世界樹の庭で

サコウ

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「お祈りはおすましになられたのでしょうか」
 差し出されたオレンジ色の花。見上げた先、女性がはにかむ。優し気な目元。色白の肌に淡い桃色の頬が微かに震えた。
「まだでしたらば……よろしければあなた方のためにお祈りをさせてくださいませんか」
 視線が合ったかと思えば、すぐさまにその目は伏し目がちになった。それでも口元から笑みは消えない。慈愛を形にようとすれば彼女のような姿になるのかもしれない。
「えっと」
「お気遣いありがとうございます。自分たちでできますので」
 戸惑っている僕とは違ってロジェさんは慣れたようにその人から花を受け取って出て立ち上がった。それにつられて僕も立ち上がる。そこでやっと女性は一人ではないことに気づく。同じように花籠を抱いた二人の女性たちが彼女の後ろに控えていて、動かした視線に皆一様に目を伏せてしまった。そんな彼女たちには気を止めずロジェさんはさっさと聖母像の許で膝まづいていた。
 僕は振り向いた。先日、王都でも同じように花売りの女性たちに声をかけられた時、ガイドをしてくれていた人に名前を聞いて一緒に祈ってやるのが礼儀だと教えてもらっていた。
「あの、お名前を」
「ナセル」
 いいからと、ロジェさんの声に遮られる。
「はやく」
 問答無用の様子に僕はただ彼に従うしかない。彼女たちに見守られながら聖母像の足元で膝をついて首を垂れた。ロジェさんが祈りの詩篇を口ずさむのを聞く。ああ、確かに子供のころにしていたことだ。その時は母の像だったし、隣の人はジャン先生だった。
 記憶が押し寄せてくる。確かにつらかった時期ではあった。ほとんどまともな思い出もない。でも、確かに暖かい手がそこにあった。空虚な自分を見守っていた目があった。
「――深く感謝いたします」
 いつしか声が重なっていた。終わりの句を言い終わっても立ち上がることができなかった。胸の前で合わせた拳が震えていた。振り切ったとは思っていたけれども、なかったことにしたわけではない。
「どうした」
 ロジェさんに肩を叩かれ我に返る。人前だ。頭をふって幻想を振り払い視線を上げた。オレンジの空。聖母様の長い影が僕たちに落ちていた。
「行こう」
「花のお礼は」
「聖母様にお返ししただけだ」
 僕の問いにロジェさんが短く答える。彼女たちも微笑みのままただ頷いていた。ロジェさんがいやに素っ気ない。街のしきたりになれない僕に、彼女たちは聖母様の従者だから親切にするものだと教えてくれていたのに。
「でも、」
「お祈りは済んだかな」
 食い下がる僕の声に今度は低い男性の声が重なった。ロジェさんの眉が一瞬ゆがんだのが見えたが、声の主を認めて理解する。穏やかなのは口調だけで、じろりと流す目は笑っていない。その目に一瞥された女性たちは足早に僕たちから離れて行ってしまった。
「失礼いたしました」
 礼拝の邪魔になってしまっていたのだと、僕たちもとっさに頭を下げて立ち去ろうとしたが、行く手を遮られる。
「ああ、君たちはいいんだ。カントナ卿?」
「ご機嫌麗しく、子爵。ご無沙汰をしております」
「ご無沙汰とは寂しいな。先日にも顔を合わしているだろうに――」
 豪奢な装い、ロジェさんの知り合いらしいが神妙に対応しているところを見れば、僕はおとなしくしておいた方がよいようだ。一歩下がって、やっとそこで僕は周りの状況に意識をやることを思い出していた。子爵には三人ほど控えている。さっきの花売りの女性たちの他に、遠巻きに僕たちをの様子を見ている人々の姿があった。ベンチに座っている。木陰に腰を下ろしている。数人で固まって立ち話をしている。だが、どれもが盗み見るような視線をこちらに向けていた。知らないうちに人々の興味の引くところとなっていたらしい。この公園に入って目立つようなことはしていないのに。であれば、そもそも僕たちが何なのか知っているってことだ。
「――それで、モレロン様とはお会いしたのだろう」
 子爵と呼ばれた男が聞いていた。当たり障りのないやり取りもそこそこにして、にわかに声を潜めはじめた。なるほど探りが目的らしい。たぶん、彼らも。
「いえ、私は」
 ロジェさんが答える。そっけないままだ。僕が気づいているってことは、言わずもがな。
「隠してくれるなよ、私と卿との仲ではないか」
「この度は使者として派遣されただけですので」
「しかし君たち以外にあの館に入れたものはいないのだぞ」
「はァ」
