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其の四

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アラームは朝の六時半。
目覚めはよくないから、まずは眠気覚ましに顔を洗う。
しつこく洗って、頭が少しすっきりしてきた所で、コーヒーを飲む為に湯を沸かす。
昔はコーヒーが苦くて飲めなかったのに、いつの間にか毎朝の定番になっていた。
これが大人になるという事だろうか。
なんて思いつつトースターに食パンをセットする。
何となく朝の情報番組を見ながら簡素な朝食を食べたら、あとは歯を磨いて着替えて出勤。
朝食の後片付けは食べた直後にするけど、たまに時間配分を間違えて夜に回したりもする。

毎日、毎日、平日はこの繰り返し。
もう体が勝手に動くぐらいだ。

出勤すれば、毎日の業務も半ば自動的。
朝一番で倉庫の荷受け準備をして、得意先の巡回に事務処理に。
同僚の重田の愛妻弁当を羨ましく思ったりしながら、コンビニ弁当をもそもそと食べる。

そして日常の狭間で、昨日の夜は変な夢を見たなと思うのだ。
辻の魔なんてものに襲われたり、険しい洞窟内で水攻めに遭ったり。
まるで冒険映画の主人公になったような夢だった。
危機に陥る度に助けてくれる妖怪達はすこぶる美形で、さすが夢の中という感じだ。
いつも現実逃避ばかりして、仕事どころではないような事が自分の身に起こってしまったら、なんて考えていたけれど。
いざ本当にそんな事が起これば、恐怖でしかない。
己の命が危機に晒され続けているのが、どれだけ不安な事か。

本当に夢でよかった。

何気ない日常の有難さ、愛しさがこれでもかと身に沁みた。
明日からは仕事も現実逃避なんかせずに精を出すし、これまで以上に家族を大事にして暮らしていく。

そう。だから、目を開けたらいつもの自分の部屋で。
いつものアラームが鳴っていて。
起きたくないけど立ち上って顔を洗いに行かないと。
とびきり美形の優しい妖怪達が夢であるのは残念だけれど、命がいくつあっても足りないような大冒険なんて夢で十分だ。

ああ、でも――。

綺麗な紺碧の瞳が脳裏をよぎる。

大妖。鵺の峻生。

弱った体にずっと力をくれていたのに、ろくにお礼も言わずに終わってしまった。
もう一度、あの美しい瞳を見つめてお礼が言えたらいいのに。

でも全ては夢だ。

夢のはず――。

「あき?」

耳触りの良い低い声に名を呼ばれ、ふわふわと浮上していた意識が急速に引き上げられた。
重い瞼をゆっくりと開ければ、視界に広がるのは見覚えのない木目の美しい天井。

ここはどこだったか。

深い深い眠りの谷に記憶の一部を置いて来てしまったような。
霞んだ脳内を探るように視線を泳がせると、紺碧の瞳とぶつかった。

「具合はどうだ?」
「……あ……たかお、さん……?」

精悍な顔が労わりの表情を見せた。
瞬きを幾度か繰り返し、馴染んでくる意識を迎え入れる。

ああ――。

そうだ。夢じゃない。

魔物に襲われたのも、洞窟で水浸しになったのも。
千徳、魃鬼に滝霊王。
そして、目の前にいる峻生。
全て現実だ。

「まだ気持ち悪いか?」
「い、いえ、大丈夫です……気分は悪くないです……色々と、ありがとうございます……」

眠る前の、あらゆる具合の悪さは全て消えていた。
普段の目覚めより、気持ち良さを感じるぐらいだ。
寄りかかるように眠ってしまったが、今は上等な布団に寝かされ、峻生は側で胡坐をかいて座っている。
迷惑を重ねてしまった。

「俺の気をしっかり取り込んだからな。もう妖気に当てられて倒れたりはしない」
「助かりました。本当に……」

迷惑を重ねたどころではないな。
非常に申し訳ない気持ちになった所で、明人は体と布の感触に違和感を覚えた。
布団が直接体に触れている。
それも全身くまなくだ。

――え、ぼ、僕……全裸っ!?

どういう事だ。

「あ、の……僕……その、服は……?」
「ああ。ボロボロで汚かったから捨てた」
「す、捨てた!?」
「体も砂まみれで気持ち悪かっただろ。きれいに拭いておいた」

優しく微笑まれて、明人は言葉を失った。
確かに、服も体もひどく汚れていたが。

でも、そんな、そんな、脱がして全身を拭くだなんて――!

「同じ男なんだ。そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ?」

顔を真っ赤にして固まる明人に、峻生がおかしそうに笑う。
男だろうが何だろうが、恥ずかしいに決まっている。
峻生に、この美しい人に、全身を隅々まで見られて拭かれたと思うと、顔から火を噴きそうだ。

「……あき、怒ったか? わるかったよ。少しでもさっぱりさせてやろうと思ったが、勝手にやり過ぎたな」

そんな風に親切心を全面に出されたら、責められなくなるではないか。

「い、いえっ。か、体、きれいになってて嬉しい、です。それに、布団にまで寝かせてもらって……。ごめんなさい。僕の方こそ、勝手に恥ずかしがってしまって」

しどろもどろな明人の言葉に峻生が声を出して大きく笑った。

「勝手に恥ずかしがるって何だよっ。自分の感情に勝手も何もないだろ。面白いな、あきは」

峻生の大きな手が、明人の前髪を掻き上げ撫でる。

「服は適当に準備してあるから、起き上がれそうなら庭に出てみないか?」
「はい。僕も外の空気を吸いたいです」

安心したような峻生の表情に嬉しく思いながら、上半身を起こす。
布団がめくれ、明人の白い肌が露わになった。
眠っている間に全てを見られているというのに、やはりどうにも恥ずかしい。
着物の上からでも見てとれる逞しい体つきをしている峻生にとって、自分の体なんて貧弱の極みであろう。
みすぼらしいと思われているかもしれない。
それもまた、羞恥を煽る。

「……きれいな体だな」
「や、やめてくださいよ、お世辞なんて。貧弱で格好悪いのは、僕が一番分かってますから」
「世辞なんか言わないさ。しなやかで魅力的な体だ」

峻生の指が明人の鎖骨に触れ、肩から二の腕に滑り落ちていく。
軽く触れられただけなのに、火傷をしたように肌が熱を宿して明人は息を詰めた。

何を意識しているのか。

峻生は、本来ならば自分が出会う事もない強い力を持った大妖怪だ。
しかも、こんなに美しく格好良くて。
ちっぽけで平凡なサラリーマンと比べるまでもない。
好意を持つことすら、おこがましい勢いだ。
それに何より、男同士ではないか。
惹かれるなんて間違っている。

間違っているのだ。

「あき?」
「……あ、ごめんなさいっ。ちょっとボーっとしちゃって。僕の服はこれですか?」

枕元に丁寧に畳んで置いてある衣服を指差した。

「ああ。これだ。一式揃ってる。着せてやろうか?」

いたずらっぽく峻生が笑う。

「い、いいです! もう体調も悪くないですからっ」
「そうか。残念」

峻生は本当に残念そうな表情をすると、飲物を持ってくると言って部屋を出ていった。
人がいなくなった和室で、ふぅと一息ついた。
衣服を広げてみると、グレーのカットソーとネイビーのチノパンだった。
着てみると、言わずもがなサイズはぴったりで、素晴らしく着心地もよい。
自分がいつも買っているものとは全く質が違う。
わざわざ用意してくれたのか。
すると、峻生が選んでくれたのだろうか。
だとしたら、大妖怪の鵺はセンスも良いときている。

何なんだ。

自分と全く違い過ぎて、嫉妬なんて感情すら湧いてこない。
己の平凡さをしみじみ感じながら布団をたたんでいると、障子が何の前触れもなく開いた。

「緑茶でよかったか?」
「えっ……!?」

峻生が微笑んで聞いてくる。
その後ろ。
障子の向こうは静穏な庭が広がり、縁側には盆に乗った湯呑が二つ並んで置いてあるのが見えた。

びっくりした。

足音はおろか、物音の一つしてなかったと思うのだが。

「は、はい。緑茶は好きです……」

驚きのまま答えると、峻生は笑みを深めた。
静かな屋敷だ。小さな物音だって、耳で拾えるはずなのに。
妖怪は忍者のように足音を消せるのか。

「お、よく似合ってるな。着心地はどうだ?」

促されるままに、峻生の隣に座る。

「すごくいいです。ありがとうございます。あの、この服、峻生さんが用意してくれたんですか?」
「そうだが、どうかしたか?」
「いえっ。その、峻生さんは服のセンスもいいんだなって思って……」

再び峻生に笑われた。

「妖怪をおだてるとは、なかなか物好きだな」
「おだててないですよっ」
「そうか?」

峻生は笑顔のまま、明人の頭をゆっくりと撫でた。

「妖怪は単純な奴が多いからな。下手に褒めると、好かれて付き纏われる」
「大妖怪の峻生さんは、そんな事しないでしょ」
「いや、油断はよくない。俺は単純な妖怪の筆頭だ。あきに少しでも褒められると、ずっと傍にいたくなる」
「……やめてくださいよ。そういう冗談は」

あからさまな冗談だと分かっているのに、顔が熱くなるのを感じる。
単純なのは峻生ではなく明人の方だ。

「本気だけどな~」

そう言いながら峻生は湯呑を持ち上げて明人に渡した。

「ほら、冷めないうちに飲めよ。寝起きの怠さがなくなるから」

礼を言って緑茶を口に含むと、思わず声を上げそうなった。

美味しい。

香りが爽やかなので、さっぱりしているのかと思いきや。
上品な甘さが口に広がり、五臓六腑に優しく沁みていく。
どこかぼんやりしていた頭の中が明瞭になって、満足げに息を吐いた。
きっと、これはただの緑茶ではないのだろう。

