黒鉛で手を染める

鳴角グア

文字の大きさ
上 下
8 / 12

7_本音

しおりを挟む
またスランプ気味になりつつあったある日、夕飯の席で父を怒らせてしまった。何気無い私の発言のせいだった。
「人の気持ちに期待したくない。」
そう言ったのだ。人の気持ちを考えても何も変わらなかったから、気持ちなんかより常識を考えた方が社会では上手くいくのではないかという考えからだった。
昔の父に怒られる時は、大声で怒鳴られたり、平手打ちを食らったりなどした記憶がある。今はそんな事は無くなったが、私が勝手に感じてしまう威圧感はそのままだった。
生意気が言えるなら一人暮らしに戻ればいい。社会人としての責任も持てないくせに。毎日毎日何をしているか知らないが、くだらない事に時間を使うな。お前がいると空気が悪い。そんな事を言われた。
私の中でも沸々と怒りの感情が湧いた。だが、何も言えなかった。父の私を見る目は、まるでゴミでも見ているようなものに感じられた。そのまま食事が終わり部屋から出ていく父を、黙って見ていた。
昔から父は、よく怒る人だった。私は、怒っている父が怖かった。父の怒りを避けるために、時には嘘も吐いてきた。逆効果になることがほとんどだったが、いつしかそれが悪癖になってしまうまでだった。ただの躾だったのだが、私はそれに対し、父は自分が嫌いなのだろうと思っていた。逆に自分が父に感じているものが何なのか、私にはわからなかった。わからなかったが、きっと父と同じような嫌悪なのだろうと結論付けた。その事もあり、友達との文での連絡で、父の愚痴を言った事があった。曝け出した思いは、過激な文面になってしまう時もあった。それから数日経った日、また父から派手に叱られ、携帯電話を取り上げられた。娘の携帯画面を覗き、目に止まったものを見ていた。父はショックを受けていたと、後で母から聞いた。私は驚いた。自分に向けた嫌悪にショックを受けたということは、父は私がそこまで嫌いではなかったのかもしれない。その日の事を胸に、今まで生きてきた。父の胸の内は相変わらずわからなかったが、それでも大丈夫だと思ってきた。父の事を嫌ってしまう自分を嫌ってきた。そして今日、その考えが壊されてしまった。
父が私の何気ない発言に違和感を感じてしまったのはわかる。私もそんな事はしょっちゅうだから。私がわからないのは、何故ここまで怒りをあらわにしているのか、という事だ。私は今まで、余計な波風を立てないように我慢してきたつもりだ。だが、言いたい事がはっきりしている父は、遠慮が無かった。容赦も無かった。
私の中の怒りは治まらず、それは時間が経つに連れ、悲しい気持ちに変わった。やっと思い出した、たった一つの事があった。自分は普通の人間とは違うのだ。人間としての能力がまるで劣っている自分に、文句など言う資格は、最初から無かったのだ。あまりに平穏に過ごしていたため、忘れてしまっていた。その瞬間、また自分のせいで迷惑をかけてしまったと、自己嫌悪が止まらなかった。私はこの沈むような気持ちを無くすため、生きるためにこの場所へ戻ったのに。消えない気持ちに焦り、病院で貰った薬を飲んだ。これを沈んだ気持ちの時に飲めば、落ち着いた気持ちになれる。そう聞いて貰ったものだった。一度試してみて以来飲んでいなかったそれを、大量の水と一緒に含み、そのまま私は布団に潜った。それでも気持ちは落ち着かず、どんどん沈んでいき、とうとう涙が出てきてしまった。布団を深く被りながら静かに泣いた。夕飯時の父からの言葉と冷たい視線を思い返すと、涙が止まらなかった。私は死なないために帰って来たと思ったが、父にとってはそうではなかったのだ。期待に沿わずただ日々を送っていた私に、嫌気が差したのだろう。あんなに嫌悪をはっきりと感じたのは、初めてだったかもしれない。自分の過去の思いが蘇ってくる。父は本当に自分の事が嫌いなのかもしれない。娘としては気にかけてきたが、一人の人間としては憎悪の念があるのではないだろうか。私はもう、どうしたらいいのかわからない。人間としての生きる力が足りない今、父の前から平和に消える手立てなど持ち合わせていなかった。自分自身を責める思いが、沢山頭の中でぐるぐる回り続ける。それと同時に、少し安心もしてしまった。父の行動が、人間らしいと思ったからだ。今まで怒られる時は、私の将来ためを思ってくれている、という事を念頭に置いてきた。そんな父が、自分に向かって純粋な本音を、怒りを、ぶつけてきてくれた。感情がごちゃごちゃに混ざり、全部をひっくるめて、私はただただ悲しかった。
あの日、あのまま、死んでしまえば良かったのだろうか。泣いて、泣き続けて、泣き疲れて、そのまま私は意識を手放した。
しおりを挟む

処理中です...