じじいの青春

おっちゃん

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第一章 ある二つの終わり

若者応援塾

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 目が悪くなり、仕事にも支障が出てきた私は教員をやめて塾を開くことにした。と言っても自宅で教える小規模なもので、対象は不登校の中3受験生と高校中退。
 いずれも、今の自分につまづいて道を見失っている子達。私はそうした子達が人生に再挑戦する手伝いをしたいと考えたのだ。だから塾の名称は「若者応援塾」とした。
 とはいえ、黙っていても子供は来ない。やはりコマーシャルを打たないとだめだろうと思う。とにかく、小規模ではあっても法人化して広告を打たなくてはならないだろう。口コミに頼っていては誰も来ない。
と思っていたのだが、なんとやめた次の月から生徒が来ることになった。
 特に何か理由があるわけではないだろうが、何故か私のところには女子が集まる。もちろん私はどちらかと言えば、いや間違いなく「ロリコン」なので女子は大歓迎ではあるが、こんなところにまで来て勉強をどうにかしたいと考えられるのは自然と女の子の方が多いような気もする。
 もちろん、過去には何人も男子を立ち直らせてもいるが、思い返せば男子といっても比較的女性的な特性を持った男の子が多かったかも知れない。たしかに俗にいう男っぽい子が塾にまで行って勉強している姿は想像に難い。だいたい男っぽい子が不登校になったり帰宅してからも勉強したいなどということは考えにくい。
 男っぽいということがどんなことかは定義しにくいが、敢えていうなら「自己肯定感」が強く、「問題解決能力」も高い人格を持つ生徒などのことをいうだろうか。
 つまり、塾のような学校以外の施設に行ってまで勉強しようなどと思う子たちには、多少なりと劣等感のようなものがあるのかも知れない。もちろん、もっと上に行きたいという強い向上心や場合よっては虚栄心で塾に行く子もいるだろう。
 ともあれ、私のところで扱うのは前者の方である。成績の程々いい子を伸ばすのは簡単なことだが、極めて良い子や極めて悪い子を伸ばすのはそれなりの技術がいる。どちらも、その子の特性に合った教材が必要だ。教材というのは、参考書や問題集というものだけでなく、その子の特性を理解し、適宜にその子に合った題材を提供する技術もある意味で教材といえる。
 進学塾と学校を経験して来た私は東大に行った子からサポート校に行った子まで幅広く指導して来たことが、今の仕事をしたいと思う根拠になっている。更に公立学校にいたときに経験した不登校指導によって、不登校生徒というものの潜在的能力に強い関心を持ったことが、不登校や高校中退者を蘇生させる仕事をしようと考える拠り所となったのだ。
 長年不登校生徒を担当して来た私には「不登校は金の卵である」という独特な信念がある。不登校生徒の特性を見極めてその特性の中から私が伸ばせると思われる部分を徹底的に伸ばす。周囲の子たちと比べても引けを取らないレベルまで引き上げる。すると、その子は「自分はできる!」という自信を持つようになり、私を強く信じるようになり、私の提示する課題に喜んで取り組むようになる。
 その結果、得意なものは更に得意になり、苦手なことにも挑戦するようになり、他の部分でも自信を持つようになる。
 もちろん、それ程簡単な作業ではなく、それぞれの特性を見抜き、励まし、鍛えるという地道な作業の繰り返しが必要なことは言うまでもない。しかし、そうした努力を重ねれば、不登校の生徒が徐々に自信を取り戻し、自分の力を信じて生きて行けるようになることは間違いないのだ。私にとって不登校が自分らしい道を見つけて、楽しく生きていってくれることが、最大の喜びといえる。
 実際こうした仕事をしようと決意させてくれた少女がいる。それが志野だ。彼女は小学生の頃から不登校で、中学校に入学した当初は登校したものの、すぐにまた不登校になってしまった。3年生になった頃私のところにやってきて私と過ごすようになり見事に本来の力を取り戻して目指す高校に合格を果たした。
 しかし、彼女は入学して程なくして「いじめ」に会って登校出来なくなり、11月には留年または通信制高校への転学を言い渡されてしまう。
 そのことを知った私は、彼女と彼女の母親を家に呼んで、高校卒業程度認定試験の受験を勧めることにした。
 彼女に勉強を教えるのは週に一度が限度だったが、一度に4時間から6時間かけて国語を除く7教科を指導した結果、彼女は見事に高認の試験にパスしたのだ。これは、「不登校は金の卵である」という私の信念を裏付けるものとなった。
 彼女の頑張りが私に不登校支援の楽しさと使命感のようなものをもたらしたといえる。
 こうして始まった私の仕事は、以外にもスタートから生徒が3人来ることになった。ひとりは中二、高学力の子が集まる学校に入ったため授業についていけないので勉強を見て欲しいと頼まれた生徒。ひとりは中三で不登校、私はこれが最も得意である。今一人も中三で不登校の子が二三日来たが、私とは合わなかったようで、それっきり来なくなった。私の知る不登校の多くは、自分を責める子が多い。しかし、その子は自分の非を他人のせいにするタイプで、「自分がわからないのは先生の教え方が悪いからだ」と簡単に決めつけられる子だった。そうした子の力を伸ばす力を私は持ち合わせていない。なので、来なくなったのはお互いのために良かったと思う。
 そのうちにもう一人中三の男の子が加わり、男子を教えたかった私の楽しみができた。この子は不登校ではなく、純粋に高い学力を身につけたいということでやってきた。こういう子を教えることが一番スキルがアップする。
 そしてまた、今度はこのままでは高校に入れないと心配する中三の女子がやってきた。この子の学力はかなり低いものだったが、少し教えてみると、私をしっかりと見て話に耳を傾けていた。これなら私もどうにかしてやれると感じたので、引き受けることにした。
 こうなると、スケジュール管理が難しくなって来る。9月からは先の二人を同じ時間にして、後から来た成績不振の子を別の曜日に入れるしがないだろう。これが独りでやる難しさなのだろうと感じた。
 ともあれ、ようやく形になって来そうな気配がして来た。この挑戦がどんな方向に向かうのかは、全く予測不可能だが、これだけは言える。私を頼りにしてくれる子に私は全力を尽くすということだ。
 改めて振り返ると、教員の仕事が最も私に向いていない仕事だった気がする。
 私は何故か、弱い立場の生徒や問題行動を起こす生徒に好かれた。私もそうした生徒に共感し耳を傾けて来た。ある学校では、私を慕う女生徒から「先生、私赤ちゃんできたかも」と告白されたことがある。間違ってもらっては困るが、子供の父親は私ではない。その後、彼女は卒業してすぐに出産した。そして、子供の父親になるべき人を私にあわせて、「先生、この人と結婚して大丈夫ですか?」と尋ねられた。私は親となる覚悟について話して了承した。
 また、ある学校では、問題生徒に「ここは学校なんだぞ!」大声で叱り飛ばす先生を見て愕然としたことがある。問題を起こすような生徒が「ここは学校なんだ」と言われて何がわかるのだろうか。私にはそれが分からないからそうなっているんじゃないのと思えたからだ。その後、私は彼を夕食に誘っていろいろと話を聞いてみた。その子は今でいうネグレクトだったのだ。そんな子が普通の子と同じようにやれる訳がないだろうと思った。だから「お前、自分の将来のために、やれることだけやればいいよ」と話した。その後、その子の学校生活は落ち着いて行った。
 こうした私の行動は、学校という組織では最も嫌われる行動であり、今なら処罰の対象となるだろう。
 しかし、こうした私の行動が学校の危機を救ったこともあったのだ。ある学校では古くからの校則で男子はすべて丸刈りとなっていた。その規則に反発する生徒は丸刈り頭にメッシュを入れたりして反発していた。私の担当した部活の生徒も大半が坊主頭をカラフルに染めていた。私から見ると吹き出しそうだったが、ぐっとこらえて「おまえ等の頭金かかってんな!」などと嘯いたりした。不遜でだらしない部活だった。しかし、私はそんな彼らに部活の面白さを教えることにした。練習は毎日、日曜日もやることにした。(当時は土曜日も学校があった。)すると、メッシュ頭のひとりが「先生、日曜日まで部活なんてやめましょう」と言った。「お前ら勝ちたくないのか。勝には日曜日やるしかないんだよ」と言って強行した。日曜日は来ないのかと思っていたメッシュ頭も練習に来ていた。「先生、ひとりじゃ練習になんねえだろう。だから来てやったんだよ。」と強がっていた。私は彼の時だけは、もう少しで取れそうな打球を打った。捕れない彼は悔しがって「もう一丁」と私に催促して来た。私は同じようにもう少しで取れそうな打球を打った。やはり捕れない。諦めるかと思ったら「もう一丁」というので、今度はさっきよりほんの少しだけ優しい打球を打ってやった。すると今度は見事に捕球した。「すげーな!そんな難しい球とれんのか」と言って誉めた。「当たり前だ、もう一丁来い」というので、今度は少し難しい打球を打ってやった。すると捕った。私も「すげーな!お前うまいじゃねーか!」と全力で誉めた。嬉しそうな顔をしていた。