「すっきりしただろ?」
「はい。とても美味しかったです」

そういえば、と明人は周りを見渡した。
峻生以外のひと気がない。
千徳達はどこにいるのだろうか。

「皆はどこに行ったんですか?」
「俺以外は出かけた。各々が聞き込みだ」

明人が眠っている間に、動き出してくれているのだ。
自分も早く行動を起こさないと。

「じゃあ、僕も何か」
「待て、待て」

今にも滝霊王の屋敷から飛び出しそうな勢いの明人の背に、峻生は腕を回した。

「皆が帰って来てからでも遅くない」
「でも――」

どれぐらい寝てしまったのか定かではないが、もう残りの日数は六日をきっているはずだ。
皆に動いてもらっている申し訳なさもある。
出来る事があるのならば、何か一つでも。
どんなに小さな事だってやりたい。

「どう動けばいいか見極める為に聞き回ってんだ。今、闇雲に動いたって不安が増すだけ。あきはゆっくり休んで、時機を待てばいい。そう焦るなよ。言っただろ? 最悪な状況になっても俺がなんとかする」
「最悪な状況なんて……」
「心配するなって! 俺にかかれば、万事解決だ」

峻生の紺碧の瞳に宿る強い光に、明人は表情を緩ませた。
ソワソワと落ち着きのない心が、優しく抱き締められたような気がした。

「……ありがとうございます。僕、気持ちばかりが焦ってしまって……」
「そりゃ焦って当然だ。変なモンに命を狙われてんだからな。今まで怪異に遭った事はなかったんだろ?」

明人は頷いた。

「妖怪を見た事なんて一度もなくて。辻の魔とか幽冥界とか言われた時には、映画の中に飛び込んだかと本気で思ったぐらいです」
「だろうな。怖かっただろ。お徳ちゃんは、ここぞって時に役に立たないからな」

一大事に頭が真っ白になるモフモフ千徳を思い出して、明人はつい口元を緩めて笑ってしまいそうになった。
いけない。
千徳はいつだって全力で命を助けてくれたというのに。

「でも、いつも僕を守ってくれて。今、こうしていられるのも千徳さんのおかげです」
「あいつは情が深いからなぁ。あきの事は随分と気に入ってるようだしな。何としても助けたいと思ったんだろ。もちろん、お徳だけじゃない。皆、そう思ってる」
「峻生さん……」

優しく微笑む峻生と見つめ合っていると、胸の中が温かいものでいっぱいになった。
千徳に魃鬼に滝霊王。それから目の前の峻生。
出会って間もないちっぽけな人間の明人に、こんなにも良くしてくれる。
それが、どんなに奇跡的な事か。
ぎゅっと心が締め付けられて、目頭が熱くなる。
瞼を閉じれば、頬を一筋の涙が伝った。

「……本当に、ぼく、皆の優しさが嬉しくて……言葉にできないぐらい……」

滑らかな白磁の頬を流れる涙を、峻生は親指で優しく拭う。

「この綺麗な涙を見れば、あきがどれだけ俺達を思ってくれているかが分かる」

涙に濡れた頬を峻生の大きな手に包まれ、明人は視線を上げた。

「あきの心根が美しいから、皆、協力を惜しまないんだ」
「僕はそんな……」

視線を落とす明人に、峻生は小さく笑った。

「ここまで鈍感とは……。無意識に感覚を鈍らせて壁にしてんのか? それで変なモノに目を付けられなかったんだろうな」
「え? 鈍感?」

本気で分からないという表情をする明人が愛らしくて、峻生はぎゅっと明人を抱き寄せた。

「あきはそのままが一番だ……。早く心から笑えるようにしてやるから」

背中をゆっくりと撫でられ、明人は峻生の肩に頬を寄せた。
柔らかく包み込んでくれるような温もりに、新たな涙がこぼれ出る。

七日の命。

終わりが迫る恐怖。

奇跡的な出会いと思いやりに希望や喜びを感じていても、背後から、足元から、じわじわと死の闇が明人を襲ってきていた。

けれど――。

峻生の低く澄んだ声に励まされ、広い胸に包まれると、恐怖と闇が遠くなる。
温かい優しさが明人の体を満たし、心が柔らかくほどけていく。

「……峻生さんといると、すごく安心します……全部、大丈夫だって……」

勇気を出して、明人は峻生の背中に腕を回した。
逞しい胸の厚みにドキドキと心臓が騒ぐ。
きっと、このうるさい心臓の音は峻生に筒抜けだ。
恥ずかしい。
でも、体を離したくはなかった。

「あきを狙う奴は、誰であろうが俺が倒す……絶対だ。約束する」

一層強く抱き締められて、頬が熱くなる。
心臓も鼓動が増すばかり。
誤魔化すように男らしい胸元にすがり付くと、何か固い小さな物が峻生の懐に入っているのが感じられた。

「そうだ。すぐに聞こうと思っていたんだが」

峻生もその固い物を意識したのか、懐から取り出して見せた。

「あっ! お守りっ!!」

峻生の掌の中にあったのは、見慣れた紅い小袋だった。
辻の魔に襲われてから色々あり過ぎて、すっかり忘れていた。
スーツのポケットに入れていたのを峻生が取り出してくれていたのだ。
気付いてくれて、一安心だ。

「ありがとうございますっ。ポケットに入れたまま忘れていました」
「これ、あきの物か?」
「いえ。祖母の物です。昔から祖母の家に伝わっていたものみたいで。雨乞いに使ってた櫛だって」
「だろうな。小さな欠片だが……かなり強い力を宿している」
「え? そうなんですか?」

明人は驚いて紅い小袋から中身を出してみた。
言われなければ櫛の欠片だと分からないような桐の小さな一片。
強い力を宿しているとは思えないが。
力があるという事は、今でもこの欠片で雨乞いができるのか――?

