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◇
「加奈子、長田さんっていう金持ちの娘さん、十一月のピアノの発表会に出るらしいわよ」
誰に聞いたのか知らないけれど、ピアノ教室から帰るなりお母さんがそう言った。
どう答えていいかわからない。
来月の発表会を控えて十分にプレッシャーを抱えているところに長田さんの話を持ち出されても。
発表会には他にもこの町の女の子が数人出ると聞いている。その中にはきっと私より実力がある女の子がいるだろう。
長田さんだけが特別なのではない。
「お母さん、どうして長田さんの話をするの? クラスだって違うし」
お母さんは何を気に病んでいるのだろう?
「だって、あそこの家、すごいお金持ちだって聞くわ、お母さん、加奈子が心配で」
金持ちっていうこと、発表会の審査に関係があるのだろうか?
私にとってはピアノを弾くことは神聖なものなんだ。
家の格式とかに左右されて欲しくない。
「今日、ピアノの先生に、もうかなりの実力がついてるって言われたよ。発表会も上位に入れるかもしれないって」
そもそも、私はどうしてピアノを弾いているのだろう?
両親に言われ、両親を喜ばせるため? 最初はそうだったはずだ。
そして香山さんが持っていない才能を私が持ちたかった。
けれど、ピアノを弾いていなければ年頃の女の子がそうであるようにもっと違う生活を送っていたかもしれない。
私は智子ともっと遊びたかった。日が経つにつれてそう思う気持ちが強くなった。
そうだ、一緒に遊園地にいくのもいいかもしれない。
智子はきっと喜ぶだろう。それから駅前に言ってお洋服を買おう。
「芦田堂」の和菓子をふんだんに食べるのもいい。
クリスマスの夜も一緒に遊んで、お正月には一緒に初詣に行こう。
同じクラスの須藤さんが前に「石谷さんと芦田さんって、全然タイプが違うのに仲がいいんだね」と言っていたのを思い出した。
タイプとかあまり考えたことはなかったけど、どちらかと言うと私は暗い。あまり同級生と遊んだりしない。家に帰っても勉強ばかりしていた。
それに比べて智子は明るい。たぶん、小さい頃から友達とよく遊んだりしていたと思う。
これは私の想像だけど、智子は嘘とか曲がったことが嫌いだと思う。
ああ、だから、私は智子を誰よりも信用して、智子のことがとても大事で。
そんなことを考えながら、楽譜を取り出してピアノに向かった。
発表会用の曲「エリーゼのために」だ。
私はこれを完璧に弾かなければならない。
◆
長田さんの教室での席は廊下側の一番前だ。
気をつけて見ていると香山さんの言う通り本当のお嬢さまに見える。
成績もいいのだろうか?先生に質問されても間違うこともあまりない。
それに何と言っても容姿端麗だ。瞳も青く髪も金色で彼女だけを見ていれば、ここが日本ではないかのように感じてしまう。
休み時間も静かに教科書を見ていたり、時々何かの本を読んでいたりする。
給食の時間には長田さんの取り巻きの清田さんや八木さんが机を引っ付けてきて一緒に食べたりしている。
清田さんたちは長田さんの髪型を真似ているみたいで傍からみれば異様な雰囲気だ。廻りの席の子は迷惑そうにしている。
だが、そんな時も清田さんと八木さんは長田さんに話しかけるような感じでもなく、自分たち同士でしゃべり合っているのだ。
そう、長田さんは誰とも話していない。
時々清田さんたちに何かを聞かれて頷いたり、少し何かを言って返事くらいはしているけれど、基本的には彼女は何も言っていないのだ。
僕はよくわからなくなった。
それによく考えると彼女のことはどうでもいいことだ。どうして長田さんのことが気になったのだろう? あの投書を読んだせいだろうか?
