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欠落のはじまり
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「里見|《さとみ》さーん、里見滝|《さとみたき》さーん!」
名前が呼ばれると、診察室へ通される。
「それじゃ、お大事に」
貼り付けたような笑顔で俺にそう言った。これが彼の日課なのだろう。
「ありがとうございました」
会釈をして部屋を出る。長くて白い廊下は、かすかに薬品の匂いがする。
俺にはここ3ヶ月の記憶が無い。
精神的なものだと医者は言うが、心身ともに健康なのだから釈然としない。
この3ヶ月間で周囲の環境も変わってしまって、まるで浦島太郎の気分だ。
病院は小さな山の上にある。舗装された道を下り、自宅へ向かう。
「ただいま」
六畳間の城に着く。
自分の部屋なのに、まるで他所の誰かが住んでいたのかのような居心地の悪さを感じた。
「バイトまでは、まだ時間があるな」
敷きっぱなしの布団に倒れ、アラームをセット。ゆっくり目を閉じ、呼吸に意識を向ける。
意識が遠のく中、ふと誰かに呼ばれた気がした――――
里見滝|《さとみたき》のバイト先まではそんなに遠くなく、自宅から歩いて10分ほどだ。
長さ150mほどの橋を渡った先に、有中|《ありなか》町が存在する。
下校途中だろうか。今日も河原で数人の小学生が道草を食っていた。
まだ青々とした草木達が揺れる。気持ちの良い風だ。
夏も終わり、ここにも実りの季節がやってくる。
「あら里見くん、おはよう」
恰幅のよい男が柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
「タカコさん、おはようございます」
俺は挨拶も早々に店の奥へ入ろうとした。
「あ、ちょっと待って里見くん」
「はい、なんでしょう」
「そろそろウチで働き始めて2年でしょ? 昇給のお話しようかなと思って」
「え、そんなの、いいですよ。身寄りのない俺をここまで良くしてくれているだけでも充分助かっていますから」
「素直に後でブラックバイトだとか訴えられたら溜まったもんじゃないわよ」
タカコさんは冗談交じりな口調でムッとしてみせた。
「でも」
「いいから今度印鑑持ってきなさいな」
ヤニでコーティングされた黄色い歯を見せながらニカッと笑った。
少し強引なところもあるが、面倒見の良い人である。
「ありがとうございます」
俺は一礼をして事務室へ向かった。
エスニック料理屋コロンボ。
店主のタカコさんのキャラクターと自慢のが人気の店だ。
こだわり抜いたスパイスを使った料理は絶品で、故郷の味がするとかで外国人のファンも多い。
「はい! 只今伺います!」
今日も満席。店内を奔走し、足がもつれそうだ。
「おっ! 兄ちゃん、こっちにもビールよろしく」
仕事終わりのサラリーマンだろうか。
無精髭に少し白髪の混じった髪の毛、50代前半といったところ。
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
空いた席のテーブルを拭きながら応えた。
「あれ? 兄ちゃんどっかで見たことあるなぁ、俺と会ったことある?」
テンプレートのような口説き文句だ。この男も“そっち系“なのか。
「無いですよ。ウチは初めてですか?」
常連客はしっかりと記憶しているはずだ。ましてやこれだけ気の良さそうな男を忘れるとは思えないが。
すると男は、目を細めたかと思うと途端に指を指して言った。
「おー! その左手の甲の傷、間違いないね」
指をさしながら顔をしわくちゃにする。
「やっぱそうだよ、酔っ払って外でぶっ倒れてた俺に水くれたじゃん。あん時ゃ助かったよ。若いのに人間出来てるねあんた」
肩をバシバシと叩かれたあと、握手を求められた。
「あ、はい」
なんのことだかさっぱりだったが、咄嗟に応じてしまった。なんだこの男は。
「ビール、すぐお持ちしますね」
確かに手の甲に傷はあるが、そんな場面に出くわした覚えは無い。
「ちょっと里見《さとみ》くーん!」
厨房のタカコさんが俺を呼ぶ。
男の話は気になったが、再び仕事に集中する他ないようである。
閉店後、ゴミ出しのついでに店の裏口に座る。
オーダーを取りながら無数の料理を踊るように運ぶのだから、てんてこ舞いとはまさしくこのことだろう。
「疲れた……今日はいつにもまして忙しかったな」
そんなことを一人つぶやいていると、後ろのドアが重い音を立てながら開いた。
「あ、里見くんだ」
茶髪の長い髪が見えたかと思うと、月崎舞保が顔を覗かせた。
「月崎さん、おつかれさまです」
月崎さんはコロンボで働いて7年目のベテランホールスタッフだ。