――雨乞い……雨を呼んで――?

「ああっ!」

明人の脳内にひらめきが走った。

「何だ?」
「た、峻生さん、あの、最近、僕の住む辺りで、不思議な長雨が降っていたんです。それから、このお守りを持っていた祖母の家でも謎の怪奇現象が続いてて……! この櫛に関係があるんでしょうか」

峻生がわずかに眉根を寄せ、思案顔をした。

「……最近、この櫛が使われた様子はないな。雨はこれが呼んだものじゃないようだ」
「そうですか……」

ひらめいたと思ったのだが。
勘違いかと目を伏せた明人の顔を、峻生はひょいとのぞき込んだ。

「いや、勘違いなんかじゃないさ。怪奇現象はどんな事が起こってたんだ?」
「えっと、家鳴りとか、嫌な気配とか――」
「どこか、気配が集中していた場所はなかった?」

明人は懸命に祖父母の話を思い出そうとした。

「家鳴りは、お風呂に入ってる時が多いって……。あと、水回りが知らない内に水びたしになってる事が何度かあったみたいで――」
「水回りか……。単純に考えれば、相手は水妖だな」
「水妖!?」

明人は思わず声を大きくした。

「え、それだと……洞窟で襲われたのは、偶然じゃなかったって事ですか!?」
「多分な。水妖は基本的に単独行動を好む。団体で人間を襲うなんて、はっきり言って異常だ。何か理由があるとみて間違いない。その辺は滝王が探ってくれているが……この櫛を狙っていた可能性が高いな」
「だから、櫛を持っていた祖母の周りで怪奇現象が?」

峻生は首肯した。

「櫛が出すわずかな力を嗅ぎ回っていたんだろう。櫛が幽冥界に移動して気配を濃くしたから嬉々として奪い取ろうとしてきたって所じゃないか」
「この櫛を……」

明人は改めて櫛の一片に視線を落とした。

「今まで、祖母が怪異に遭ったとか、お守りを盗られそうになったという話は聞いた事がありません。何で今更これを欲しがっているのか……水妖は雨を呼びたいのでしょうか?」
「そうだな。雨乞いの櫛だ。用途なんて限られてる。だが、水妖がそんなもんを欲しがる訳が思い当たらない。水妖が道具まで使って雨を乞うなんて聞いた事ないしな」
「じゃあ、不思議な長雨と関係しているんでしょうか。千徳さんも魃鬼も、僕の住んでる辺りで降ってる雨はおかしいって言ってました」

峻生の思案顔が険しくなる。

「雨気に敏感な魃鬼が言ってんなら相当だな。それに、おかしいってんなら辻の魔が人間を喰おうとするのも、かなりのもんだ」
「すごく衰弱してて、少しでも回復する為に僕を、って千徳さんは言ってましたけど……」
「ああ。自覚はないだろうが、あきの魂、血肉は、その辺の人間や妖怪を手当たり次第喰うより、よっぽど力になる。だから、辻の魔は何が何でもあきを狙ってんだ。それは分かるが……そもそも、何故そこまで辻の魔が弱っているのか、だ」
「辻の魔が弱っている理由……」

千徳が辻の魔は元神で力は敵わないと言っていた。
そんな魔物が明人を喰わねばならないぐらい衰弱した理由――。

だめだ。

妖怪や魔物について何一つ知らない自分が考えたって分かる訳がない。
けれど、何もかもがおかしいのは分かる。
原因不明のおかしい長雨に、異様に弱って人間を喰らおうとしている辻の魔。
それから、嫌いなはずの団体行動をして櫛を欲しがっている水妖――。

ん――?

「もしかして……」

ドクンと不穏に心臓が鳴る。

「峻生さん……今回の事、全部、繋がってるんでしょうか……」

冷たい確信が背筋を走る。
謎の雨に辻の魔、水妖。
そして、このお守りの櫛。
全てバラバラに動いていると思っていたが、ここまでくると偶然ではない気がする。

「普段ならありえない事が重なり過ぎてるからな……。全部繋がってると断言はできないが、何か大きな凶事が起こってんのは確かだな」
「じゃあ、辻の魔もこの櫛の力を感じて……」
「辻の魔は水妖と違って、櫛の微弱な力は感じ取れない。お徳のおかしな取引に乗っかってるしな。精力を欲しがってるだけのように思える。まぁ、皆が帰ったら分かるだろ――」

