11 / 11
第十一章
背を向ける日
しおりを挟む
乾栄一は、三ツ矢商事を退職する決意を固めていた。
まだ定年前の、五十六歳。
だが、もう限界だった。
周囲が変わっていくのを見届けることにも、
自分の存在価値がすり減っていくのを実感することにも、
心が耐えられなかった。
退職願を出すその手は震えていたが、誰にも悟られないよう、静かに処理を済ませた。
これといった送別会もなかった。希望もしなかった。
ほんの数人、かつての部下だった卓と数名の同僚が、最後の日にエントランスで彼を見送ってくれた。
その朝、社内では別の話題で盛り上がっていた。
新たな人事発令。
《取締役専務:中村静香(現:執行役員)》(52歳)
《執行役員:七瀬沙紀(現:営業部・部長)》(32歳)
――社内初、生え抜き女性取締役の誕生。
――そして、32歳の若さで執行役員に就任した七瀬沙紀。
経済誌やテレビでも報じられたそのニュースは、瞬く間に話題となり、社内の掲示板やSNSは歓喜と祝福の声であふれていた。
「これからうちの会社にも、新しい風が吹きそうだな」
「いやあ、うちも変わったよなあ……」
「女性がここまで出世する時代か……」
社員たちの声が、エントランスにも漏れ聞こえてくる。
さらには、
《営業部・課長:早崎みずき(現:営業部・チームリーダー)》(27歳)
とも。
その中を、栄一は一人、背を向けて歩いていた。
ふと、エントランスの脇に、ひとりの女性が立っているのが目に入った。
中村静香――今や専務取締役となった、かつての同期。
目が合うと、静香はごく自然に、微笑を浮かべて軽く会釈した。
そして、ごく静かに言った。
「乾くん、また会う気がするわ。今度は会社じゃなくて、もっと自由なところで」
栄一は、一瞬だけ戸惑いながらも、うなずいた。
それは、かつての自分に向けられた言葉ではなく、いまの“何者でもない自分”にかけられたものだと、感じたからだった。
振り返らない。
振り返ってしまえば、何かを期待してしまいそうだったからだ。
期待して、傷つき、また打ちのめされる――
そんな自分には、もう耐える力が残っていなかった。
ただ一歩ずつ、無言で歩く。
この会社に入社したあの日、胸に抱いていた希望。
上司に食らいつき、同期と競い合い、後輩には背中を見せようとした日々。
だが、最後に残ったのは、何ひとつ役職のつかない“元社員”という肩書だけだった。
けれど、それでも――。
「ありがとうございました」
心の中でだけ、会社に向かって深く礼を述べた。
それだけは、忘れてはならないと、どこかで思っていた。
彼の背中に、春の風が静かに吹いていた。
新しい季節が、誰かにとっての始まりを告げている。
そして、栄一にとっては、遅すぎた“終わり”が、ようやく形を持った瞬間だった。
まだ定年前の、五十六歳。
だが、もう限界だった。
周囲が変わっていくのを見届けることにも、
自分の存在価値がすり減っていくのを実感することにも、
心が耐えられなかった。
退職願を出すその手は震えていたが、誰にも悟られないよう、静かに処理を済ませた。
これといった送別会もなかった。希望もしなかった。
ほんの数人、かつての部下だった卓と数名の同僚が、最後の日にエントランスで彼を見送ってくれた。
その朝、社内では別の話題で盛り上がっていた。
新たな人事発令。
《取締役専務:中村静香(現:執行役員)》(52歳)
《執行役員:七瀬沙紀(現:営業部・部長)》(32歳)
――社内初、生え抜き女性取締役の誕生。
――そして、32歳の若さで執行役員に就任した七瀬沙紀。
経済誌やテレビでも報じられたそのニュースは、瞬く間に話題となり、社内の掲示板やSNSは歓喜と祝福の声であふれていた。
「これからうちの会社にも、新しい風が吹きそうだな」
「いやあ、うちも変わったよなあ……」
「女性がここまで出世する時代か……」
社員たちの声が、エントランスにも漏れ聞こえてくる。
さらには、
《営業部・課長:早崎みずき(現:営業部・チームリーダー)》(27歳)
とも。
その中を、栄一は一人、背を向けて歩いていた。
ふと、エントランスの脇に、ひとりの女性が立っているのが目に入った。
中村静香――今や専務取締役となった、かつての同期。
目が合うと、静香はごく自然に、微笑を浮かべて軽く会釈した。
そして、ごく静かに言った。
「乾くん、また会う気がするわ。今度は会社じゃなくて、もっと自由なところで」
栄一は、一瞬だけ戸惑いながらも、うなずいた。
それは、かつての自分に向けられた言葉ではなく、いまの“何者でもない自分”にかけられたものだと、感じたからだった。
振り返らない。
振り返ってしまえば、何かを期待してしまいそうだったからだ。
期待して、傷つき、また打ちのめされる――
そんな自分には、もう耐える力が残っていなかった。
ただ一歩ずつ、無言で歩く。
この会社に入社したあの日、胸に抱いていた希望。
上司に食らいつき、同期と競い合い、後輩には背中を見せようとした日々。
だが、最後に残ったのは、何ひとつ役職のつかない“元社員”という肩書だけだった。
けれど、それでも――。
「ありがとうございました」
心の中でだけ、会社に向かって深く礼を述べた。
それだけは、忘れてはならないと、どこかで思っていた。
彼の背中に、春の風が静かに吹いていた。
新しい季節が、誰かにとっての始まりを告げている。
そして、栄一にとっては、遅すぎた“終わり”が、ようやく形を持った瞬間だった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる