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3.待てば甘味の恵み有り。とはいえ、悪縁契り深しかな

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 自分の記憶が消えたから、エルダーは今、満ち足りた生活を送ることができている。
 小汚い平民に対して、何の躊躇いもなく手を差し伸べることができるほどに。

 そして師匠の術であの人たちの中から自分の記憶が消えたから、今の自分がある。

 一人の伯爵令嬢の存在が消えたから、二つの幸せが生まれた。



 ─── なのに、どうしてこんなにも心がざらざらとするのだろう。



 アネモネは、顔を上げて空を見つめた。

 だからと言って後悔などしていない。
 昔に戻りたいなど一度も思ったことは無い。
 二度と戻りたくはないとは、何度も思ったけれど。

 顔の位置を戻したアネモネは、よったよったと歩き出す。

 ……これは深く考えない方が良いことだ。考えてはいけないことなのだ。

 だから湧き上がる名前の付けることができない感情を踏み潰すように、一歩一歩、歩き続ける。

 けれど、不意に地面に雫が落ちた。

 それは一つではなかった。ポタリポタリと地面に染みを作る。

 アネモネは足を止めて再び空を見つめた。

 ついさっきまで淡い水色だったそれは、今にも落ちてきそうな厚い雲に覆われていた。

 そして大粒の雫が、アネモネの頬に落ちる。

 3つまで数えることができたが、あっという間に土砂降りの雨になってしまった。

「……踏んだり蹴ったりだ」

 アネモネは思いっきり顔を顰めて舌打ちした。

 空から降ってくる雫は平等に街全体を濡らしていく。ザーザーと雨脚を強めて、容赦無く。

 髪や肩、腕に頬。至るところに雨粒を感じながらアネモネはまた歩き出す。

 今、この足すら止めてしまったら、その場にしゃがみ込んで動けなくなりそうだから。

 一つの仕事をこなせば、階段を上がるように一つ大人になると思っていた。
 そして経験を積み上げていけば、師匠のような一人前の紡織師になれると思っていた。

 でも、なぜだかわからないけれど、今、ちっとも自分が目指す大人に近付いているとは思えない。

 アネモネは、立ち止まって深く息を吐く。
 でもまたすぐに歩き出す。足を引きずるようにして。

 すれ違う人々は、相変わらず忙しない。

 突然の雨に何がそんなに嬉しいのか楽しそうに声を上げ飛び跳ねるように歩く子供がいれば、それを見て苛ついた表情をするやさぐれた風貌の男がいる。

 買いたての梱包されたサクランボを取り出して軒先で雨宿りをしながら食べ出すご婦人もいれば、反対側の大きな木の下でクリームが山盛りになった焼き菓子を頬張る妙齢の女性達もいる。

 皆、少しずつ違う表情を浮かべて歩いている。
 でも、こんなに惨めな顔をしているのは自分だけだろう。

 アネモネの足が、とうとう止まってしまった。

 雨が降っても街を歩く人はいる。そして皆、総じて早足だから、まるで自分がどんどん後ろに流れていくようだ。

 こんなにざわついた心を抱えているというのに、周りの景色は何も変わらない。きっと明日も、明後日も。

 どうして、自分は進めずにいるのだろう、とアネモネは不意に思った。歩行のことではなく、現状で。

 一つの仕事に思いのほか時間がかかってしまっているから、弱気になってしまっているだけなのか。
 それとも、自分が描いた大人になる過程の中に、馬車から突き落とされることが含まれていなかったせいで、戸惑っているだけなのだろうか。

 まさか、とうに吹っ切れたはずの昔の家族……とは言えない人達に再会して、自分でも情けないと思う程動揺してしまったせいなのか。

 その全部のせいなのか。

 アネモネの瞳から暖かい何かが溢れてくる。
 雨の色と同じそれは、どれだけ止めようとしても、止めることができなかった。

 違う。これは涙じゃない、雨だ。絶対に雨だ。誰が何といっても。

 そんな強がりを心の中で呟いた後、アネモネは手にしていたハンカチをポケットにしまった。

 これ以上、汚してしまわないように。





 
 時刻はもう夕方だ。

 今日はミルラが来てくれる日だけれど、きっともう帰宅しているだろう。

 ミルラのことは好きだけれど、今日は顔を合わせたくない。一人になりたい。そして思いっきり泣いて、スッキリしたい。

 そう思っていたのに、間が悪いことにミルラはちょうど家の門を出るところだった。

 今日はつくづくツイていない。

 せめて会釈程度でやり過ごすことができたら良いなと思ったけれど、それすら過ぎたる願いだった。

「ちょっと、あんた!な、な、なんて格好してるんだい?!」

 ふくよかな身体に似合わない動きで駆け寄ったミルラは、乱暴にアネモネの肩を掴んだ。

「……ごめんなさい。お借りした服、汚してしまいました」
「馬鹿言ってんじゃないわよっ」

 ニコニコと笑い、キビキビと動くミルラが別人のように見えた。あと、こんなときに好きな人からの罵声は、かなりキツい。

 掴まれた肩を振り払う勇気が無いアネモネは、目一杯ミルラから目を逸らす。

「ごめんなさい、すぐ洗濯しますから、ごめんなさい許して下さい。ちゃんと綺麗にします。元通りにします……すみません、ごめんなさい、どうか許してください……ごめんなさい、ごめんなさい」

 頭がぐらぐら揺れて、身体が芯から凍えていく。

 寒くて、怖くて、足元がゆらゆらして、おかしな世界に迷い込んでしまったようだった。

 もう怒らないで、何でもするから。
 お願いだから、どうか今は責めないで。

 これ以上の罵倒を受けたら、心がめちゃくちゃになって壊れてしまいそうだ。そうしたら、もう二度と立ち直れない。

 アネモネは無意識にミルラから距離を取ろうと踵を浮かす。

 でもその瞬間、ミルラの胸が大きく膨らんだ。

「何言ってんだよっ。服なんてね、どぉーでも良いんだよ!!」

 カミナリよりも大きなその声に、全ての感情も思考も弾け飛んでしまったアネモネは、ただただ口を半開きにすることしかできなかった。
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