仕事ができて気配り上手、おまけに容姿淡麗ときているのだから、口説きにかかる男が後を絶たないのも頷ける。
「おサボり中だったかな?」
いたずらめいた口調で俺の隣に座った。
「さすがに今日はこたえました……」
「たしかに今日は結構大変だったかもねー」
俺の倍のスピードで働いていたくせに汗一つかいていない。これがその道の熟練者|《じゅくれんしゃ》か。
それどころかかすかに良い匂いがする。
「月崎《つきざき》さんでも大変だと思うときがあるんですね」
「えっ、ちょっと人のこと接客マシーンか何かだと思ってない? あるに決まってるじゃーん」
ケラケラ笑いながら肩をバシバシと叩いてくる。
地味に痛い。
「大変だって思うときもあるし、悩み事だってあるよ」
そう言った彼女の顔は、どうにも浮かない様子だった気がする。
気がするというのは、顔を照らしていた月明かりが雲に隠れてしまったためである。
「なにかあったんですか?」
特に心配したわけではない。親しい間柄なのだからこう質問するのが自然な流れだろう。
「いやぁ、里見|《さとみ》くんに話すのもどうかと思うんだけど……」
いつも軽快なトーンで話す明るい月崎舞保|《つきざきまほ》らしからぬ、重い口調だ。
「私の家、お母さんいなくて」
彼女が片親だというのは前に聞いた覚えがある。
「ストレスなのかな、最近私、知らない間に外を出歩いているみたいで」
「みたいで……というのは?」
「記憶に無いの、出歩いているときの記憶が。夢遊病? ってやつなのかな」
「最近は頻繁に症状が起こるみたいで……全く覚えてないんだけどね」
彼女は、笑っちゃうよね、と自嘲してみせた。
「それで今日お父さんがお店に来ててね、心配性なのよ、あの人」
「自分だって飲んだくれて記憶無くすこと、あるくせに」
「その人ってもしかして50代くらいで無精髭の……」
「そうそう、なんか話した?」
「まぁ、ちょっとした世間話を」
「結構飲んでたでしょ、ごめんね?」
俺はアハハと複雑な顔で相づちを打った。
「ほんと、大学講師なのにまったくなにやってんだか」
あれで講師なんですか――――とはとてもじゃないが言えない。
「話、聞いてくれてありがとね。少し、楽になったかも」
「いえ、でも本当に……」
つらい時は言ってください、力になります。
そんな薄情|《はくじょう》な言葉は、彼女の笑顔を見た途端、煙のように消えていった。
月崎舞保|《つきざきまほ》の遺体が発見されたのは、それから2日後の事だ。
名前が呼ばれると、診察室へ通される。
「それじゃ、お大事に」
貼り付けたような笑顔で俺にそう言った。これが彼の日課なのだろう。
「ありがとうございました」
会釈をして部屋を出る。長くて白い廊下は、かすかに薬品の匂いがする。
俺にはここ3ヶ月の記憶が無い。
精神的なものだと医者は言うが、心身ともに健康なのだから釈然としない。
この3ヶ月間で周囲の環境も変わってしまって、まるで浦島太郎の気分だ。
病院は小さな山の上にある。舗装された道を下り、自宅へ向かう。
「ただいま」
六畳間の城に着く。
自分の部屋なのに、まるで他所の誰かが住んでいたのかのような居心地の悪さを感じた。
「バイトまでは、まだ時間があるな」
敷きっぱなしの布団に倒れ、アラームをセット。ゆっくり目を閉じ、呼吸に意識を向ける。
意識が遠のく中、ふと誰かに呼ばれた気がした――――
里見滝|《さとみたき》のバイト先まではそんなに遠くなく、自宅から歩いて10分ほどだ。
長さ150mほどの橋を渡った先に、有中|《ありなか》町が存在する。
下校途中だろうか。今日も河原で数人の小学生が道草を食っていた。
まだ青々とした草木達が揺れる。気持ちの良い風だ。
夏も終わり、ここにも実りの季節がやってくる。
「あら里見くん、おはよう」
恰幅のよい男が柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
「タカコさん、おはようございます」
俺は挨拶も早々に店の奥へ入ろうとした。
「あ、ちょっと待って里見くん」
「はい、なんでしょう」
「そろそろウチで働き始めて2年でしょ? 昇給のお話しようかなと思って」
「え、そんなの、いいですよ。身寄りのない俺をここまで良くしてくれているだけでも充分助かっていますから」
「素直に後でブラックバイトだとか訴えられたら溜まったもんじゃないわよ」
タカコさんは冗談交じりな口調でムッとしてみせた。
「でも」
「いいから今度印鑑持ってきなさいな」
ヤニでコーティングされた黄色い歯を見せながらニカッと笑った。
少し強引なところもあるが、面倒見の良い人である。
「ありがとうございます」
俺は一礼をして事務室へ向かった。
