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アパートの光景

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「お母さん、この家って金持ちと貧乏・・どっちなん?」
 茶の間で編み物をしている母に何となく聞いてみた。
「普通でしょ。何でも普通が一番よ」
 母は編み物の手を止めてこちらを見て「何でそんなこと聞くん?」と面倒臭そうに訊いた。
「会社がつき合うって、どういうこと?」
「そんな話、難しいわ、お父さんに訊いて・・そうそう、陽一、叔母さんから電話があったわよ。八月の一日、電車に乗って駅まで来てって」
 僕のいろんな世の中の疑問が一度に吹き飛んだ。
 叔母さん、映画の上映日に合わせてくれたんだ!
「陽一、同じクラスに長田さんっておるんと違うかった?」急に違う話に変わる。
「おるよ」
 今度は僕が面倒くさそうにする。
「長田さんって、すごく可愛いんやって? それにあそこのお父さん、すごいやり手らしいよ。近所でも噂になってるわ。隣の町に新しくできたスーパーも長田さんとこの系列らしいわよ」
 長田さんの家ってどれだけの金持ちなんだよ。
「長田さんの誕生会に行ったよ」
 僕はぽつりと言った。
「誕生会って、あんたまさか、そんな所に行って恥かいてないやろな?」
「恥なんかかいてへん、大丈夫や」
 プレゼント必須だったとはたぶん思ってもみないのだろう。母はほっとした表情を見せた。

 終業式が近づいたある日、文房具屋でノートを買って帰途についていると急に雨が降り出した。まさしく夕立だ。傘も差さずあのアパートの前を通ると女の人の大きな声が聞こえた。叫ぶような声だった。
 見たことのない若い男がいた。三十歳前後に見えた。
 アパートの前で、その男はしがみついて離れない女を振り解こうとしていた。
「離さんかいっ」
 女はあのシュミーズの女だった。今日は服を着ているが、びしょ濡れになっている。
「あの子なら、私がよおく躾けるから、トシオみたいなええ子にするから、行かんといてえな」
 女の剥き出しの腕がひどくぶよぶよして見える。
「あいつ、薄気味悪くてたまらんのんや。まだ小さいのに女の目をしとるんや」
「待ってえな、今度、いつ来るか教えてえな」恥ずかしげもなく女は叫んでいる。
「やかましいっ!」
 男は女の手を振り解くと駅の方にさっさと歩き出した。女は諦めたのか、その場にうずくまっている。大人の男女の醜さを垣間見た気がして僕は逃げるように駆け出した。
 このままここにいたら心が汚れてしまうような気がした。
 早く叔母さんに会いたかった・・
 夏休みに入ると修二とクワガタや蝉を捕りに山に行ったりした。修二がいない時には本を読んだりして過ごす。本を読み終えると、本の話がしたくなってまた叔母さんに会いたくなる。
 日曜日には父と一緒に近くの山に登ったりした。
「お母さんも一緒に山に登ればばええのに」
「お母さんは怖がりやからな、山以外でも何でも怖がるんや」
 夏休みに入ってもプールの授業のために登校したりする。
 水着で並んだ女子生徒たちの中に小川さんの姿はなかった。水着を着た小川さんを見たことがない。

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