誰に害があるわけでもない。
彼女が委員長で僕が副委員長でもあまり関係もなかった。
香山さんがかなり優秀みたいで何でも率先してやっている。はっきり言って僕は置いてきぼりの用なしのような存在に思える。
僕たちの教室は時々班分けみたいなことをする。生徒を何人かのグループに分けて、机を引っ付け合って学習したり、意見を出し合ったりする。
班分けの決め方やなんかもきちんと進めたのも香山さんだ。
班には順番で回すノートもあって、まるで日記のように今日の出来事、自分の趣味や、っ休日に家族でしたことなどを書いて次の人に回す。だから、このノートを見ると同じ班の人のは読むことが出来る。
中には先生の悪口を書いたり、不得意科目についてあれこれ書いたりする子もいる。
僕はその中にあの長田さんのことを書いた投書の文字と同じ文字を見つけた。
それは井口さんの字だった。すごく丁寧な字だし、すぐにわかった。
井口直子、小川さんのように大人しい子だ。
小川さんも香山さんがいない時にはよく井口さんと話したりしている。
確か、連絡網が小川さんの前だ。
◆
次の日の夕方、叔母さんが仕事で自分の家に帰らなければならなくなったので僕は駅前まで一緒に行くことになった。
駅前の本屋で買いたい本があったし、駅まで叔母さんを送っていくのは丁度良かった。
「陽ちゃん、自転車に乗せてって」
そう言いながら叔母さんはもう自転車を勝手に出してきている。
「駅前、ごちゃごちゃしてるから危ない」
また、知ってる人に会いそうだ。
「本当は駅まで私を乗せて自転車を漕ぐ自信ないんでしょ?」
「そ、そんなことあらへん」
そんなことを言われて断る男もいないだろう。
「その代わり、駅前の本屋で文庫を買ってっ」
「ええよ、私、陽ちゃんにお小遣いあげてへんから、それくらいは買ってあげる」
お小遣い? 僕は叔母さんにとって一体何なんだ?
僕は自転車に跨ってバランスを整えた。
「かまへんよ、後ろに乗ってっ」
僕がそう言うと叔母さんは自転車の後ろに腰掛け両足を揃えて横にぶらんと出した。
僕はペダルを踏み込んだ。まず北へ向かって銭湯のある右の方へ曲がる。
「ここからちょっと、降りて、自転車押して歩く」
「なんで?」
この辺りは絶対知っている人に出会う。二人乗りはちょっと恥ずかしい。
「人通りが多いからや」僕は言い訳のように言う。
「そうかなあ? 多いかなあ?」
叔母さんはそう呟いたあと銭湯の前で「和菓子屋の可愛いお嬢さんや」と芦田さんを見つけて大きな声を上げた。
ほら、もう知ってる人に会ってしまった。
芦田さんは二組の女の子だ。音楽室でピアノを弾いていた石谷さんの友達だ。
「あ、こんにちは」
芦田さんは驚いたような顔を見せ挨拶する。
叔母さんって芦田さんの知り合いやったんか?
「おでこの大きなお怪我、もう治ったん?」
叔母さんは芦田さんのおでこを指して訊いた。
「はい、もうこの通りです」と言って芦田さんはおでこをポンと叩いて見せた。
そっか。母と叔母さん、前に「芦田堂」で大福買ってきてたっけ。
「村上くん、こちらの方、村上くんのお姉さんだったの?」
「はい、陽一の姉の優美子です」
僕が答える代わりに叔母さんはそう自己紹介して頭を下げた。
「ちゃうって。芦田さん、僕の叔母さんや」
「かまへんやん。そう言わしてえな」
向かいの文房具屋のご主人が店の中からこちらを見ている。
「なんか、二人とも、おかしい」
僕たちを交互に見て芦田さんはくすりと笑った。
「ほら、お姉ちゃん、笑われてしもうたやんか」
僕が間違って言ってしまうと芦田さんは「やっぱりお姉さんや」と言って笑った。
あとで芦田さんにちゃんと言わないといけないな。それより今は早く立ち去りたい。
「優美子さん、私、芦田智子と言います」
僕の気持ちとは正反対に芦田さんは自己紹介を始めた。
「陽ちゃんと同じクラス?」
「違います。二組です。よろしくお願いします」
芦田さんは根っからの商売人の娘さんなんだろうな。自分をちゃんと売っている。
「あの、優美子さん、またお店に来てください。待ってます」
芦田さんは丁寧に頭を下げた。
「村上くん、本当はお二人のご関係、知ってるよ」
芦田さんにからかわれた。でもイヤな感じはしなかった。
「お姉ちゃん、はよ、行こ、電車に乗り遅れるっ」
僕は自転車に跨って叔母さんを急かした。
「電車やったら、何本でもあるから、そんなに急がんかてええのに」
「そしたら、またね」叔母さんは芦田さんに挨拶をして自転車の後ろに乗った。
「陽ちゃん、ここ、人通りが多いから歩くって言うとったんとちゃうん?」
しまった、忘れてた。
「加奈子、長田さんっていう金持ちの娘さん、十一月のピアノの発表会に出るらしいわよ」
誰に聞いたのか知らないけれど、ピアノ教室から帰るなりお母さんがそう言った。
どう答えていいかわからない。
来月の発表会を控えて十分にプレッシャーを抱えているところに長田さんの話を持ち出されても。
発表会には他にもこの町の女の子が数人出ると聞いている。その中にはきっと私より実力がある女の子がいるだろう。
長田さんだけが特別なのではない。
「お母さん、どうして長田さんの話をするの? クラスだって違うし」
お母さんは何を気に病んでいるのだろう?
