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第四話

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「よかったねぇ」

ベッドに座る入浴後の温もった尋史の膝の上で、覚が小さな尻尾をふるりと揺らしながら見上げてくる。

「家族の絆が深まって、僕も安心したよ。いつまで経ってもお父さんのメールに返信しないし、気にしてたんだから」
「おかげさまで。ありがとね、さとちゃん」

長い間、心を重くしていた鉛がすっきりと消えたような気持ちだった。
覚の柔らかい毛を撫でながら、改めて自室を眺める。
何年も使われる事のなかった自分の部屋。
年季の入った机にベッドにタンスに。
全て高校生の時まで住んでいたマンションから持って来た尋史のものを並べている。
その為、部屋自体に馴染みはないのに、いやに落ち着く空間になっていた。
よく見ると、細かなところまで掃除が行き届いている。
義母が掃除し続けてくれていたのだろう。
いつ帰るともしれない義理の息子の為に。

「……親孝行、がんばらないとな」
「ふふっ。少し前の尋史くんとは別人だね」
「うっ……反省して、生まれ変わったんだよ」
「なるほど、なるほど」

うららかに笑っていた覚の声が急に途切れた。
それと同時に、ドアがノックされる。

「義兄さん、入っていい?」

エロ悪代官だ。

「う、うん……どうぞ」

尋史は覚を抱きしめた。
夕食後の団らんまでは、素敵なイケメンだった柊真。
だが、尋史が風呂に入った瞬間にエロ悪代官へと変貌した。
入浴時に聞こえてきた心の声には、正直、身の危険を感じてしまうほどだった。
今にも浴室に入ってくるのではないかと本気で思ったぐらいだ。
裸のふみちゃんを妄想しまくって、大いに下ネタで騒いで水音一つに盛り上がっていた。
同じ男として共感はできるが、その対象が自分になると話は別である。

(ぐっ……風呂上りのふみちゃん色っぽい! 薔薇色の肌、火照った顔。しっとりとした髪。俺がドライヤーかけたかった……。うわ、うなじエロ! 破壊力がすさまじいな。ああっ、俺達、同じシャンプーの匂いっ)

落ち着いてくれ。
両親だって同じ匂いだ。

(こんなにいやらしいふみちゃんと同じ屋根の下……今晩、寝られるかな……)

ただの風呂上りの義兄だ。
尋史はそう言いそうになるのをどうにかこらえた。
お願いだから、ぐっすり眠ってくれ。

「隣、座るね」

胸中の不埒な盛り上がりなど一ミクロンも表に出さずに、柊真がすまし顔でベッドに腰掛けた。
距離が近いような気がするのは自意識過剰だろうか。

「義父さん達、喜んでたね。母さん泣いちゃってたし」
「うん……あんなに喜んでもらえるとは思わなかった。と同時に、とんでもなく親不孝をしてた事を思い知ったよ」
「これから、沢山親孝行すればいいよ」
「そうだな。二人共さとちゃんにベタ惚れして、また泊まりに来てって言ってくれたし、近いうちに」
「その時は、俺も一緒でいいよね?」
「え……」
「えって……もしかして嫌?」
「いや、違う違う! もちろん、また皆で来よう」

尋史は意識して口角を上げた。
次回は冗談抜きで一緒に入浴してきそうだ。

「ありがとう。次回も楽しみだね」

柊真は本当に嬉しそうな顔をした。
イケメンはさり気ない表情すら、見惚れるぐらいにさまになる。
その上、風呂上りの血色のいい肌は、義弟の精悍さにほのかな男の色香をそえていた。
いやらしい雰囲気なのはどちらなのか。

「……礼を言うのは俺の方だよ。父さん達と色々話せたのも、全部柊真のおかげ。俺一人なら、意地をはって何も進まなかった。本当に感謝してる。ありがとう」
「俺は何もしてないよ」

(かわいい……かわいいよ、ふみちゃん……。さとちゃんもかわいいから、きっと類は友を呼ぶってやつかなぁ。二人ともモフモフしたい。裸のふみちゃんにモフモフしたい)

ええ……。

出たよ、エロ悪代官。
全くもって外と中の空気が違うんですけど。
今、わりと真剣な話をしてるよな?
何が類友だ、何が裸にモフモフだ!

