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第十章
お茶くみと重役たち
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年の瀬も近いある朝。
三ツ矢商事にとって、今年最大級とされる重要商談が、いよいよ本番を迎えようとしていた。
応接室には、相手企業の重役クラスが来社予定。
社内でも一部の限られたメンバーだけが対応する厳戒態勢が敷かれていた。
乾栄一は、デスクで資料整理をしていた。
かつてなら、こうした大一番には自ら参加していた。
だが、今では――そんな期待を抱くことすらしなくなっていた。
そのとき、卓から電話が入った。
「乾さん、すみません。応接室にお茶を持ってきてもらえますか」
「……わかりました」
言葉を短く返して、給湯室に向かう。
湯を注ぎ、丁寧に急須をまわし、湯飲みに注いでいく。
手の動きは慣れていた。いや、慣れてしまったのだ――この“裏方の仕事”に。
応接室の扉を開けると、重苦しい空気が充満していた。
三ツ矢商事側の最前列には、執行役員である、同期入社の中村静香。
入社当時は、ただの年下の後輩女子として目もくれてなかったが、いまはとうに手の届かないポジションにまで昇ってしまっていた。
その隣に、営業部長・七瀬沙紀。
そしてその背後には、チームリーダーの早崎みずき。
最後列に、かつて課長だった佐々木卓――。
そのさらに後ろに、今、自分が立っている。
茶を運びながら、相手企業の幹部の一人がこちらに気づいた。
「あれ? 乾さん……お久しぶりですね」
「……どうも」
以前、ともに仕事をした取引先の部長だった。
少しばかりの驚きと戸惑いが、その声に混じっていた。
だが、栄一はただ、軽く会釈を返すだけだった。
――会話を続けるな。
そう言わんばかりに、みずきが静かに間に入った。
「乾さん、もういいですよ。ありがとうございました」
まるで「あなたには、これ以上の役割はありません」と言い渡されたかのようだった。
茶を運び終えた栄一は、誰にも見られることなく、静かに応接室を後にした。
その背中に、声はかからなかった。
視線も向けられなかった。
扉が閉まる音が、まるで幕が下りる音のように、耳に響いた。
――あれほど望んでいた、大きな仕事の舞台。
今では、その入り口でお茶を運ぶだけの存在になっていた。
ただの補助。
ただの空気。
ただの“かつての人”。
自分の名前が、誰かの記憶の中から少しずつ薄れていくのが、肌でわかる。
今の立場が“当たり前”になっていく感覚が、なにより恐ろしかった。
“乾さん、もういいですよ”
その一言が、心の奥に、何度も何度も、こだまのように残り続けていた。
三ツ矢商事にとって、今年最大級とされる重要商談が、いよいよ本番を迎えようとしていた。
応接室には、相手企業の重役クラスが来社予定。
社内でも一部の限られたメンバーだけが対応する厳戒態勢が敷かれていた。
乾栄一は、デスクで資料整理をしていた。
かつてなら、こうした大一番には自ら参加していた。
だが、今では――そんな期待を抱くことすらしなくなっていた。
そのとき、卓から電話が入った。
「乾さん、すみません。応接室にお茶を持ってきてもらえますか」
「……わかりました」
言葉を短く返して、給湯室に向かう。
湯を注ぎ、丁寧に急須をまわし、湯飲みに注いでいく。
手の動きは慣れていた。いや、慣れてしまったのだ――この“裏方の仕事”に。
応接室の扉を開けると、重苦しい空気が充満していた。
三ツ矢商事側の最前列には、執行役員である、同期入社の中村静香。
入社当時は、ただの年下の後輩女子として目もくれてなかったが、いまはとうに手の届かないポジションにまで昇ってしまっていた。
その隣に、営業部長・七瀬沙紀。
そしてその背後には、チームリーダーの早崎みずき。
最後列に、かつて課長だった佐々木卓――。
そのさらに後ろに、今、自分が立っている。
茶を運びながら、相手企業の幹部の一人がこちらに気づいた。
「あれ? 乾さん……お久しぶりですね」
「……どうも」
以前、ともに仕事をした取引先の部長だった。
少しばかりの驚きと戸惑いが、その声に混じっていた。
だが、栄一はただ、軽く会釈を返すだけだった。
――会話を続けるな。
そう言わんばかりに、みずきが静かに間に入った。
「乾さん、もういいですよ。ありがとうございました」
まるで「あなたには、これ以上の役割はありません」と言い渡されたかのようだった。
茶を運び終えた栄一は、誰にも見られることなく、静かに応接室を後にした。
その背中に、声はかからなかった。
視線も向けられなかった。
扉が閉まる音が、まるで幕が下りる音のように、耳に響いた。
――あれほど望んでいた、大きな仕事の舞台。
今では、その入り口でお茶を運ぶだけの存在になっていた。
ただの補助。
ただの空気。
ただの“かつての人”。
自分の名前が、誰かの記憶の中から少しずつ薄れていくのが、肌でわかる。
今の立場が“当たり前”になっていく感覚が、なにより恐ろしかった。
“乾さん、もういいですよ”
その一言が、心の奥に、何度も何度も、こだまのように残り続けていた。
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