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この先、口を開くべからず
美しい薔薇の檻へ
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管理人さんとの手紙のやり取りは楽しいものだった。
天に積み上がるほど蔵書のある図書館で読んだ本の話だって、庭に咲く花の話だって、いつだって彼は答えてくれた。いつか、遠くの国で起こった2人の悲しい恋人たちの話も、王のために集まった仲間たちの話も、感想を書くと彼も私の感想について返事をくれた。
『2人とも死んでしまって悲しかったです。どうして行き違ってしまったのでしょう』
行き違ってしまった悲しい恋人たちの話を読んだ時、こんな手紙を彼に出した。
『私たちが顔を見合わせていても行き違いは生まれる。2人が行き違ったからこそ、駒鳥はもどかしさに胸を打たれたのでは?』
泣きながら書いた手紙に返って来たのはやはり無骨な文字だったけど、前より少しだけ優しい気がした。
もう一度悲劇の2人に思いを馳せながら本を読んでみたら、確かに彼のいう通り、2人の行き違いがあるからこそ胸が痛んだ。張り巡らされた後悔の種を見つけるたび、私はぎゅっと手を握りしめ、熱中になって読んでしまった。
いつか、私が恋に落ちる時が来たとしたら、きっと相手にそれを伝えよう。
そう手紙に書いたら『懸命な判断である』と、ちょっとよそよそしい返事が返ってきた。
彼は私の疑問にいつも真摯に答えてくれた。だから、少しだけ調子に乗ってしまったのかもしれない。
『柵の外には何がありますか』
この目で確かめたのかさえ怪しい、記憶の片隅に残る微かな記憶。聳《そび》え立つ真っ黒な槍のような柵の向こう側は、この屋敷の中には決して訪れない鈍色《にびいろ》をしていた気がする。
本当にあるのか、確かめに行くのは怖かった。管理人さんなら教えてくれるかもしれないと思った。
『出ていくことは許されない』
いつも以上に鋭くて、刃物で削ったみたいな文字。
夕食に並んでいたのは、いつも通りの温かいスープと柔らかいパン。温かい食事と冷たい文字を見比べて、私は身震いをした。
彼に手紙を返さなかったのは初めてのことだった。食事にほとんど手をつけなかったのも。
朝、目を覚ますと、枕元に星屑《ほしくず》を擦り付けたような美しい手紙が届いていた。
『駒鳥を脅かしてしまっただろうか。柵の外は森で、狼が出る。行くことは勧めない』
これが彼の心遣いだと、私はどうして知っているのだろう。
私はどうして、ここが温かくて幸せな場所だと知っているのだろう。この変わり映えのしない毎日を、完璧だと信じているのだろう。
疑念が足元から這い上がり、この美しい日々に亀裂を入れた。
用意された靴と服を身にまとい、私は部屋を出た。子犬は連れていかなかった。
管理人さんはどういうわけか私に親切にしてくれる。食事も用意してくれるし、毎晩お風呂の用意もある。着替えだって、本だって、話し相手だって、彼がみんなやってくれていると思う。なのに、胸の中の靄が疑ってかかる。
この美しいばかりの花園の庭園に、苦しみも悲しみもなくただ生きていることがおかしい。どうして今まで気がつかなかったのだろう。足元の落ち葉を踏み、小さなガラス片が割れるような音が耳に届く度にそんなことが頭に浮かんだ。
庭を抜け、木々の間を走り抜ける。
走って、走って、靴が皮膚に擦れて血が滲む頃、ようやく柵の前に辿り着いた。
あの朧《おぼろ》げな記憶と少しも違わない聳え立つ柵。
「あ……」
柵の向こう側は色彩を失ったように白で埋め尽くされていた。雪なんて見たことがないはずなのに、私はそれの冷たさを知っている。
柵には出入りできるように小さな戸が備え付けられていた。
触ると凍りつきそうなほどに冷たい。氷なんて知らないのに。
私の背後に、誰かが立っている。管理人さんに違いない。振り返ることができずにじっと立ち尽くす。冷や汗がこめかみを滑って落ちていく。
乱れない息が、焦らない様子が、歌声しか知らない音で紡いでいるだろう思考が読み取れずに恐ろしい。
影が動いた。
「いってらっしゃいませ」
彼はお辞儀をしているのだ。一体なぜ。
私はここから出てもいいのだろうか。
「どうか振り返らないで」
歌声のように優しい声で彼は言った。
震える手で戸を引いた。なぜ私は開け方を知っているのだろう。頭の中に子犬の鳴き声がこだまする。私はここを出て、一体どうしようというのだろう。肌を刺すほど冷たい雪は、私の記憶を取り戻してくれるのだろうか。
白い世界。
音のない世界。
森の木々の影は暗く、地面を切り取ってしまったようだ。
なぜ、こんなところに出ようと思ったのだろう。それさえも理解できない。
私はあてどなく森の中を彷徨った。