「しただろっ? 会ったその日にありとあらゆる連絡先を交換して、飲みの約束までしてさ。あまりに積極的だからびっくりした!」

尋史は抱いていた覚を、少し乱暴に柊真の膝の上にうつした。
かわいいのは覚だけで結構だ。

「いろいろ悩むより、さくっと距離を縮めた方が楽じゃない?」
「……本当に、いつもそれなんだな」
「それのおかげで、今まで元気に生きてこられたからね」

柊真がわざとらしく得意げな顔をして、尋史は思わず吹き出した。

「柊真のそういうとこ、見習わないとな。俺、いつもウジウジして、さとちゃんに怒られてばっかりだし」
「さとちゃんに?」
「あ……」

しまった。
つい、普通に話してしまった。

「そ、そう。俺の愚痴とか聞いて、にゃんにゃん叱ってくれるんだ」

尋史に合わせて、覚がにゃんにゃんと鳴いてくれる。
タイミングのよさに、柊真が楽しそうに表情をほころばせた。

「本当にかしこい子だね。叱ってくれるのも、心配だからだよ。ウジウジっていうのは、それだけ色々考えて慎重って事だしね。俺は勢いで動いて後悔するってパターンがあるから。どっちがいいっていうのはないと思う。まぁ強いて言えば、足して割れば……いや、そのまま割らずにいるのがちょうどいいかな?」
「俺と柊真を?」
「そうそう。義兄弟、一心同体ってやつ」

(本当に一つになれたらいいのに……。ふみちゃん、恋人いるのかな。いたら、生きるのが辛くなるな……)

キュンと胸が高鳴った。
地味でしょぼい石相手に、一つになれたらとか、恋人いるのかとか。
どれだけ酔狂なんだ。
いるわけないだろう恋人なんて。
尋史に恋してくれるのは、全宇宙で柊真だけだ。
本当に見る目がない。
宇宙一、見る目がない。

「……柊真は付き合ってる人いる?」

覚を撫でていた義弟の手が止まる。
きっと、心の声に応えるような質問だったので驚いたのだ。

「い、いないよ……義兄さんは?」
「……いるよ。驚くほどかわいい子。自慢なんだ」
「え……」
「さとちゃん」
「ん?」
「俺の恋人。もふもふしてかわいいだろ?」

そう言って覚を撫でながら、いたずらっぽい視線を義弟に投げかける。
冗談に気付いた柊真が遅れて笑い声をもらした。

「なんだ、そういう事。独身がペットを飼ったら、恋愛なんかそっちのけで夢中になるっていうけど」
「それそれ。俺、さとちゃんに夢中なの」

安心した表情を見せた柊真に、胸の奥がくすぐったいような気持ちになった。
心の中を読んだあげくに、からかうような冗談を言って。
人として最低だ。
そう思うのに。
向けられた想いを確認する度に、尋史の言葉で一喜一憂する柊真を見る度に。
恋心をもっと知りたい、感じたいと思って仕方がなくなる。
指先を軽く噛まれて目をやると、覚が鋭い視線を向けてきた。
分かっている。
言いたい事はちゃんと分かっているから。
そう思いを込めて顎の下をくすぐると、覚は不満げに鼻を鳴らした。





「ねぇ……大丈夫なの?」
「何が?」
「何って、柊真くんの事に決まってるでしょ。ずいぶんと仲良くなっちゃってさ」
「まぁ、義兄弟だから、多少は……」
「はぁ? そういう話じゃないのは分かってるでしょ? 少女マンガの恋するヒロインみたいな顔して」
「し、してないっ。同性の義兄弟にそんな気持ちなんてあるわけないだろっ」
「どうだか。今日だって楽しみにしてるの丸出しじゃない」
「別に、そんな……」

実家に泊まりに行ってから二週間が経った。
あれから両親と連絡をとり合うようになり、疎遠だったのが嘘のように距離が縮まった。
こんなに早く家族との交流が普通にできるようになるなんて、夢にも思っていなくて。
全てを段取りして、背中を押してくれた柊真に、改めてお礼がしたい。
そう思って今日は義弟を自宅に招いていた。