「だって、あそこの家、すごいお金持ちだって聞くわ、お母さん、加奈子が心配で」
金持ちっていうこと、発表会の審査に関係があるのだろうか?
私にとってはピアノを弾くことは神聖なものなんだ。
家の格式とかに左右されて欲しくない。
「今日、ピアノの先生に、もうかなりの実力がついてるって言われたよ。発表会も上位に入れるかもしれないって」
そもそも、私はどうしてピアノを弾いているのだろう?
両親に言われ、両親を喜ばせるため? 最初はそうだったはずだ。
そして香山さんが持っていない才能を私が持ちたかった。
けれど、ピアノを弾いていなければ年頃の女の子がそうであるようにもっと違う生活を送っていたかもしれない。
私は智子ともっと遊びたかった。日が経つにつれてそう思う気持ちが強くなった。
そうだ、一緒に遊園地にいくのもいいかもしれない。
智子はきっと喜ぶだろう。それから駅前に言ってお洋服を買おう。
「芦田堂」の和菓子をふんだんに食べるのもいい。
クリスマスの夜も一緒に遊んで、お正月には一緒に初詣に行こう。
同じクラスの須藤さんが前に「石谷さんと芦田さんって、全然タイプが違うのに仲がいいんだね」と言っていたのを思い出した。
タイプとかあまり考えたことはなかったけど、どちらかと言うと私は暗い。あまり同級生と遊んだりしない。家に帰っても勉強ばかりしていた。
それに比べて智子は明るい。たぶん、小さい頃から友達とよく遊んだりしていたと思う。
これは私の想像だけど、智子は嘘とか曲がったことが嫌いだと思う。
ああ、だから、私は智子を誰よりも信用して、智子のことがとても大事で。
そんなことを考えながら、楽譜を取り出してピアノに向かった。
発表会用の曲「エリーゼのために」だ。
私はこれを完璧に弾かなければならない。
◆
長田さんの教室での席は廊下側の一番前だ。
気をつけて見ていると香山さんの言う通り本当のお嬢さまに見える。
成績もいいのだろうか?先生に質問されても間違うこともあまりない。
それに何と言っても容姿端麗だ。瞳も青く髪も金色で彼女だけを見ていれば、ここが日本ではないかのように感じてしまう。
休み時間も静かに教科書を見ていたり、時々何かの本を読んでいたりする。
給食の時間には長田さんの取り巻きの清田さんや八木さんが机を引っ付けてきて一緒に食べたりしている。
清田さんたちは長田さんの髪型を真似ているみたいで傍からみれば異様な雰囲気だ。廻りの席の子は迷惑そうにしている。
だが、そんな時も清田さんと八木さんは長田さんに話しかけるような感じでもなく、自分たち同士でしゃべり合っているのだ。
そう、長田さんは誰とも話していない。
時々清田さんたちに何かを聞かれて頷いたり、少し何かを言って返事くらいはしているけれど、基本的には彼女は何も言っていないのだ。
僕はよくわからなくなった。
それによく考えると彼女のことはどうでもいいことだ。どうして長田さんのことが気になったのだろう? あの投書を読んだせいだろうか?
