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プロローグ①
しおりを挟む「ちょっと行ってくるね、琴里。ああ……。やっぱり、この格好だとお父さんもお母さんも驚くかな」
ーーいってらっしゃい、大丈夫よ。
彼女はベッドでまばたきをするわたくしを覗き込み、口紅をひいた唇をくにゃりと歪ませ笑いました。
「神父様には連絡してあるから、もうすぐ来ると思う」
表情豊かに口を尖らせ、渋い顔をする彼女にわたくしはもう一度、まばたきをします。
綺麗な顔が台無しよ、の意味を込めて。
彼女は、できることなら神父様に会いたくないのでしょう。それも仕方ありません。人にはひとつやふたつ触れられたくない苦い過去があるものです。
「USBに入ってる原稿をまず黛さんへメールして、新横浜へお父さんとお母さんを迎えに行って、晴を……」
ブツブツと予定を確認した彼女は、最後に「ヨシ!」と言ってわたくしの額にキスをしました。
「行ってきます。道が混んでなかったら二時間で戻って来られると思うから、待っていてね」
彼女が部屋を出るとき、必ず「待っていてね」と言うようになったのはいつからでしょう。
「い……、あ、り……」
喉から空気だけが漏れ、言葉にならないわたくしの声は彼女に届きませんでした。その代わり、美しい姿が左から引き戸に隠れ、見えなくなるまで彼女を見続けていました、目に焼き付けるように。
わたくしが長いあいだ書いていた原稿の最後に『了』を入れたのは、今朝方のこと。それを待って、彼女が神父様に連絡を入れたのです。それから部屋のシャワーを浴び、細身のボトムスに赤いピンヒールを合わせた彼女は、グレーのニットに真っ赤なトレンチコートを羽織りました。腹をくくったように化粧をした彼女は、どこか吹っ切れたような清々しい顔をしていました。
彼女はもう少ししたら、『ことり』と言う名に改名の手続きをとります。
琴里と言う名前の由来がとても好きな彼女に、ある日、わたくしはこう言ったのです。
――名前、あげう。
彼女が戸惑ったのは当然です。名無しではありませんから、名前はあります。しかし、神父様をはじめ事情を知る人は皆、彼女をどう呼ぶべきか困っているようでした。ですから、わたくしは名前をあげることにしたのです。とはいえ、妻から名前を貰い受けるなど考えも及ばなかったでしょう。
ご両親に申し訳ないと言う彼女とわたくしは話し合い、ひらがなで『ことり』にしました。
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