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第3章 イーディスとモーラ
第8話 湖畔にて
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目的地に到着すると、タイレルのほうが荒い息を繰り返していた。
水辺が近いということもあるが、ずいぶん寒い。『火噴き島』からは考えられない気温だ。町全体がまだ朝靄の中にいた。
「まつ毛まで凍るかと思ったぜ」と、町に入るなりタイレルは文句を言った。「どこかあったまれる場所を探さないと、俺はもう凍えちまうよ」
「情けない」
そう口にしながら、イーディスは町全体を眺めるように忙しなく視線を動かしていた。取れる情報は漏らさずすべて入れたい。
タイレルは、魔法使いのやり方を理解しているつもりでも、こういうときに徒労感を覚える。
「それで、仰せのとおりに焦ってやってきたけど、これからどうするんだよ」
「しっ」
と、イーディスは人差し指を唇に当てた。
タイレルは膨れっ面だ。
「ほら、それをこっちへ」と、馬から降りて、手綱を渡せと手を招く。「見て回ってきなよ。俺は宿屋を探しておく。さすがにこのままぶっ続けて舟には乗れないぜ。硬くてもいいから屋根のある部屋で、ベッドで寝たいんだ」
最後は独り言のようにぶつくさやりながら、彼は二頭の馬を引いて去っていった。待ち合わせもなにもない。どうせ、会おうと思えばイーディスのほうから見つけられるのだ。
イーディスは彼の言葉に甘えて、町を一周することにした。もしかしたら、紛れて暮らしている、行きにタイレルが会ったという、マグナ会の人間も見つけられるかもしれない。
なるべく身構えないように、先入観を捨てて、イーディスはまるで気楽な観光客のように歩き回ることにした。
かつて夏になると涼を求めてエドワード王たちが滞在したという湖のほとりも、今は寒さに縮こまっていた。湖で獲れる魚もどんどん減ってきて、北側、山の麓では立ちいかなくなった町や村もあると聞く。
そんな状況の中では、南側の『湖畔の町』は、まだ賑やかに思えたが、行き交う人々の顔はどこか、汚れた川底をすくったような沈みがちなそれだった。
西南の門から東のほうへ歩みを進めると、町の低くなっているところに『竜の大河』の支流が見えた。渡しの小舟が早くから仕事を始めている。
ふと、北が気になった。魔法使いの勘ではない。誰でも気がつくほど、目立って騒々しい。
聞き耳を立てながら、吸い寄せられるように足を向けると、どこからともなく「賊が出たらしい」「捕まったようだ」という噂話が入ってくる。
さらに進むごとに、話は具体化していき、「二人組だった」「若い男が二人」「一人がまだ逃げている」という声を聞く頃には、生捕にした犯人を連れていく兵士とすれ違った。
落ちぶれかけた町に不似合いな装束は、紛れもなく王直属の兵のもの。
囲まれて連れて行かれる青年は、まだあどけなさの残る農民風。いったいどんな大罪を犯したのか、両手を前に拘束されて、項垂れて歩いている。
抵抗は無駄だと諦めているのか、やけにおとなしい。黒く短い髪と、太く吊り上がった眉。しかし、すれ違いざまにチラリと覗いた瞳は、頑なな意志を持って燃え盛っていた。
「ハッ」と、その瞬間、イーディスの胸に何かが去来した。今度こそ魔法使いの勘である。
彼女は家の隙間に身を翻らせると、外套の前をしっかりと合わせた。神経を尖らせて、しかし悟られぬように外面は柔らかく、小道から小道へ縫うように進む。
その間も、厳しい装備の兵士やそれに従う賊狩りと、何度もすれ違った。「いたか?」「いいや」「どこへ行った?」と口々に交わしている。
イーディスは立ち止まった。
馬屋の前だった。
お姫様は、馬番の男と逃げた。
それを思ったとき、彼女はふいに隣にあった、自分の背丈よりも高く積まれた干し草の中へ手を突っ込んだ。
途端に「わっ!」と、飛び退いた。
鋭い短剣が彼女の腕を切り付けるところだった。
すんでのところでそいつの手首を掴むと、勢い任せに引きずり出した。
現れたのは、ブルネットの少年……いや、女?