「ご容体はどうなのかね。皆心配で気が休まらんのだ。少しくらい教えてくれてもいいではないか」
 なぁ、と同行していた一人に話を振れば、二人してどれだけ心を下しているのかを弁明するようにジャン先生について話し出した。それによると地方への巡礼はもちろん、王城での祭事にも次席のものに任せきりだとか。たかだが一人の司祭ごときに、とはもう思わなかった。ここまでくるとさすがに偉い人なのだと重々に理解できていた。誰もが彼を注視している。しかし、残念ながら誰もが純粋な信仰心からというわけでもないだろう。
「ところでこちらの方は。ああ、失礼。一応私も顔が広い方だと思っていたのだがね」
 きた。ロジェさんから欲しい答えを引き出せないと見た彼らは、今度は僕に標的を変えたようだった。品定めをするような視線が全身を舐めた。
「小隊ものです」
 短く答えたロジェさんの声に合わせて頭を下げ、視線を地面に落とした。僕が庶民なのだと認識し一瞬言葉を詰まらせてはいたが、一層興味を沸き立たせたらしい。
「なるほど? 私が知らないはずだ。ほう、よく面倒を見てやっているようですな。その見栄……どこぞの御曹司かと」
 薄ら笑いが広がる。頭を下げていてよかった。自分の頬がひきつっているのがわかる。
「用がないのならこれで」
 ロジェさんが乾いた声で言い放って踵を返した。慌ててそれについていく。
「ああ、待ってくれ。用がないだなんて、いやに冷たいじゃないか。噂では、その彼が通されたとか、聞いているのだが」
 いやに大声にいう。まるで周りに聞かれてほしいようだ。まぁ、彼らにとっては新しい情報でもなさそうだが。
「ご存じでしたか。確かに隠す必要はないですが、別に言いふらす理由もないでしょう」
 対してロジェさんはただ彼だけに聞こえるように、いつもの調子でかえす。
「それは君が決めることではない」
 わずかな敬意も消え失せたらしい。苛立たしさも隠さない口調。誰かがこの人をスパイで送り出したのであれば明らかな人選ミスだろう。
「失礼」
 押し黙ったロジェさんの態度にまずいと気づいたのか、咳ばらいを一つして、にこやかに見えるよう唇を釣り上げた。
「我々がどれだけ親愛なる司祭殿の心配をしているのか疑っているのかね? こんな状況で些細なことでも知りたいと望むのもわからないわけがないだろう」
 縋りつくような言葉ではあるが、どうしても尊大さが抜けきらない。何もかも回りくどくて鼻につく。そのうえ自分の望みが叶わないわけがないと疑ってもいないようだ。
「彼が石工の子息だからです」
 淡々とロジェさんが答えた。
「石工の? どういうことだね」
「司教が手厚く保護されていた石工の村があったのはご存じでしょう。そこの代表としてお見舞いを許されたのです」
「では、君はお顔を見たと」
 視線が僕に集まる。庶民の僕がお貴族さまに直接話していいものか戸惑った僕は押し黙ってしまった。
「いいから答えたまえ。ご機嫌は? ご様子どうなのだ」
 ロジェさんがうなづいたのを見て、口を開けた。
「ご容体は……僕には病気のことは詳しくは分かりませんが、とてもお辛そうでした」
「歩かれるのもやっととか聞いておるが」
「それはどうか。ずっと寝台に休まれておられましたので」
「寝室に通された、というのか」
「はい」
「なぜ、そこまで君の村を?」
「村……だったら僕もよかったのですけど……傷心の僕から聖母さまの像を取り上げたのがずっと心残りで、そのことをただ謝りたかったのだと」
 建前上そういうことになっている。ジャン先生が同じ質問をおつきの二人にされたときに答えていたから、それを借用させてもらうことにした。その方がいろいろと辻褄が合わせやすいだろうし。
「僕は早くに母を亡くしています。僕の聖母様の傍を離れない様子を知っていた。なのに取り上げてしまった、とお思いになったようです。確かに父は母に似せて作っていたのかもしれませんが、母は母で聖母様は聖母様です。その違いくらいは分かっていはしたし、それに像はたくさんありました。司教様のご用命をいただけたからこそ、僕――私たちの村は安心して暮らしをさせていただいていた。謝られることなんて何一つございません。むしろ司教様の御心を煩わせていただなんて、恐れ多い……あんな慈悲深い方がどうして、こんなお辛い、ご病気なんかに――」 
 最後まで言い終えるかいなかで口元を抑える。嗚咽を押し込もうとするように肩を震わせた。
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