「本当にさ――」

心配する覚の声をインターホンのチャイムがさえぎった。

「あ、来た来た!」

呆れた視線を送ってくる妖怪を置いて玄関へ向かう。

「こんにちは、義兄さん」
「いらっしゃい。すぐに分かった? 迎えに行ったのに」

ドアを開ければ、爽やかに笑む柊真。
白いシャツに、黒い細身のパンツ。
シンプルな装いがよく似合っている。
少しだけ胸の鼓動が増している事には目をつぶった。

「大丈夫だったよ。この辺は知ってる場所だったし」

(ふみちゃんちは前から知ってたし)

知ってたのかよ。
どうやって知り得たのか。父も詳しい場所は分からないはずだが。
知らない方が身の為ってやつだろう。

「あ、このいい匂いは……」
「もうバレた?」

柊真が部屋の奥へと目を向ける。
ソファ前のローテーブルの上には、ハムやソーセージ、ベーコンが鮮やかな野菜と共に彩りよく皿に盛られていた。
今朝早く起きて、手際の悪さを存分に見せつけながら尋史が簡単調理したものだ。

「かたよったメニューだけどさ。全部、俺の職場が売り出してるものなんだ」
「まつまるフーズの商品だね! どれもおいしそう。自分の家で自社製品はよく食べるの?」
「そうだなぁ。新商品は基本的に全部うちで食べてみるかな。職場に調理室があるから、そこで色んな調理法を皆で試したりする事も多いけど。やっぱ取引先には家で作ってみた感想とかも交えてプレゼンしたいから。って言っても、手軽にできるもんに限るけどね」
「素晴らしい心がけの営業マンだね」
「普通だよ」

ソファに促そうとすると、覚が柊真の持っている紙袋に擦り寄った。
見覚えのある、あのチェック柄の茶色い袋は――。

「あ、さとちゃんに見つかっちゃった。でも、ごめんね。これ、さとちゃんが食べられないやつなんだ。義兄さんが好きだって話してた駅前のモンブラン。買ってきたんだ」
「あ、ありがとう……悪いな気を遣わせて」

覚の視線が痛い。
いわずもがな、駅前のモンブランはさとちゃんが食べられるやつだ。
しかも、大好きなやつ。
よく買ってとせがまれるのだが、値段が高いのでたまにしか頷かない一品だ。

「さとちゃんにはこっちだよ。食べ物の好みが分からなかったら、無難に水にしちゃった。実家に来てくれた時においしそうに飲んでたから」

袋から出てきたのはペット用の天然水だ。
水マニアの覚が目を輝かせる。
ペット用の食事を準備すると烈火のごとく怒るのだが、天然水だと気分を害さないようだ。

「早速この水飲もうか。ね、さとちゃんっ」

機嫌をとってみるが、恨みがましい視線が返される。
近日中に同じモンブラン買ってくるから。焼き菓子も何個かつけちゃう! と心の中で大盤振る舞いをすると、どうにか納得してくれたようだ。
前にショートケーキが原因で大げんかをして、二日間ぐらい口をきかなかった事がある。
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。

「色んな料理にすればよかったんだけど、やっぱシンプルに焼くか茹でるのが一番おいしいからさ」

半分は真実だが、半分は簡単な調理しかできない尋史の言い訳である。
テーブルに置いてあるものは、どれもさらっと加熱されたものばかり。
それさえも、いやに手際が悪かったのを知っている覚は、声もなくニヤニヤ笑っているのだが。
柊真は純粋に頷いて、キラキラと恋に輝く瞳で尋史に視線を送っていた。

「結局、シンプルが一番だよね。どれが義兄さんのおすすめ?」
「う~ん。やっぱ人気の高いプレーンなやつかなと思うけど、ソーセージならこのハーブのやつも、かなりうまいんだ。軽く茹でてから、こげ目がつくぐらいに焼いたら最高で。あ、待てよ。今のおすすめはこっちのハムかも、チーズが入ってて――」

