄い白い膜が張り付いている。露にしては固い。指でそっと触れると、細かな結晶が陽に当たって微かに光った。凛は眉をひそめる。夜の間、霜が降りるほどの寒さではなかった。なのに、ここだけが―—ほんの手のひらほどの範囲だけが、きらきらと凍っている。
 指先に残った冷たさはじきに消えた。凛は視線を地面に落とす。草の根元には、細い筋が二本ずつ並んで土をかすめている。獣の歩いた跡に見えるが、軽い。跳ねるように間隔が空いている。まるで、霧そのものが足を持って駆け抜けたような、頼りない跡だった。

 (昨夜の視線……気のせいじゃなかったな)
 凛は胸の奥で結論を確かめる。襲いかかる意志はなかった。近づいて、確かめて、去っていった――そんな距離感だ。
 焚き火へ戻り、燃え残りを崩してから慎重に水をかけて火を落とす。煙が白く立ち、霧と混じって消えた。火の始末は、山の基本だ。ここがどれほど異様でも、基本を外すつもりはない。

 荷をまとめると、身体の重さがはっきりした。ふくらはぎの奥、股関節のあたりに疲労が蓄積している。昨日のうちに想像以上の距離を稼いだのだろう。
 凛は伸びをして呼吸を整えると、昨日から頭の隅に居座っていた目的を、もう一度言葉にした。
 「落ちた“何か”を確かめる。無茶はしない。引き返す道を常に意識する」
 声に出すと、散らばっていた思考がひとつの束になって、胸の中央へ戻ってきた。

 出発に先立って、水場の位置を確認する。耳を澄ませば、昨日から聞こえていた水の筋は、今朝はむしろはっきりしている。霧の層が薄くなり、音の通り道が開いているのだ。音へ導かれるように木々の間を抜けると、すぐに細い流れが見つかった。
 岩肌を滑る水は、透明で、指を浸すと冷たい。凛は両手で掬い、顔を軽く洗った。頬に残る冷えと、水の重みが意識をくっきりさせる。水筒を満たし、戻る途中で足を止める。流れの縁、湿った土の上に、また例の軽い筋がいくつも並んでいた。昨夜、ここまで来ていたのか――。

 焚き火跡へ戻る道すがら、森の匂いが変わっていくのに気づいた。
 湿った土と苔の甘さに、朝の青い匂いが差し込んでくる。鳥の声が増え、梢のどこかで木が軋む音がした。陽はまだ弱いが、光の帯は確実に長くなっている。
 凛は歩きながら、地図のように頭の中にルートを描き直す。昨夜の野営地を基点に、聞こえている水脈、倒木の位置、足の負担、空の明るさ。点と点を線で結び、危険が少なく、なおかつ先へ進める道を探る。

 倒木の向こう側、霧が薄く裂けている筋があった。風の通り道かもしれない。そこから先の樹々は幹が太く、根が地表に露出している。根と根のあいだが自然の階段のように段差を作っていて、足は運びやすい。
凛はナイフを鞘から半分だけ抜いて光を当て、刃の状態を確認した。背に指を滑らせてから収める。金属の冷たさが、今自分が現実に触れているという実感をくれる。

 出発してしばらくは、霧が薄い分だけ見通しが効いた。遠くに折れた枝の列、獣の寝床らしい窪地、掘り返された土。森は夜のあいだに確かに動いていた。
 足元の土は柔らかく、踏み入れるたびに音が鈍く沈む。耳は進行方向の気配を拾い続け、背中のうしろにも薄い意識を残す。夜に近づいてきた「何か」が、昼もまた近くにいるとは限らない。だが、痕跡は消えない。

 やがて、木々の間の光が少し強くなった。小さな空隙――陽だまりだ。そこだけ霧が薄く、草が平たく倒れている。凛が踏み込むと、足裏に違和感があった。草の下に硬いものがある。手で掻き分けると、薄い板のようなものが現れた。
 石かと思ったが、表面はわずかに反射し、光を細かく砕く。持ち上げるほどの大きさではない。掌で軽く撫でると、指先にざらりとした感触。自然に割れた岩ではない質の、硬い何か――。
 (……金属? いや、違う。鉱石……にしては、光り方が変だ)
 凛はそれを元に戻し、草をかぶせた。興味はあるが、今は目標を見失うわけにはいかない。後で位置を記録しよう。鞄からメモを取り出しかけて、思い直す。ここでは紙より地形が記憶になる。陽だまり、露出した根、三本分岐の木。三つの印があれば戻れる。

 前へ。
 森の奥から、低いざわめきが流れてきた。風ではない。木と木が互いを確かめ合うような、微かな音の連なり。凛は立ち止まり、呼吸を浅くする。
 視線の先、霧の層がさらに薄くなり、小さな丘の肩が見えた。丘の向こう側で、光が跳ねる。昨日、尾根の向こうに見えた“鱗みたいな反射”を思い出す。胸が早く打つのを、意識してゆっくり押さえ込む。

 丘の手前で一度足を止め、周囲を確認する。引き返すルート、退避できる木の根の隙間、障害になりそうな倒木の位置。頭の中でいくつも線を引き、最悪の時の逃げ道を先に決める。
 準備が整ったとき、凛はナイフの柄を握り直し、丘をゆっくりと登り始めた。落ち葉が靴の下で小さく鳴り、心臓の鼓動と重なる。

 丘の肩に達し、そっと身を低くして視線だけを先へ滑らせる。
 そこで、凛は息を止めた。
 霧の向こうに、樹々の列が広場のように開け、その中央が、まるで誰かの手で磨かれたみたいに滑らかに光っている。地面の一部が薄く反射し、周囲の影を歪めていた。そこに――軽い足跡がいくつも集まって、そして消えている。昨夜、焚き火の周りに残っていたものと同じ、あの頼りない筋。
 ここを通って、去ったのだ。

 東の空は、はっきりと朝になっていた。光はなお弱いが、確実に強くなる方向へ進んでいる。凛は視線を光の輪から外し、森全体に戻した。
 追うべきか、道を選び直すか。結論を急がない。生きて“確かめる”ためには、足の遅さが武器になることもある。
 彼は膝を伸ばし、静かに立ち上がった。息は整っている。足も、まだ動く。

 夜は去り、朝が来た。
 だが森は、目を覚ましたばかりの獣のように、低く脈を打ち続けている。

 凛は丘を下り、光の輪を避けるように、慎重に、奥へと歩を進めた。
 確かめるために。生きて戻るために。
 そして、落ちてきた“何か”に少しでも近づくために。
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