誰に害があるわけでもない。
彼女が委員長で僕が副委員長でもあまり関係もなかった。
香山さんがかなり優秀みたいで何でも率先してやっている。はっきり言って僕は置いてきぼりの用なしのような存在に思える。
僕たちの教室は時々班分けみたいなことをする。生徒を何人かのグループに分けて、机を引っ付け合って学習したり、意見を出し合ったりする。
班分けの決め方やなんかもきちんと進めたのも香山さんだ。
班には順番で回すノートもあって、まるで日記のように今日の出来事、自分の趣味や、っ休日に家族でしたことなどを書いて次の人に回す。だから、このノートを見ると同じ班の人のは読むことが出来る。
中には先生の悪口を書いたり、不得意科目についてあれこれ書いたりする子もいる。
僕はその中にあの長田さんのことを書いた投書の文字と同じ文字を見つけた。
それは井口さんの字だった。すごく丁寧な字だし、すぐにわかった。
井口直子、小川さんのように大人しい子だ。
小川さんも香山さんがいない時にはよく井口さんと話したりしている。
確か、連絡網が小川さんの前だ。
◆
次の日の夕方、叔母さんが仕事で自分の家に帰らなければならなくなったので僕は駅前まで一緒に行くことになった。
駅前の本屋で買いたい本があったし、駅まで叔母さんを送っていくのは丁度良かった。
「陽ちゃん、自転車に乗せてって」
そう言いながら叔母さんはもう自転車を勝手に出してきている。
「駅前、ごちゃごちゃしてるから危ない」
また、知ってる人に会いそうだ。
「本当は駅まで私を乗せて自転車を漕ぐ自信ないんでしょ?」
「そ、そんなことあらへん」
そんなことを言われて断る男もいないだろう。
「その代わり、駅前の本屋で文庫を買ってっ」
「ええよ、私、陽ちゃんにお小遣いあげてへんから、それくらいは買ってあげる」
お小遣い? 僕は叔母さんにとって一体何なんだ?
僕は自転車に跨ってバランスを整えた。
「かまへんよ、後ろに乗ってっ」
僕がそう言うと叔母さんは自転車の後ろに腰掛け両足を揃えて横にぶらんと出した。
僕はペダルを踏み込んだ。まず北へ向かって銭湯のある右の方へ曲がる。
「ここからちょっと、降りて、自転車押して歩く」
「なんで?」
この辺りは絶対知っている人に出会う。二人乗りはちょっと恥ずかしい。
「人通りが多いからや」僕は言い訳のように言う。
「そうかなあ? 多いかなあ?」
叔母さんはそう呟いたあと銭湯の前で「和菓子屋の可愛いお嬢さんや」と芦田さんを見つけて大きな声を上げた。
ほら、もう知ってる人に会ってしまった。
芦田さんは二組の女の子だ。音楽室でピアノを弾いていた石谷さんの友達だ。
「あ、こんにちは」
芦田さんは驚いたような顔を見せ挨拶する。
叔母さんって芦田さんの知り合いやったんか?
「おでこの大きなお怪我、もう治ったん?」
叔母さんは芦田さんのおでこを指して訊いた。
「はい、もうこの通りです」と言って芦田さんはおでこをポンと叩いて見せた。
そっか。母と叔母さん、前に「芦田堂」で大福買ってきてたっけ。
「村上くん、こちらの方、村上くんのお姉さんだったの?」
「はい、陽一の姉の優美子です」
僕が答える代わりに叔母さんはそう自己紹介して頭を下げた。
「ちゃうって。芦田さん、僕の叔母さんや」
「かまへんやん。そう言わしてえな」
向かいの文房具屋のご主人が店の中からこちらを見ている。
「なんか、二人とも、おかしい」
僕たちを交互に見て芦田さんはくすりと笑った。
「ほら、お姉ちゃん、笑われてしもうたやんか」
僕が間違って言ってしまうと芦田さんは「やっぱりお姉さんや」と言って笑った。
あとで芦田さんにちゃんと言わないといけないな。それより今は早く立ち去りたい。
「優美子さん、私、芦田智子と言います」
僕の気持ちとは正反対に芦田さんは自己紹介を始めた。
「陽ちゃんと同じクラス?」
「違います。二組です。よろしくお願いします」
芦田さんは根っからの商売人の娘さんなんだろうな。自分をちゃんと売っている。
「あの、優美子さん、またお店に来てください。待ってます」
芦田さんは丁寧に頭を下げた。
「村上くん、本当はお二人のご関係、知ってるよ」
芦田さんにからかわれた。でもイヤな感じはしなかった。
「お姉ちゃん、はよ、行こ、電車に乗り遅れるっ」
僕は自転車に跨って叔母さんを急かした。
「電車やったら、何本でもあるから、そんなに急がんかてええのに」
「そしたら、またね」叔母さんは芦田さんに挨拶をして自転車の後ろに乗った。
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