清楚ビッチなシンデレラ

ハル

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#2

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「いらっしゃいませ」
 黒い扉の表面には金と銀のキューブが9つ並んでいるだけ。表からはここが店なのかはわからない。
 知る人のみが知るバーナイン。
 ちなりも新しい部屋に引っ越してきて、コンシェルジュに説明を受けたから知ったくらいである。ちなりがいま住むマンションの住民が気軽に出入りできるバーである。なぜならこのマンションのオーナーが、住民であれば、カードキーの提示でお会計はまとめて管理費と一緒に請求されるという仕組みにしているからだ。もちろん、勇気を持って入ってきた住民でない者も客としては遇されるが、店の奥の個室スペースは使用できない。
「奥にお座りになりますか?」
 ちなりの上着を受け取ってくれた若いバーテンダーがちなりに話しかける。
一柳いちりゅうさんは、今日はどちらの担当なの?」
「私ですか。奥の担当ですよ」
 にっこりと整った顔立ちに営業スマイルとわかる笑顔を浮かべて答えられる。
「じゃあ、奥にしてもいい?」
 バーテンダーは、笑顔を深めてちなりを奥のカウンターへと案内する。一柳というネームプレートしか彼の情報はしらないが、初めてこのバーに足を踏み入れた時に、彼がちなりの相手をしてくれたのだ。青年という期間をそろそろ過ぎようとしているようなしっかりとした体つきに、精悍な整った容貌のこの男は、大抵、奥とよばれる住人専用になっているスペース側に担当しているが、最初に入った時は、出入り口側のスペースを担当していた。
 住人側の入り口がわからず、様子を見るだけとおもってそっと扉を押し開けてみた時に彼の眩い笑顔につられて、そのままあれよあれよとこの店に足を踏み込んでいた。話し方が丁寧で、どこかほっとする雰囲気を持った男は、バーテンダーという職業柄か話しかけやすかった。
「今日はどうされますか?」
「えへへ。朝から何も食べてないの」
 決まり悪くて、そう答えると大げさに一柳はため息をつく。そうするとテキパキとマスターにノンアルコールカクテルのお勧めを聞いてから、いくつかつまみの提案をちなりにする。メニューは手渡されているが、すぐに出るものをいくつか選んで、ちなりはお通しの一口サイズのスペイン風オムレツや、フルーツに巻かれた生ハムなどをもくもくと食した。あまり匂いの強いものは酒の邪魔になるので用意されてないが、それでもリゾットや和風のパスタなど充分なものがメニューにある。それはこの店の常連であるマンションの住人たちが、ちなり同様食生活がおろそかになりがちで、だんだんと様々なメニューが増えたと聞いている。なかなかに味もよく、ちなりはこの店に足を踏み込んでから二日と置かずに通うようになってしまった。
 もちろん、店の雰囲気も好きではあるが、それよりも一柳にどんどんと惹かれている自分にちなりは気がついていた。今はこの距離が心地いいのかもしれないと、ちなりは思う。近づきたいような近づかないほうがいいようなそんな距離が心地いい。きっとそのほうが傷つかない、誰かに近づくために足を深みに踏み込むのは今は考えたくなかった。
 それでもちょっとしたいたずら心を隠して、ここに来るときに装う自分のことがほんの少しだけよぎる。厳選して身につけていることがばれないかドキドキして、自分の胸に手を当てて胸のラインをかすかにたどっていると、一柳がちなりを振り返る。
「ちなりさん、ちゃんと決まった時間に食事はしないと体を壊してしまいますよ」
「おっしゃる通りです……」
 肩をすくめてみるが、一柳に心配されるのは嬉しくて、ニコニコと微笑んでしまう。
「どうぞ。シンデレラです」
 すっと横からマスターが出来上がったカクテルを差し出してくる。バーテンダーは3人ほど常時いる店ではあるが、カクテルの場合マスターが作ることが多い。
「シンデレラ?」
「ノンアルコールカクテルですよ。12時までにちゃんとお部屋に帰ってくださいね」
「むぅ。一柳さんはいつも子供扱いするんだから」
「まだ20そこそこのお嬢さんですからね。心配にもなりますよ」
 わざとらしくため息をついて、一柳が微笑む。それを眺めつつ、ちなりはノンアルコールカクテルを口に運ぶ。甘いのにすっきりとした味わいで、グビグビと飲めてしまいそうである。
「おいしい!」
「レモンジュース多めにしてるはずですからね。ちゃんと食事もしてください」
 そう言って、一柳は追加で、ゼリーを出してくる。
「トマトのコンソメゼリーです。トマトは美容にもいいんですよ」
「ふふ。一柳さんが優しい」
「私はいつでも優しいですとも」
 心外だという風に、少しだけ眉根を潜めて一柳はちなりを睨みつけた。が、目の奥は笑っている。こうやって通うようになって、だんだんと打ち解けた。初めてこの店に来た時に、疲れのせいもあり、軽いカクテルでよれよれになったので、それ以降、彼はちなりにアルコールの入った飲み物はよほどでなければ出さない。バーなのに! と何度か抗議はしているが、バーの雰囲気を楽しむのであれば、アルコールは必要ないと言って却下されている。
 だが今日なら少しはアルコール飲みたいと言っても彼は許可をくれるかもしれない。そんな風に思って、ちなりは一柳に少しだけ甘えた調子で言ってみる。彼は、少しだけ考えて、一杯だけですよとちなりに言った。客が欲しいものを出してくれないというのは、客商売的に普通はありえないのだろうが、こういうふうに自分のためを思って強制力を発揮してくれる一柳の態度は、なんとなくくすぐったかった。きっと好意になりかけている感情を持て余してしまいそうになる。でも大事に育てたい。焦ってよくわからなくて流されて、そして傷つけられるのはもうごめんだ。そんな風に思う。
 ただ、そんな感情がすでに危うい一線で保たれているということに、ちなりはまだ気がついていなかったが。
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