饒舌にテーブルの上の商品を紹介する尋史を、柊真は楽しそうに眺めている。

「ようは、全部おすすめかな?」

尋史は笑った。

「そうだな。味は全部うまい。保証する」
「よし、全て期待して食べよう」

柊真がこぼれ落ちそうな笑みを返してくる。

(ああ……本当に好きだな。ふみちゃん、大好き……)

何でもないような瞬間に、そんな素敵な笑顔で。
気持ちがあふれて止まらないとでも言うように。
頭の中に切なく届く、恋の声。
聞けば聞くほど、自分の心の形が変わっていく気がする。
柊真の甘い声でどろどろに溶かされ、今までにない形に。
どんな顔をすればいいか分からなくて、口が動くままに商品を語り、食べていく。
顔を上げれば、キラキラと輝くイケメンの笑顔。
自宅なのに居たたまれないとは、どういう事か。
お気に入りのハーブのソーセージを口に入れても、あまり味がしない。
あれだけ否定しておきながら、少女マンガのヒロインそのものになっているではないか。
高鳴る心臓を持て余している間に、柊真はテーブルに並ぶもの達を嬉しそうにたいらげていく。
賛辞を惜しまない爽やかな微笑みは、食後のデザートになっても続いていた。

「ん! この店のモンブランは、初めて食べるけどおいしいね」
「だろ? 甘すぎないで軽めのクリームなのに、栗の風味がしっかりしてて」
「いいね。義兄さんは食レポがうまい」
「誰だってこれぐらい言うだろ」

尋史はマロンクリームを食べる柊真のきれいな手の動きを無意識に見つめていた。

「柊真はさ、人を褒めるのが上手だよな」
「そう?」
「うん。褒めるのって、結構難しいじゃん? 思っても口に出すのが恥ずかしかったり、決まり悪く感じたり。柊真はそんな抵抗を感じさせずに、さらっと自然に褒めてくれるから、感心してた」
「……気にした事なかった」
「自然にできてるっていいよ。わざとらしく褒められても気持ち悪いだろ? その辺のバランスが上手いなぁと。まぁ、人タラシってやつだよな。これまで、素晴らしくモテたんだろうなぁ柊真くんは!」

茶化した視線を送ると、ひどく真剣な眼差しとぶつかった。

「俺、普段は誰も褒めないよ。そんなに他人に興味ないし」
「……そうなんだ。褒め上手に感じたから」
「俺が褒めるのは義兄さんだけ」
「……何で?」
「義兄さんにモテたいからね」
「そ、んな事しなくたって……」

しなくたって、何だろう。
言葉が続かない。
いや、本当は分かっている。
心の中に続く言葉があるのに、必死に理性が消そうとしているのだ。

「義兄さん……」

美しい黒曜の瞳を吸い込まれるように見つめてしまう。

「……口の端。クリームがついてる」

柊真の長い指がそっとクリームをぬぐう。
親指が唇の端に触れた。

(柔らかい唇……キス、したい……)

え――。

ゆっくりと唇をぬぐわれながら、柊真の顔が近づいてくる。
心臓が爆発しそうなぐらいに激しく鼓動する。
そんな、本当に――。
避けないといけないのに、柊真の唇に思考も視線も奪われる。

(ふみちゃん……)

「あ……」

小さく声を漏らした瞬間に、黒いもふもふが二人の間に割って入ってきた。

「さ、さとちゃんっ」

義弟の体が勢いよく離れていく。

「……ご、ごめん、まだクリームがよくとれてない」
「え、あ……クリーム……うん。さ、さとちゃん、暴れないで!」

尋史の体を叩きながら、覚が睨んでくる。
さとちゃん、ごめん。俺、今、雰囲気に流されてた。
柊真とキス、しようとしてた。

(やってしまった……ふみちゃんがかわいくて、つい……)

ごまかすように、柊真が何か話している。
それが上手く頭に入ってこない。
心臓がバクバクと激しい音をたてて、ひどくうるさい。
いくら雰囲気に流されたからといって、義弟とキスをしそうになるなんて。