峻生の語尾を遮るように、庭の池の水が跳ねた。
鯉が水面で遊んだか。
そう思った瞬間。

「足元の靴を履け」
「?」
「早くっ!」

今まで流れていた穏やかな空気が霧散して、峻生の表情が険しく尖る。
何が起こったのか分からないまま、急いで足元に置いてあった黒いシューズを履くと、立ち上って草履を足に引っかけた峻生に横抱きにされた。

「た、峻生さんっ!?」
「水妖だ」
「えっ……!?」

峻生は成人男性を抱えているとは思えない速さで美しい庭を横切っていく。
池を見ると激しく波立ち、ぬるぬるとした気持ちの悪い黒い手が水面から何本も生えていた。

「どうやら本気で櫛が目当てのようだな。滝王が余計なモノを入れない為に張ってる結界も、集団で強行突破したらしい」

瞬く間に庭を抜けると、太く高い木々がきつい傾斜に乱立していた。

今度は山だ。

しかし、いつも明人が見慣れている素朴な里山とは全く違う。
清々しい空気の中、隆起した岩や恐ろしいほどの大木が視界いっぱいに広がり、足元には生き生きとした草がどこまでも生い茂っている。
このまま世界遺産にでもなりそうな、険しく人が立ち入った事がない荒々しい原始的な山。

「迎え撃つのも手だが、ちょっと数が多すぎる。とりあえず撒くから、しばらくじっとしてろよ」

明人を横抱きにしたまま、峻生は大木を避けて岩を飛び越えながら、きつい傾斜をすさまじい速さで下って行く。

「少し怖いだろうが、我慢してくれ。あと、絶対に後ろを見るなよ。気持ち悪いから」

そう言われたのに思わず後ろに視線を動かしてしまって、明人は戦慄した。
どす黒く、ぬめった異形が視界を襲う。
ヘドロのような表皮をどろりと体に纏わりつかせた泥人形のような巨大な水妖達が、鬼の形相で追ってきていた。

「た、た、峻生さ……」

あまりの気持ち悪さと怖ろしさに言葉が続かない。

「あき~。だから、見るなって言っただろ」
「すみませ……つい……」
「見た目は気色悪くて驚くが、一匹の力はそう強くない。あきには指一本触れさせないから安心しろ」

頷いたと同時に、水妖の群れから悲鳴が上がる。
明人には全く見えないが、峻生が己の妖力で一部の水妖を吹き飛ばしたようだった。

「速度を上げる。しっかりつかまれ」

改めて明人を強く抱えると、峻生は人間ではありえない跳躍で切り立った崖から飛び降りた。
まるでレールのないジェットコースターに乗っているような荒い走行に、明人は必死に峻生の肩にしがみつく。
成人男性を横抱きにして山道を行くなんて不自由極まりないはずなのに、峻生は一人で走っているかのように軽やかに進んでいく。

千徳と同じ年じゃないかと思える大木の間を飛ぶようにすり抜け、小さな泉を一跨ぎ。
とてつもない迫力と速さに耐えられなくなって、明人は固く目を閉じた。

真っ黒になった視界の中。
脳裏に描くのは、会社の古ぼけた自分の机だ。
毎朝、着席したらすぐにパソコンの電源を入れて業務システムを立ち上げる。
そして配送データを確認して。
外回りや打ち合わせの時間を擦り合わせて。

嫌で嫌で現実逃避ばかりしていた日常。

誰だ。

非日常的な事に巻き込まれて、仕事から逃れたいなんて空想していた馬鹿は。

僕だ。

再び峻生が高く跳躍した。
気持ちの悪い浮遊感に、明人は唇を噛みしめる。

日常が恋しい。

死への恐怖や不安なんて微塵もなく、あの机の前に座れる事がどれだけ幸せだったか。
戻りたいと強く思った。

安寧な日常に。
どんなものより価値のある己の毎日に。

「もう少し我慢してくれ」

肩に顔を埋めて身を固くする明人に、峻生は声をかけた。
抱えている青年の体が小さく震えている。
これ以上の逃避行は明人の体調が心配だ。
追手の水妖はほとんどを妖力で散らし、撒いた。
後は、一時的に身を隠す場所が欲しい。
明人を休ませてやれるような所だ。
峻生は周辺の地理を脳裏に巡らせた。

「近くにちょっとした岩場がある。その影に一度隠れよう」
「す、水妖は……?」
「とりあえずは撒いたから、背後からは消えてくれたな」

後ろを見ると、美しい山の景色の中におぞましい化け物の姿は一つもなかった。

「もうすぐだ」

明人を気遣って峻生の足取りがゆるやかになる。
大木が数を減らして灌木が目立ち始めると、その間を細い川が流れていた。
その清流の向こうに、花崗岩が積み重なり山のようになっていた。

「ここだ」

一際大きな岩が積み重なった隙間。
そう大きくはないが、男二人が入れるぐらいの空間があった。
峻生は明人を抱えたまま、そこにもぐり込んだ。

「突然、驚かせたな。体調は悪くないか?」

峻生が明人の体をこまめに心配してくれる。
小さな子供のように過保護に甘やかされて、明人は面映ゆい気持ちになった。

「は、はい。本当にずっと助けてもらってばかりで、恥ずかしい……」

今も、峻生の厚い胸に支えられている。
成人男性としてはどうなんだ。

「そういう事は気にするなよ。相手は妖怪なんだ。あきからすれば規格外だろ? それと恥ずかしいってのもなしだ。誰も気にしちゃいないんだから」

そう言って、峻生は抱いている明人の体を優しくゆすった。
まるで幼子をあやすように。

「完全に子供扱いじゃないですかっ」

峻生が心底おかしそうに笑った。

「してない、してない。あきを見てると、つい可愛がりたくなるんだよ」

からかわれている。
でも、これもきっと峻生の気遣いだ。
不安の底にいる明人の気持ちが少しでも軽くなるようにと。

「それにしても、まさか滝王の所まで来るとはな」

峻生が大きくため息をついた。
大量の水妖だった。
峻生が言うように単独行動を好むのならば本当に異様な数だ。
滝霊王の結界を破ったというのも、ありえない事に違いない。

明人はぎゅっと握っていた右手を開いた。
水妖が襲ってきた時にそのまま握りしめていた掌の中には、妖怪が狙うような力が秘められているとは全く思えない、ただの櫛の欠片がある。

「非時香果を入手できたとしても、この櫛を持っている限り、水妖には追われてしまいますよね……」

明人は不安そうに呟いた。
辻の魔と水妖は、もしかしたら繋がっているのかもしれないが、明人を狙ってくる理由が違っている以上、別々にケリをつけねばなるまい。
もちろん、命は絶対に渡したくない。
そして、この櫛も。
けれど――。

「この櫛のせいで追われてるなら、すぐにでも処分した方がいいですよね。いや、処分すべきだ。でも、この櫛……祖母がとても大切にしているもので……」

ずっと祖母はこのお守りと生きてきた。
これはもう彼女にとって、体の一部と言ってもいいだろう。

「僕は……この櫛を守りたい……。祖母に返したいんです」

明人は峻生の紺碧の瞳を見つめた。
身を守ってもらっている上に、ひどく我儘な要望だ。
燃やしてしまえば、きっと水妖に追われる事はなくなるのに。

「あき……」

峻生は明人の手を櫛ごと優しく握った。

「あきの命も櫛も、最初から手放す選択肢はない。両方とも守ってやるから、安心しろ」
「峻生さん……」

柔らかく微笑まれ、温かい眼差しに惹きこまれる。

「ありがとうございます……僕、身勝手な事ばかりで――」
「大切なものを守りたいと思うのは当然だろ? ほら、櫛、ちゃんと袋に入れとけよ」

櫛と一緒に握っていた小袋を峻生が手に取って口を広げる。
そこに桐の欠片を入れてしっかりと紐で結ぶと、チノパンのポケットの奥の奥へと押し込んだ。

「これでよし。水妖も上手く撒けたようだな。滝王ん所には帰れないから、上手くお徳達と合流しないとな」
「非時香果について情報が得られているといいですね」
「ああ……その事なんだが……」

峻生が慎重に話し始める気配がした。

「あきが眠ってる時に少し話し合ってな。非時香果を探すよりも、辻の魔が衰弱してる理由を探って、そっちを解決した方がいいだろうっていう話になったんだ」

不確実なものより、そもそもの原因を究明して、そちらの方向から解決しようという事か。

「じゃあ、非時香果は探さずに――」

辻の魔の弱っている理由を解明しつつ、水妖が櫛を狙っている理由や、謎の長雨との関連性も探っていくのか。

そう続けようとした。
したのだが。

「ぅ……あ゛っ……っ!?」

急に苦しくなって、明人は口を手で覆った。
きゅっと喉が締まり、胸の奥から冷たい悪寒のようなものがせり上がってくる。
一体、どうしたというのか。
訳の分からないまま、紺碧の瞳を見つめる。

「あきっ!」

峻生の呼ぶ声が耳を素通りする。

非時香果。非時香果。
非時香果だ。
非時香果がないと。
非時香果を手に入れないと。
非時香果、非時香果、非時香果。
ないと死んでしまうよ。
喰われてしまうよ。
喰うよ。

すぐ喰うよ。

「や、だ……あ……あ…」

頭の中に言葉が乱れ飛ぶ。
死への恐怖が瞬く間に体の隅々まで広がっていき、心臓が冷えていく。
峻生が名を呼び、強く抱き締めてくれているのは感じられるのに、全てが遠くなる。

