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第3章 イーディスとモーラ

第9話 舟上の攻防

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「ったく、なんでこうなるんだよ」

 イーディスは反射的に彼女を追いかけていた。
 決断力はあっても危なっかしいお姫様は、家の角で飛び出しかけてはイーディスに肩を掴まれて兵士をやり過ごし、小道の左右で反対を選びそうになってはまたイーディスに「こっちだ」と指される。

 そうして二人で岸辺へ到着すると、リチャードとやらはキョロキョロと何か、あるいは誰かを探し始める。

「舟ですか? それならどれでも」と提案しても、頑として聞かず、ちょうど一軒のみすぼらしい酒場から朝酒にほろ酔い気分で出てきた男を捕まえると、「私だ。舟を出してくれ!」と飛びついた。

 酔っ払った船頭に何を言い出すのかと思ったが、頼まれた男は急にしゃっきりした目になると、川へ飛び込み冷水で頭を覚ませ、とっとと舟を準備した。

「なんなりと! どこへでも! 地獄の果てまでお漕ぎします!」
「あの山を目指してくれ!」

 北を指すリチャードに、目を丸くしたのは船頭だけではない。

「いくらリチャード様のお頼みでも、そればかりは」
「大蛇のときもそう言って、結局ここまで漕いでくれたではないか」
「いいえ、それとこれとでは話が違います。あっしらが漕げるのは水の上だけ。凍りついた湖の上は通れません」
「それなら」と、リチャードは必死に代替案を探す。「どこでもいい。山に近づけるだけ近づいてくれ」

 承知した船頭の舟へ、イーディスはポンと飛び込んだ。

「お前! まだ用か?」
「そう邪険になさらないでいただきたい。リシェ」
「呼ぶな!」
「おっとっと。そんな大声を出されて、追っ手に見つかったらどうなさるおつもりで?」

「追っ手ですって?」
と、飲んでいた船頭には一連の騒動が伝わっていないらしい。

「なんでもない。無実の罪を着せられて、家から追われているのだ」

 リチャードは断言したが、それが何も知らない部外者をごまかす作り話であることは、イーディスにはお見通しだ。

「確か、密命を受けて『神吹の湖』へ向かっておられるのでは?」
「複雑な事情があるのだ。とにかく急いで漕いでくれ」
 出まかせの筋が通らなくなったのか、リチャードは権威で押し通して船頭を黙らせた。

 イーディスは揺れる小舟の上で少女ににじりよった。

「腹を割って話しませんか? リチャード。あんたがなぜ父親から追われているのか、大体のところを私は知っているんですよ」
「魔法使いの話に耳は貸さん。うさんくさい連中だと聞いている」
「それはご自身の耳目で確かめたらよろしいじゃないですか。人の噂話ほど当てにならないものはない。私だってこの目であんたを見るまで、こんなおてんばだとは存じませんでした。エセルバートの秘蔵っ子。深窓の美しき姫君としか聞いていなかった」

 部外者に聞かれぬよう小声で囁く。まるで自分が人心を惑わす蛇にでもなった気分だ。しかし、今は仕方ない。イーディスは魔物だろうが蛇だろうが、平和のためなら何者にでもなってやる覚悟だった。

「来る途中、あの男に会いましたよ。あんたの馬番の」
「ガス!」
「そう、ガスだ」

 古典的な手に引っかかって、世間知らずのお姫様は大切な名前を開示してくれた。それほど必死なのだろう。目の色が変わった彼女にチクリと胸が痛む。

「ガスを知っているのか? 彼は?」
 イーディスは痛々しい表情を作って俯きがちに首を振った。
「そんな……」
と、瞳から希望の光が失われ、さらに胸がズキズキと痛んだ。咄嗟の判断とはいえ、奪った唇に目がいって、きっと城暮らしの間はさぞ艶やかに煌めいていたのだろうと余計なことを考える。今、彼女のそれはカサカサに乾いてひびわれている。

「彼が連れて行かれるのは、おそらくここからであれば『鴉城』でしょうね」
「『鴉城』だと? あの、ハーラの城か?」

 拷問王の異名は、可憐な姫にも伝わっていた。
 イーディスは言葉を改めて、慰めるように言ってやった。

「しかし、まだ望みはありますよ、リチャード様。あの地下牢には私の知る者がおります。女性で、私と同じように特別な力を備えております。癒しの能力です。彼女がいる限り、ガスは無事でしょう」
「本当か?」
「ええ。でも彼はそこで、あんたの行方を聞かれる。ハーラは色々な方向から、あらゆる手を尽くして尋ねるでしょう。ガスは強情だ。あんたを守るためなら命を惜しまない。時間をかければかけるほど、彼の心身は」
「やめてくれ!」と、リチャードは顔を背けた。「言うな。言わないでくれ……」

 肩を震わせ、舟板に涙が落ちる。

「ああ、ガス……、私は、なんと愚かな人間なんだ。私の欲望のために、彼がそんな目に……」
「リチャード、今なら彼を助けられます。あなたが愛し、あなたを愛した男を」
「どうすればいい?」
「もちろん、戻るのです。エセルバートの元へ」

「無理だ!」
と、リチャードはさらに首を振った。
「今さら戻っても……それに、戻れば私に待っているのは……」
「ええ、そうです。ギャラン様との婚姻。しかし今、そこに一人の男の命がかかっているんですよ」

 それに、世界の運命も。
 リチャードは懐で短刀を握りしめていた。白百合と獅子。王家の紋章で間違いない。この姫は、なんというものを持ち出してきたんだ。

「戻れない」
「なんですと?」

 言い切ったリチャードに、イーディスは思わず聞き返してしまった。

「戻らない!」と、リチャードは繰り返した。顎を上げた目は、か弱い姫のそれではない。「ガスと約束した。私は、『鷹ノ巣城』のアデリーンに会いにいく!」
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