「……今日はありがとね、義兄さん」
「これぐらいじゃ全くお礼になってないよ」
「充分だよ……。あの、義兄さん、ごめん。本当に、ごめんなさい……」

気まずさが限界に達したのか、柊真がソファから立ち上がる。

「片づけも手伝わずにごめん。今日は帰るね」
「と、柊真っ!」

追う間もなく、義弟の後姿がドアの向こうに消えていく。

「帰っちゃったね……」

静かになった部屋に、覚の声が寂しく響く。

「今の、尋史くんも悪いと思うよ」
「分かってるよ」
「本当にっ? 嘘つかないでよ。ぜんっぜん分かってないよね?」
「さ、さとちゃん……」

覚が急に声を荒くして、尋史は顔を引いた。

「義弟はありえないって言ってたの誰だっけ?」
「…………」
「また黙る。僕が止めなかったら絶対にキスしてたでしょ? 一体どういうつもりなの?」
「どういうつもりもないよ。つい流されたというか……」
「その場の雰囲気に流されたら、恋愛感情のない義弟と、ついキスしちゃうの? どうかと思うけど」

覚の声が非常に刺々しい。
もっともだ。どうかしている。
何も返せない尋史に、覚は大きくため息を吐いた。

「尋史くんの気持ちがどうであれ、それを否定するつもりはないよ。ただ、最終的に気持ちに応えるつもりがないのなら、きちんと線引きはしておかないと。心に壁を作ったとしても、言葉の力は……言霊は、僕達が思う以上に強いからね。それが自分への好意なら尚更……。本当にその気がないのなら、言葉に取り込まれないように。僕は後悔に苦しむ尋史くんを見たくないよ」
「うん……」

柊真に唇を求められた時。
見つめ合っただけで心が絡め取られ、思考がとろけて。
唇を撫でる柊真の指。ただ一心に尋史への熱を宿した柊真の瞳。

もし、覚が止めてくれなかったら俺は――。

だめだ。
そんな、誰も幸せになれないような事。
スマートフォンが短く鳴る。確認すると、義母からのメールだった。
実家に行った時にアドレスを交換してから、何度か連絡が来ていた。
短い文章の中に、母としての優しさと気遣いが見てとれる。
親子そろって、さり気なく思いやるのが得意のようだ。
罪悪感が胸の奥から這い上がってくる。
見目良く、誠実で真面目な義弟。
市川家の自慢の息子だ。
誰もがうらやむ幸福を手にする事を両親は願っている。
もちろん、義兄である尋史もだ。
世界中に自慢できる幸せを柊真に。
だから、義兄弟と恋人になるなんて。
豊かな人生になりえないではないか。





「前に届いた販促ポスターってどこに置いたっけ?」
「使ってない方の会議室に置きましたよ。入ってすぐ左のテーブルです」

尋史は作り上げた表情で、会議室の方へ顔を向けながら言った。
最近、顔の筋肉が重く感じる。
今日は一段と表情を変えるのに苦労している気がした。
柊真を自宅に招待した日以降、彼からの連絡は途絶えてしまった。
恋の声までもが全く消えて、尋史の頭の中は急に寂しくなった。
声の正体が柊真だと分かってから、仕事中にも聞こえてくる回数は多くなっていたのに。

いいじゃないか。その方が好都合だ。恋の声に応える気なんてないんだから――。
キスまでしようとして、あんなに好き好き言っていたくせに。急に聞こえなくなるなんて――。

相反した自分勝手な気持ちが尋史の心をぐちゃぐちゃにかき乱す。
頭の中から追い出したいのに、柊真の表情、声が、脳内を支配していて。
苦しい。
恋の声を求める心と義弟の幸福を願う心と。
思考が暴れて、頭がグラフラする。

「おい、市川。大丈夫か?」
「え?」

脳内の混乱を見抜かれたのかと、三田村の一言に動揺する。
そんなに表に出ていただろうか。

「どう見たって具合悪そうじゃないか。顔色悪いし」
「そう……ですか……?」

言われてみれば。
空調はきいているのに、体が不自然に寒い。

「熱があるんじゃないか?」
「言われたら、そういう気がしてきました」
「俺の風邪が今頃になってうつったか?」
「結構前じゃないですか」

小さく笑おうとしたが、ツキンと頭の奥に痛みが走って、上手くいかなかった。
今日はやけに調子が悪いと思っていたのは、精神的なものではなく風邪だったのか。
柊真の事で悩んでいて体調の悪さにも気づかないなんて、我ながら鈍感すぎる。