服こそボロをまとい顔に汚れを作っているが、内側から湧き出る気品が、彼あるいは彼女を、一角の人物ではないと教えてくる。恐怖に顔色を失っているが、なお瞳にはあの青年と同じ覚悟が見えた。
次の瞬間、イーディスはその人物に覆い被さって、キスをした。有無を言わさず、体全体で押さえ込み、情熱的に。
その背中に一人の兵士が通りかかる。こちらに一瞥くれて「朝っぱらから」と愚痴をこぼして去っていった。
十分に間を置いて体を離すと、イーディスの頬に平手が一閃。
「無礼者!」
と罵ったダークブラウンの瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
イーディスは悪人になりきったような不適な笑みで、叩かれた頬をさすりながらしげしげとそれを眺めた。
「ご挨拶ですね。リシェル様」
と、その名前を呼ぶ。
リシェルの肩が揺れた。激しく動揺するのを抑えきれず、「何者だ?」と、虚勢を張る声もか弱い。
「私はあなたを助けにきました。『火噴き島』、マグナ会のイーディスと申します。さあ、こちらへ」
差し伸べた手を、追い詰められた乙女はまんまと掴むだろうと思った。だが、違った。
「面倒ごとに巻き込まれそうなところ、機転を効かせてくれたということで、お前の行いは水に長そう。しかし人違いをしているようだぞ、魔法使いのイーディス。私はリチャード。ただの、リチャードだ」
そして追っ手の声を遠くに聞いて、リチャードと名乗ったその少女は、まっすぐ川の方向へ走り出していったのだ。
水辺が近いということもあるが、ずいぶん寒い。『火噴き島』からは考えられない気温だ。町全体がまだ朝靄の中にいた。
「まつ毛まで凍るかと思ったぜ」と、町に入るなりタイレルは文句を言った。「どこかあったまれる場所を探さないと、俺はもう凍えちまうよ」
「情けない」
そう口にしながら、イーディスは町全体を眺めるように忙しなく視線を動かしていた。取れる情報は漏らさずすべて入れたい。
タイレルは、魔法使いのやり方を理解しているつもりでも、こういうときに徒労感を覚える。
「それで、仰せのとおりに焦ってやってきたけど、これからどうするんだよ」
「しっ」
と、イーディスは人差し指を唇に当てた。
タイレルは膨れっ面だ。
「ほら、それをこっちへ」と、馬から降りて、手綱を渡せと手を招く。「見て回ってきなよ。俺は宿屋を探しておく。さすがにこのままぶっ続けて舟には乗れないぜ。硬くてもいいから屋根のある部屋で、ベッドで寝たいんだ」
最後は独り言のようにぶつくさやりながら、彼は二頭の馬を引いて去っていった。待ち合わせもなにもない。どうせ、会おうと思えばイーディスのほうから見つけられるのだ。
イーディスは彼の言葉に甘えて、町を一周することにした。もしかしたら、紛れて暮らしている、行きにタイレルが会ったという、マグナ会の人間も見つけられるかもしれない。
なるべく身構えないように、先入観を捨てて、イーディスはまるで気楽な観光客のように歩き回ることにした。
かつて夏になると涼を求めてエドワード王たちが滞在したという湖のほとりも、今は寒さに縮こまっていた。湖で獲れる魚もどんどん減ってきて、北側、山の麓では立ちいかなくなった町や村もあると聞く。
そんな状況の中では、南側の『湖畔の町』は、まだ賑やかに思えたが、行き交う人々の顔はどこか、汚れた川底をすくったような沈みがちなそれだった。
西南の門から東のほうへ歩みを進めると、町の低くなっているところに『竜の大河』の支流が見えた。渡しの小舟が早くから仕事を始めている。
ふと、北が気になった。魔法使いの勘ではない。誰でも気がつくほど、目立って騒々しい。
聞き耳を立てながら、吸い寄せられるように足を向けると、どこからともなく「賊が出たらしい」「捕まったようだ」という噂話が入ってくる。
さらに進むごとに、話は具体化していき、「二人組だった」「若い男が二人」「一人がまだ逃げている」という声を聞く頃には、生捕にした犯人を連れていく兵士とすれ違った。
落ちぶれかけた町に不似合いな装束は、紛れもなく王直属の兵のもの。
囲まれて連れて行かれる青年は、まだあどけなさの残る農民風。いったいどんな大罪を犯したのか、両手を前に拘束されて、項垂れて歩いている。
抵抗は無駄だと諦めているのか、やけにおとなしい。黒く短い髪と、太く吊り上がった眉。しかし、すれ違いざまにチラリと覗いた瞳は、頑なな意志を持って燃え盛っていた。
「ハッ」と、その瞬間、イーディスの胸に何かが去来した。今度こそ魔法使いの勘である。
彼女は家の隙間に身を翻らせると、外套の前をしっかりと合わせた。神経を尖らせて、しかし悟られぬように外面は柔らかく、小道から小道へ縫うように進む。
その間も、厳しい装備の兵士やそれに従う賊狩りと、何度もすれ違った。「いたか?」「いいや」「どこへ行った?」と口々に交わしている。
イーディスは立ち止まった。
馬屋の前だった。
お姫様は、馬番の男と逃げた。
それを思ったとき、彼女はふいに隣にあった、自分の背丈よりも高く積まれた干し草の中へ手を突っ込んだ。
途端に「わっ!」と、飛び退いた。
鋭い短剣が彼女の腕を切り付けるところだった。
すんでのところでそいつの手首を掴むと、勢い任せに引きずり出した。
現れたのは、ブルネットの少年……いや、女?
服こそボロをまとい顔に汚れを作っているが、内側から湧き出る気品が、彼あるいは彼女を、一角の人物ではないと教えてくる。恐怖に顔色を失っているが、なお瞳にはあの青年と同じ覚悟が見えた。
次の瞬間、イーディスはその人物に覆い被さって、キスをした。有無を言わさず、体全体で押さえ込み、情熱的に。
その背中に一人の兵士が通りかかる。こちらに一瞥くれて「朝っぱらから」と愚痴をこぼして去っていった。
十分に間を置いて体を離すと、イーディスの頬に平手が一閃。
「無礼者!」
と罵ったダークブラウンの瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
イーディスは悪人になりきったような不適な笑みで、叩かれた頬をさすりながらしげしげとそれを眺めた。
「ご挨拶ですね。リシェル様」
と、その名前を呼ぶ。
リシェルの肩が揺れた。激しく動揺するのを抑えきれず、「何者だ?」と、虚勢を張る声もか弱い。
「私はあなたを助けにきました。『火噴き島』、マグナ会のイーディスと申します。さあ、こちらへ」
差し伸べた手を、追い詰められた乙女はまんまと掴むだろうと思った。だが、違った。
「面倒ごとに巻き込まれそうなところ、機転を効かせてくれたということで、お前の行いは水に長そう。しかし人違いをしているようだぞ、魔法使いのイーディス。私はリチャード。ただの、リチャードだ」
そして追っ手の声を遠くに聞いて、リチャードと名乗ったその少女は、まっすぐ川の方向へ走り出していったのだ。
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