そして、行き先を見失ってあの美しい薔薇の檻の中に帰っていった。
天に積み上がるほど蔵書のある図書館で読んだ本の話だって、庭に咲く花の話だって、いつだって彼は答えてくれた。いつか、遠くの国で起こった2人の悲しい恋人たちの話も、王のために集まった仲間たちの話も、感想を書くと彼も私の感想について返事をくれた。
『2人とも死んでしまって悲しかったです。どうして行き違ってしまったのでしょう』
行き違ってしまった悲しい恋人たちの話を読んだ時、こんな手紙を彼に出した。
『私たちが顔を見合わせていても行き違いは生まれる。2人が行き違ったからこそ、駒鳥はもどかしさに胸を打たれたのでは?』
泣きながら書いた手紙に返って来たのはやはり無骨な文字だったけど、前より少しだけ優しい気がした。
もう一度悲劇の2人に思いを馳せながら本を読んでみたら、確かに彼のいう通り、2人の行き違いがあるからこそ胸が痛んだ。張り巡らされた後悔の種を見つけるたび、私はぎゅっと手を握りしめ、熱中になって読んでしまった。
いつか、私が恋に落ちる時が来たとしたら、きっと相手にそれを伝えよう。
そう手紙に書いたら『懸命な判断である』と、ちょっとよそよそしい返事が返ってきた。
彼は私の疑問にいつも真摯に答えてくれた。だから、少しだけ調子に乗ってしまったのかもしれない。
『柵の外には何がありますか』
この目で確かめたのかさえ怪しい、記憶の片隅に残る微かな記憶。聳《そび》え立つ真っ黒な槍のような柵の向こう側は、この屋敷の中には決して訪れない鈍色《にびいろ》をしていた気がする。
本当にあるのか、確かめに行くのは怖かった。管理人さんなら教えてくれるかもしれないと思った。
『出ていくことは許されない』
いつも以上に鋭くて、刃物で削ったみたいな文字。
夕食に並んでいたのは、いつも通りの温かいスープと柔らかいパン。温かい食事と冷たい文字を見比べて、私は身震いをした。
彼に手紙を返さなかったのは初めてのことだった。食事にほとんど手をつけなかったのも。
朝、目を覚ますと、枕元に星屑《ほしくず》を擦り付けたような美しい手紙が届いていた。
『駒鳥を脅かしてしまっただろうか。柵の外は森で、狼が出る。行くことは勧めない』
これが彼の心遣いだと、私はどうして知っているのだろう。
私はどうして、ここが温かくて幸せな場所だと知っているのだろう。この変わり映えのしない毎日を、完璧だと信じているのだろう。
疑念が足元から這い上がり、この美しい日々に亀裂を入れた。
用意された靴と服を身にまとい、私は部屋を出た。子犬は連れていかなかった。
管理人さんはどういうわけか私に親切にしてくれる。食事も用意してくれるし、毎晩お風呂の用意もある。着替えだって、本だって、話し相手だって、彼がみんなやってくれていると思う。なのに、胸の中の靄が疑ってかかる。
この美しいばかりの花園の庭園に、苦しみも悲しみもなくただ生きていることがおかしい。どうして今まで気がつかなかったのだろう。足元の落ち葉を踏み、小さなガラス片が割れるような音が耳に届く度にそんなことが頭に浮かんだ。
庭を抜け、木々の間を走り抜ける。
走って、走って、靴が皮膚に擦れて血が滲む頃、ようやく柵の前に辿り着いた。
あの朧《おぼろ》げな記憶と少しも違わない聳え立つ柵。
「あ……」
柵の向こう側は色彩を失ったように白で埋め尽くされていた。雪なんて見たことがないはずなのに、私はそれの冷たさを知っている。
柵には出入りできるように小さな戸が備え付けられていた。
触ると凍りつきそうなほどに冷たい。氷なんて知らないのに。
私の背後に、誰かが立っている。管理人さんに違いない。振り返ることができずにじっと立ち尽くす。冷や汗がこめかみを滑って落ちていく。
乱れない息が、焦らない様子が、歌声しか知らない音で紡いでいるだろう思考が読み取れずに恐ろしい。
影が動いた。
「いってらっしゃいませ」
彼はお辞儀をしているのだ。一体なぜ。
私はここから出てもいいのだろうか。
「どうか振り返らないで」
歌声のように優しい声で彼は言った。
震える手で戸を引いた。なぜ私は開け方を知っているのだろう。頭の中に子犬の鳴き声がこだまする。私はここを出て、一体どうしようというのだろう。肌を刺すほど冷たい雪は、私の記憶を取り戻してくれるのだろうか。
白い世界。
音のない世界。
森の木々の影は暗く、地面を切り取ってしまったようだ。
なぜ、こんなところに出ようと思ったのだろう。それさえも理解できない。
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そして、行き先を見失ってあの美しい薔薇の檻の中に帰っていった。
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