「早く病院に行って来い。俺もそうしたしな」

時計を見れば、もうすぐ業務終了の時間だ。

「……今日は急ぎの仕事もないんで、定時で病院行きます」

病は気からというが、急激に体がだるくもなってくる。
人の体調には敏感な覚が朝は何も言ってこなかったし、出勤する時は元気だったはずなのだが。
やはり気持ちは大事だ。
クヨクヨ悩んでいるから風邪にもなるのだ。
時計の針が業務終了の時刻をさしたので、長居は無用とばかりにデスクを片付けて隣の病院へと足を向けた。
外に出ると、夜になる前の冷たい風が、嫌な寒気に包まれた体を不愉快に撫でた。
首をすくめながら、尋史は隣のビルの五階辺りを見上げた。
そんなに都合よく会えたり、心の声が聞こえたりするわけがないのに。

もしかしたら、姿が、声が――。

隣のビルに一歩一歩近づく度に、抑えがたい期待感が暴走する。
病院に入ると、水色を基調とした目に優しい待合室には、数えるほどしか人がいなかった。
診察室に呼ばれるのも、そんなに待たなくてよさそうだ。
脱力して待合室のソファに座っている間にも、柊真のどんな声も逃すまいとしている自分が滑稽だった。
こんなに悩むぐらいなら、こちらから連絡をとればいい。
キス未遂の事は何も気にしてないと、これからも仲のよい義兄弟でいようと言って。
後は覚に能力を解除してもらえば終わりだ。
すべき事は分かっているのに。
それが一つもできない。
しようとすらしていない愚かな己の心。
名を呼ばれて診察室に入ると、いつもの院長が穏やかな表情で座っていた。
自分の症状を話そうとすると、思った以上に口が回らなくて、どんどん熱が高くなっているのを実感した。
そういえば、柊真と一緒に行った居酒屋は、この先生が勧めてくれたと言っていたか。
義兄として知らないふりを通すのは如何なものかと思い、ぼんやりする意識の中で義弟が世話になっている礼を言う。
驚いた顔の先生に営業マン得意の笑みを返そうとしたら、体が重すぎて無理だった。
何やら色々と説明をされて、頷いていたら点滴を受ける事になっていた。
ふらふらとベッドに横になり、白い天井を眺めながらぼんやりと遠くなる意識をかき集めた。

本当にその気がないのなら、言霊に取り込まれないようにね。

覚の言葉が頭をよぎる。

俺は恋の言葉に調子に乗って、のぼせているだけなのかな――。

どんどん意識が遠くなる。
目を閉じると、すぐに眠気が訪れた。
今日帰ったら覚に能力を解除してもらおう。
いい加減、心の声を期待するのをやめて、柊真との距離を正常なものにしないと。
きちんとした義兄弟の関係に――。
思考が途絶えて本格的に眠りの沼へと飛び込む寸前。
温かい手に額をゆっくりと撫でられた。
この手は――。

(ふみちゃん……ひどい熱。点滴で落ち着くといいけど)

甘く響くこの声。
柊真だ。
尋史は安心してほっと息を吐いた。
優しい手は額から頬を撫でる。

(こうやって……体調の悪さにつけこむように触れて……前にキスしようとしたのだって、嫌悪されてるに決まってるのに)

尋史は、重怠さと眠気を押し退けて口を開いた。

「違う……嫌悪なんてしてない……」
「え……?」

だって、あの時。
己の全てが口付けの期待一色になっていた。

キスしたかったのだ。

(ふみちゃん……?)

触れている柊真の手が強張った。

「柊真……」

義弟は本当に優しい男だ。
それに比べて、義兄ときたら。

「ごめん、俺……」

気持ちが全て中途半端だ。
覚の力で心の中をのぞいて優越感にひたっているくせに、常識を盾にその気持ちから逃げようとしている。
ひどい男だ。
その辺に転がる地味でしょぼい石の方がよっぽど誠実だ。

卑怯でごめんな――。

言葉の続きが紡げないまま、再び意識が溶けていく。
温かい手に頬を撫でられながら、尋史は眠りの沼に吸い込まれていった。


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