怖い。怖い。

命が消えてしまう。
非時香果がないと。手に入れないと。
すぐに喰われる。

「た、峻生さ……どうしよ、気持ちが止まらなっ……怖いっ! いやだ、やだっ、ぼく、くわれてっ」

ガタガタと体を震わせ始めた明人を、峻生はぎゅっと強く抱き締めた。

「あき、明人。怖い事は何もない。不安はまやかしだ」

峻生が頭や背をゆっくり撫でてくれる。
その手も、明人を包んでいる峻生の体も温かく優しいのに、胸の中が冷たく固くなる。

おかしい。

峻生が全力で明人の事を守ってくれていると、心から信頼しているのに。
勝手に死への恐怖が暴走していく。

「……こ、心の中、おかしくてっ……!」
「あき」
「どんどん不安に……っ」

明人は胸元を握りしめた。

「辻の魔の呪が強まっているだけだ。絶対に喰われはしない」

乱れる明人に、峻生がゆっくりとした口調で諭す。

「たかおさん……」

呪が強まるとはどういう事か。
どうすればいいのか。

怖い。怖い。
喰われてしまう。

「おいっ。あき、明人っ」

強い眩暈に頭が揺れる。
明人の足元の影が濃くなり、ゆらりと波打った。

非時香果は手に入らない。

だから、もう、喰われてしまうしか――。

「俺を見ろ」

呪に心を支配されそうになっている明人の頬を、峻生が両手で包んだ。
美しい紺碧の瞳に見つめられ、どんな闇にあろうとも輝き続けるだろう強い光が、まっすぐに明人の心を照らした。

「明人は俺が守る。辻の魔になんか渡さない」

ただ一心に見つめ合っていると、身体にじわりと温もりが戻ってくる。
峻生の体温が、全身に優しく浸透していくのが分かった。

「俺の傍にいれば、不安なんか吹き飛ばしてやるよ」

峻生の端整な顔が、ゆっくりと近づいてくる。

「あ……」

そんな――。

吐息が交わる距離に思わず瞼を閉じると、唇が重なった。

「んっ……」

柔らかく温かい感触に、背筋がしびれる。

「っぁ……」

唇を優しくついばまれ、初めての口付けに、心臓が爆発しそうなほど鼓動する。

大妖怪の鵺と。こんな素敵な人と。

――ぼく、キス、してる――。

角度を変えて何度も何度も求められて、明人は無意識に峻生にすがりついた。

「ん……っふぁ」

頬を包んでいた手が後頭部と腰に回ると、力が抜けた歯列の隙間にゆっくりと舌が入ってきた。
口内をねっとりと舐めつくされて、舌が絡み取られる。

「ぁっ……んはっぅ……っんん」

甘く吸われ、優しく食まれて、未曾有の感覚に明人は夢中になった。

気持ちいい。

濃厚な口付けに、身も心も恍惚と蕩けていく。

「たかおさ……」

どれだけ口付けを交わしていたか。
混じり合った二人の唾液を飲みこむと、ゆっくりと交わりが解かれて、互いの唇から銀色の糸が引いた。

吐息が、顔が、熱い。

「どうだ? 恐怖が飛んだだろ?」
「ん……は、はい……?」

口付けの余韻で頭が上手く回らないが。
確かに、身を包んでいた死の恐怖と不安が跡形もなく消えている。

「しゃっくりと同じだな。驚かせて止める」

峻生がにやりと笑う。

「え?」

明人の胸に充満していた甘いときめきが、すっと薄くなった。

本当に死んでしまうかと思った。

自分の気持ちを無視して、急に恐怖が膨れ上がって。
峻生が守ってくれたから、どうにか呪から逃れられたのだ。

感謝しかない。
ここは深く礼を言う所だ。

分かっているが、しかしっ――。
しゃっくりと同じって。しゃっくりって――!

キス。初めてだった。

別に、ファーストキスに理想のシチュエーションがあった訳でも、大事にしていた訳でもない。
峻生の言う通り、恐怖も不安も吹っ飛んでくれた。

でもっ!

しゃっくりを止めるように驚かせてキスをしたなんて言われたら、いい気はしないではないか。

しかも、こんな思いきり深い口付け――……。

「もしかして、初めてだったのか?」

峻生が、まだ唾液で濡れている明人の唇を親指でなぞる。
認めたくない。なけなしのプライドが囁く。
だが、嘘をついても仕方ない。無言で頷くと、峻生が笑みを浮かべた。

「最高だな」

そう言って、峻生がもう一度顔を寄せてくる。

「な、にしてるんですか!」
「一回も二回も変わらないだろ?」
「変わりますからっ」

精一杯拒絶するが、腕力は全く敵わない。
諦めて腕の力を抜く。
肩を引かれて二回目のキスをされるかと思いきや、柔らかく抱き寄せられた。

「あきには辻の魔の呪がかかっていて、不安や怖れに取り憑かれやすくなってる。ごめんな。俺のせいで呪が強まったな」

ゆっくりと背を撫でられる。

「辻の魔の奴ら、何だかんだ七日は手を出してこないと思ったが……随分と焦ってるようだ。非時香果の有無に関わらず、七日以内に本気で喰ってくるかもしれない。気を付けような」
「すみません。僕の心が弱いせいで……」
「何でもかんでも自分のせいにするなって」

半ば呆れたように峻生が言う。
逞しい胸の中から見上げれば、優しく微笑まれた。

本当にずるい。

からかってくるかと思うと、とびきり優しくしたりして。
死への恐怖だとか、ファーストキスの余韻だとか。
そんなものが心の中がめちゃくちゃになって。ぐちゃぐちゃになって。