 こうした繰り返しが続いて、待望の練習試合を迎えた。「先生、俺たち今まで一回も勝ったことないよ」と誰かが教えてくれた。「そうか、じゃ今日初めて勝つのか」というと、「先生、俺たち今日勝てるんですか」と聞くので、「練習して来たんだから勝てるだろう!まあやってみろ!」と答えた。試合が始まると田舎の不良達は縮こまってしまい、力が出ない。4回の裏に3対0となり劣勢だ。私は選手を集めて「お前らあんだけ嫌がっていた日曜日にどんだけ練習して来たんだよ。もっと自分を信じていいんじゃない!」と話して5回表の攻撃に向かわせた。打順も2番からだった。内野ゴロが転がった。高いバウンドで面白いあたりだった。きわどかったが判定はセーフ。次は3番、打たせたいところだが、ここは「待て」のサイン。それを見た打者は、「さあ来い」といった大袈裟な仕草でピッチャーにプレッシャーを与えている。
一球目頭の高さに来る糞ボール、なのに打者はフルスイング。サインの確認をすると、帽子をとって謝った。サインの見間違いだったようだ。
 二球目も高めに浮くボール。三球目は明らかにわかる低めのボール。四球目はなんとデットボール。これでノーアウト1、2累。ここで4番打者の登場。相手のピッチャーは疲れて来ている。ここでも私は「待て」のサイン。思った通りフォアボールでノーアウト満塁。5番打者はこの日2本のヒットを打っている。しかし私はここでも「待て」のサイン。打者はバントのふりをして揺さぶりをかけている。満塁なのでバントは無いはずだが、内野手はスタートを切らざるを得ない。ここで私はサインを「バスターエンドラン」に切り換えた。もし、次の球が大ボールだと、ゲッツーを食らってツーアウトランナー1、2塁となり、6番打者に重圧がかかってしまう。
 しかし、ノーアウト満塁となった時に相手が守備のタイムをとってピッチャーを落ち着かせていた。初球は必ずストライクを取りに来ると読んだのだ。
 すると、ど真ん中のストレートが来た。ランナーは一斉にスタート。バントの構えでボールがよく見えていた打者は遅れ気味にバットにボールを当てて右中間を真っ二つに割った。エンドランがかかっていたランナーはすべて生還、打者走者も二塁に達した。これで同点としてノーアウト二塁となった。ここから下位打線に向かう。サインは「犠牲バント」これを7番打者が一球で決めてくれて流れは完全にこっちに来た。ワンアウト3塁。私は8番打者を打席に送る前に「初球だけフルスイングしていいぞ」と言っておいた。なぜなら、相手がスクイズを警戒して一球目は外して来るに違いなかったからだ。一球目、思った通り外して来た。打者はそのボールをフルスイングした。キャッチャーがベンチを覗いている。しかし、7番打者だし、ランナーは出したくないはず。ツーボール、ワンストライクとなったとき、私は「スクイズ」のサインを出した。ボールは三塁線に転がり見事にスクイズ成功。なんとこの回4点取って逆転に成功した。
 この後、うちのピッチャーが上手く抑えてゲームセット。このチームにとっても私にとっても初勝利となった。
 それからというものは、日曜日の練習をサボる部員はひとりもいなくなった。それだけではない。部員からメッシュ頭が消えた。全員黒い頭に変わったのだ。私は頭について何か指示したことはない。「金かかってんな!」と誉めはしたが、「やめろ」とは一度も言ったことがない。それなのに部員達は全員黒い頭になっていた。
 あえて言えば!私のしたことは部員達と部活を楽しんだだけだ。私にはよくいう「生徒指導」などはできない。生徒の自主性を尊重するとなんとなく「やめろ」とは言えない。だから、いつもダメ教師と思われる。
 それ故、この後生徒指導担当から呼び出され「日曜日の部活をやめろ」といわれてしまう。しかし私は「その訳を言え」と問い詰めると「あんたがやると他の顧問が困るんだよ」と言われた。学校というところは呆れたところだ。やりたくないなら「うちはやらない」と言えばいいだろう。なんでそれが言えないのだ。それでは、「みんな持ってるから私にもゲーム買って」と言われてゲームを買う馬鹿親と同じではないか。私は断固断って、日曜日の練習をやり続けた。おかげで、部活はどんどん良くなり、問題生徒の集まりと言われ続けていた部員達の態度は校長からも誉められるように変わった。
 このように私は他の教員からは常に嫌われる行動ばかりしていた。こんな世界によく30年以上も身を置いていたものだ。
 学校というところは二度と行きたくない場所の一つとなった。
 私がそうした学校嫌いなので、学校嫌いの子と妙に気が合う。気が合えば、学力を伸ばすのは簡単だ。出来るようになるから勉強の時間が楽しくなるのだ。楽しく学力を伸ばすことが出来るのが私の特徴と言えるだろう。その特徴を生かして高校を中退した奴やら不登校やらを集めて、人生の逆転劇を演じさせたい。
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