エスニック料理屋コロンボ。
店主のタカコさんのキャラクターと自慢のが人気の店だ。
こだわり抜いたスパイスを使った料理は絶品で、故郷の味がするとかで外国人のファンも多い。
「はい! 只今伺います!」
今日も満席。店内を奔走し、足がもつれそうだ。
「おっ! 兄ちゃん、こっちにもビールよろしく」
仕事終わりのサラリーマンだろうか。
無精髭に少し白髪の混じった髪の毛、50代前半といったところ。
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
空いた席のテーブルを拭きながら応えた。
「あれ? 兄ちゃんどっかで見たことあるなぁ、俺と会ったことある?」
テンプレートのような口説き文句だ。この男も“そっち系“なのか。
「無いですよ。ウチは初めてですか?」
常連客はしっかりと記憶しているはずだ。ましてやこれだけ気の良さそうな男を忘れるとは思えないが。
すると男は、目を細めたかと思うと途端に指を指して言った。
「おー! その左手の甲の傷、間違いないね」
指をさしながら顔をしわくちゃにする。
「やっぱそうだよ、酔っ払って外でぶっ倒れてた俺に水くれたじゃん。あん時ゃ助かったよ。若いのに人間出来てるねあんた」
肩をバシバシと叩かれたあと、握手を求められた。
「あ、はい」
なんのことだかさっぱりだったが、咄嗟に応じてしまった。なんだこの男は。
「ビール、すぐお持ちしますね」
確かに手の甲に傷はあるが、そんな場面に出くわした覚えは無い。
「ちょっと里見《さとみ》くーん!」
厨房のタカコさんが俺を呼ぶ。
男の話は気になったが、再び仕事に集中する他ないようである。
閉店後、ゴミ出しのついでに店の裏口に座る。
オーダーを取りながら無数の料理を踊るように運ぶのだから、てんてこ舞いとはまさしくこのことだろう。
「疲れた……今日はいつにもまして忙しかったな」
そんなことを一人つぶやいていると、後ろのドアが重い音を立てながら開いた。
「あ、里見くんだ」
茶髪の長い髪が見えたかと思うと、月崎舞保が顔を覗かせた。
「月崎さん、おつかれさまです」
月崎さんはコロンボで働いて7年目のベテランホールスタッフだ。
仕事ができて気配り上手、おまけに容姿淡麗ときているのだから、口説きにかかる男が後を絶たないのも頷ける。
「おサボり中だったかな?」
いたずらめいた口調で俺の隣に座った。
「さすがに今日はこたえました……」
「たしかに今日は結構大変だったかもねー」
俺の倍のスピードで働いていたくせに汗一つかいていない。これがその道の熟練者|《じゅくれんしゃ》か。
それどころかかすかに良い匂いがする。
「月崎《つきざき》さんでも大変だと思うときがあるんですね」
「えっ、ちょっと人のこと接客マシーンか何かだと思ってない? あるに決まってるじゃーん」
ケラケラ笑いながら肩をバシバシと叩いてくる。
地味に痛い。
「大変だって思うときもあるし、悩み事だってあるよ」
そう言った彼女の顔は、どうにも浮かない様子だった気がする。
気がするというのは、顔を照らしていた月明かりが雲に隠れてしまったためである。
「なにかあったんですか?」
特に心配したわけではない。親しい間柄なのだからこう質問するのが自然な流れだろう。
「いやぁ、里見|《さとみ》くんに話すのもどうかと思うんだけど……」
いつも軽快なトーンで話す明るい月崎舞保|《つきざきまほ》らしからぬ、重い口調だ。
「私の家、お母さんいなくて」
彼女が片親だというのは前に聞いた覚えがある。
「ストレスなのかな、最近私、知らない間に外を出歩いているみたいで」
「みたいで……というのは?」
「記憶に無いの、出歩いているときの記憶が。夢遊病? ってやつなのかな」
「最近は頻繁に症状が起こるみたいで……全く覚えてないんだけどね」
彼女は、笑っちゃうよね、と自嘲してみせた。
「それで今日お父さんがお店に来ててね、心配性なのよ、あの人」
「自分だって飲んだくれて記憶無くすこと、あるくせに」
「その人ってもしかして50代くらいで無精髭の……」
「そうそう、なんか話した?」
「まぁ、ちょっとした世間話を」
「結構飲んでたでしょ、ごめんね?」
俺はアハハと複雑な顔で相づちを打った。
「ほんと、大学講師なのにまったくなにやってんだか」
あれで講師なんですか――――とはとてもじゃないが言えない。
「話、聞いてくれてありがとね。少し、楽になったかも」
「いえ、でも本当に……」
つらい時は言ってください、力になります。
そんな薄情|《はくじょう》な言葉は、彼女の笑顔を見た途端、煙のように消えていった。
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