結局、峻生に向かって胸を熱くしている。
こんな気持ちは初めてだ。

目の前にいるのは大妖怪の鵺で、男性で。
色々な事が起こって長く一緒にいるように感じてしまうが、まだ会ったばかりだ。

好きになるなんておかしいのに。

そう思えば思うほど逆に胸が高鳴り、同時に穏やかな安心感も抱くのだ。
まるで、峻生の傍にいるのが当然であるかのように。

「あきが住んでる辺りのおかしな雨」

峻生の声が、明人を恋する思考から引き上げた。

「は、はいっ」
「長く降ってるって言ってたよな?」
「一週間ぐらい、降り続けています」
「多分、今回の事と無関係じゃないはずだ。皆と合流する為にも現場近くに行ってみるか。誰かいるだろ」
「水妖もいるでしょうか……」
「だろうなぁ。気配を消して、見つからないようにすればいい。今もそうしてるしな」

そうだったのか。
気配まで消す事ができるなんて。

「長雨を誰かが降らせてるとしたら、相手はかなり力のある奴だ。辻の魔やら水妖とそいつが繋がってるとしたら、話は楽だな」

峻生が口角を上げて、軽やかに言う。
どこが楽なのか。明人にとっては、とんでもない災いが一挙に押し寄せて来たようなものだが。

「全然楽に感じないですよ……」
「黒幕がいるんなら、そいつを叩いけばいいから楽なんだよ」
「そんなの、峻生さんが危険な目に――」
「大丈夫だって。俺はあきがびっくりするぐらい強いから」

そう言って明人の頬に口付けを落としてくる。

「ちょっ。急に止めて下さいよっ!」

思わず口付けされた頬を掌で包む。

「そんなに嫌がらなくてもいいだろ? 急じゃなかったら歓迎なのか?」
「そ、そんな事は……」

恥ずかしくなって明人は顔を伏せた。
愛らしい明人の仕草に、峻生は頬を緩ませる。

「心配してくれてありがとな。俺より強い奴なんて、そういないから大丈夫」

だから、大船に乗った気持ちでな。と峻生は明人の髪をふわりと撫でた。

「よし。そうとなれば、早速行こうか」
「えっ!?」

話の切り替わりと共に、体が急に浮く。
峻生は明人を抱き抱えたまま岩の隙間から外に出た。 

「わっ。た、峻生さんっ。あの、下ろしてもらえませんかっ」
「ん~。無理だなぁ」

峻生は嬉々として明人を横抱きにしたままだ。

「ふざけてるでしょう!?」
「俺はいたって真面目だ。これ、登れるか?」
「え?」

目の前には、今まで隠れていた岩の山がある。
大きな花崗岩が粗野に積み重なったそれは、明人にとっては巨大な垂直の岩壁だった。

「……無理です」

真顔になった明人に、峻生が声を出して笑った。

「だろ? 大人しくしてろよ」

峻生は積まれた巨大な岩の山を、明人を抱えて器用に登っていく。

「この上に行くんですか?」
「そうだ」

積み上がった岩山の頂上に着くと、普通の人間ならバランスさえ取れないだろう石の先端に峻生が立って、周囲を見渡した。

「……絶景、ですね……」

ちょうど、この石群が山腹からせり出したようになっていて、眼下には荒々しい山の斜面が広がっていた。
原始的な木々、鮮やかな緑が地平線までびっしりと広がっていて、澄んだ空気が清らかな気持ちにしてくれる。
空は薄曇りのようなふしぎな色だが、自分の悩みなんかちっぽけに思えるほどの素晴らしい景色というやつに違いない。

「どうした? 気分が悪くなったか?」

微妙な顔つきをしている明人に、峻生が問う。

「いえ……あの、実は高い所が少し苦手で……」

昔から、高く不安定な場所は避けて生きてきた。
地面が遠いと思うと、頭がぐらぐらしてくる。
こんな所から落ちれば、ひとたまりもないではないか。
明人は肩をぶるりと震わせて、無意識に峻生の着物の襟を掴んだ。

「そりゃ悪かったな」
「……どうしても無理という訳ではないので。どうして上に登ったんですか?」
「ここから移動するのに、また水妖に見つかったらめんどくさいだろ?だから、てっとり早く目的地に着こうと思ってな」

岩山の頂上からてっとり早く目的地へ。なんて。
嫌な予感が鳩尾の辺りから広がってくる。

「それで……?」
「……この山は幽冥界と人の世の狭間にあって、世の理から外れてる」

峻生が申し訳なさそうに微笑んだ。

「移動の仕方も、なかなか常識外れって事だ。苦手な所を悪いが、少しだけ我慢してくれ」

そう言うと、素早く唇に口付けられる。

「行こう」
「っえ……わぁぁっ……っっ!」

体が浮く。
やっぱり。やっぱりだよ!!
心のどこかで思った通り。
峻生が岩山から飛び下りたのだ。

「ひっ……うっ……」

ものすごい勢いで体が落ちていき、内臓が上に置いていかれる感覚が明人を襲う。
必死で峻生にしがみついて、きつく目を閉じた。
もう、どう精神を保てばいいのか分からない。
己の人生の全てが夢なのかとさえ思えてくる。

嫌だ。
もう嫌だ。無理。絶対、無理――。

ああ――……。


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