世界樹の庭で

サコウ

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 揺れる馬車。右手にある小さな窓を繊細なレースのカーテンで覆った。オレンジに輝いていた街並みはすでに濃紺に沈んでいた。それぞれの建物から窓から漏れる淡い光も、また街を輝かせていた。
「迫真の演技だったな」
 そう、確かめるように指摘するのは隣に座っているロジェさんだ。
「感心してもらえてうれしいですよ」
「名前すら忘れていただろうに」
 自分でも驚いている。されたことは覚えていたけど。人に言われてやっと思い出したのだって最近で、にもかかわらず先生だなんて馴れ馴れしく呼ぶことにも何の違和感も持っていなかった。
「えぇ、まぁ。だんだんと思い出してくることもありますから?」
「無理して思い出す必要はない」
「言ったはずですよ。けりはつけています。無理やり押し込めて知らないふりをしていたわけではないです」
 きっと自分の中で整理がついていたから、生々しい実感ではなく無味乾燥な言葉に変換されて頭のどこかに仕舞っておけたのだ。今はただそれが何かのはずみで肉がついたり色がついたりして、僕をすこしばかり惑わせているのは確かだ。
「本当に終わったことだと?」
 ロジェさんは僕が本当に割り切れているのかと心配しているらしい。そこまで無理しているように見えるのだろうか。
「ええ、本当に」
 僕はほほ笑んだあと、前方にある小窓に目をやった。御者の隣であの老僧も揺れていた。馬車はジャン先生の手配だった。精一杯声を詰まらせている僕に質問攻めにしていた彼らもジャン先生の身の回りを世話しているこの老僧には無礼は働けないらしく、彼の静かな言葉によって退散させられた。
「で、なんであんなに素っ気なかったんですか。僕、お花をもらったら名前を聞いて一緒に祈ってあげるようにって聞かされてたのですけど」
「何の話だ」
「彼女たち」
「ああ、なるほど。誰から聞いたのやら。それは……ナンパのやり方だ。無事名前を教えてもらったら交渉成立だって、暗黙の了解になっている。さすがにここの女性はそうではないだろうがな」
 まんまと騙されていたのか。やたらと花を押し付けられて困り顔だった僕に働いたのは親切心ではなかったってことだ。あの野郎。ともかく、試さなくてよかった。
「あの人――子爵はあなたとの仲を言ってましたが」
 気恥ずかしいのをかき消したくて話題を変えてみる。
「遠い親戚だ。弟の母親の姉妹――叔母の夫のいとこだったはずだ」
 それは他人という。
「それじゃ、ロジェさんのお母さんも気になっているってことですか」
「彼はウィレム伯爵夫人側ではない。陛下のほうだろう。まぁ、夫人も無関心ではないようだが」
 継母を弟の母親とか肩書で言ってみたりしているが、彼は気づいているのだろうか。
「王様? 堂々と聞けばいいじゃないですか。誰もあの人の命令なら無下にしないでしょうに」
「もちろん、議会の話題にあがったが、相応の見舞いをするよう指示されただけだった」
 つまり、特別に気を払っていないってことか。確かに彼の上には枢機卿だの大司教だのたくさんの偉い人たちがまだまだいて、王城で祭儀があったとしても列のだいぶ後ろの方に並ぶだけだ。だったらなぜ、こんな回りくどい方法で調べているのだ。
「かの司教との関係は表面上無いことになっている」
 それはあるのだと宣言しているのと同じだ。彼はいったん口をつぐんだ。その視線の先にはあの白髪が揺れていた。
「隠さなければならない理由があると」
「ああ。だが、あくまでも推測の域をでないがな」
 それがそうとして、どうしてロジェさんが知ってどうなる? そんなこと――王様の意向とか貴族同士の縄張り争いとか――が彼の興味の対象なのだろうか。
「私の師と君の先生とは一度対立している」
 聞こえるか聞こえないかくらいの声でロジェさんは続けた。舌も喉も乾ききってしまったのかと思うくらい、かさかさとしていた。
「いや、君の先生は受けて立つことはなかった。ただ沈黙を守っていた。あれは、一方的に師が仕掛けたのだ」
「どんな理由で」
「彼の奇跡はいかがわしい、とね」
 そも全て奇跡はいかがわしいものだ。いかがわしくないのは魔法と呼ぶ。誰もが正しい方法と道具さえ用意できれば再現できるということになっている。でも、メニル師もそうだけど、魔法を含め御業だの祝福とかそういった類すべてを奇跡と呼んでいる人たちも――主に教会の人たちだけど――いることはいる。ややこしいことに。どう返せばよいのかわからない僕に申し訳なさそうに首を振った。
「すまない。気分を害したか」
「いえ。ご存じの通り信奉者でもなんでもないですし。すごいらしいと聞いてたくらいです」
 正直彼が行っていた奇跡なんて興味がなかったが、一回だけ口を滑らせてしまったことがあった。死んでしまった母に会いたいと。彼に首を横に振られてしまってから、僕はそれ以上望むことはしなかった。
「すごいどころじゃないぞ」
 そこまで無頓着かとロジェさんが苦く笑った。どこか愉快そうでも。
「本来魔法は誰でもできるようになっていることくらい知ってはいるだろう? でもあの司祭は準備もなく行う。ただ、いつもできるわけでもないらしく、不安定でもある。だが、どんな熟練の司祭でも太刀打ちができなかった問題の多くを――主に病気の治癒だが、解決していった。でもあの司祭の奇跡はあの司祭しかできない。どんなに説明を求めても彼は手を明かすことはしなかった。だが、人々の称賛を得るのには十分だった。多くの人々にとっては結果さえあれば過程なんてどうでもいいからな。それが――危険だとバンシロン師は警告したのだ」
「それはまた……教会の人は怒らなかったんですか」
 彼の師が医者、政治家、研究家だったとしても、宗教家とは聞いてはいなかった。もしそうだったとしても、まずは協会の上の方から叱られるだろう。
「もちろん抗議はあった。だが、どこか冷ややかでもあった。そもそも怪しいと話を持ち掛けてきたのは教会側の人間だ。ああ、非公式なのはもちろん、その告発も慎重なものだったが」
 教会も人の集まり。どんなに穏やかな人でも巨大な組織の中にいれば気が合わない人が一人や二人いても驚きはしない。でも、そこに権威とか財力が加わればどうだ。血筋がよりどころとなる王室とは違って教会はあくまでも人々の支持が基盤だ。評判が人を呼び、人が評価を膨らませ――なんだったら寄付だって呼び寄せるし、嫉妬心とか誹謗中傷とかも二人三脚で追ってくる。
「ジャン先生の評判はその奇跡あってのことだったんですか」
「それはどうだろうか……君はどう思う」
 能力をひけらかして村人に恩着せがましいことをするようなことはなかった。あの人の説く恩恵とはもっぱら精神世界のことだった。ただ、それも精力的ではなかった。村にいるときは自然体で人々の中で過ごしていたように思う。一言で言えば思慮深く親切で善良な隣人。下半身を除けば。
「少なくとも、僕たちの村ではそうじゃなかったかと」
「そうか。だが、それだけでここまでたどり着けたというのなら、人の世も捨てたものじゃないな」
 馬車の揺れが止まる。気づかないうちに表の門はすでにずっと前に通り過ぎていたらしく、館の重厚な扉が僕たちを迎えていた。
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