世界樹の庭で

サコウ

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 ロジェさんの広い背中をまさぐるにはここでは邪魔が多すぎる。背もたれとか肘置き、僕は何度も腕をぶつけていた。そのたびに文句の一つを言おうとするも全てロジェさんの愛撫によって霧散させられていた。それも僕の手が机の上の本を弾くまでだったが。
「いけない」
 ロジェさんが僕の手首をとらえた。そのまま彼の首に回してから、そっと本に手を伸ばしていた。ほう、と安堵の息が吹きかけられた。
「すみません」
「いや、私の不注意だ」
「貴重なものでしょう? 借りもの、ですよね」
「ああ。あの老僧が持ってきた。役に立つだろうと」
 つまりジャン先生の差し金か。
「リクエストでもしていたのですか」
「いや、なぜか私が知りたがっていたことを知られているようだ」
「僕は話していませんよ」
 首をひねる。書物について何か聞かされていたような気がするが、その内容――どういったものが欲しいのかは覚えていなかった。恥ずかしいことに。
「それは全く疑っていないさ」
 ロジェさんが僕の頬をやわらかく撫でた。視線は机の上の重厚なそれにおかれたままだ。
「これは確からしい昔話が記されている。そして、彼の蔵書のほんの一部だそうだ」
 乾いた笑いだった。無理に笑い飛ばそうとしている歪みがあった。
「見てみたい?」
「望まない方が難しい。失われたと信じ切っていたものが存在していたのだよ。喜ばずにはいられないさ」
 抱き上げられて運ばれていた。机が遠くなる。これ以上暴れても大丈夫なように、との用心? そして背中に柔らかで頼もしい寝台を感じた。
「それにしては嬉しそうに見えないですが」
 優しい力で圧し掛かられて、その先を期待してしまう。さすがに客先で肉欲に興じようとは考えてはいなかったが、こうなってしまっては止められない。膝でロジェさんの腰を挟んでぐっと引き寄せた。
「ここは彼の家だ」
 諫めている? いや、口だけだ。
「そのことに興奮しているのはあなたでは?」
 彼が笑った。今度は本物。薄く繊細な夜着は存在してないかのように、生々しい彼の形も熱も包み隠さず伝えていた。裾から忍び込んだ彼の指が僕の皮膚を容赦なくくすぐっていく。触られたところが熱を帯びてジンとしびれだす。
「ああ」
 高く啼いてロジェさんの頭を掻き抱いた。柔らかな髪に鼻をうずめ、額に唇を押し付ける。まさぐる腕が腹を柔らかく撫でて下腹をかすめた。それは期待を外れとも言い難く内ももをひと撫でし、ぐいと押し広げた。
「ロジェさん」
 ほとんど吐息しかでなかった。腰の下に彼の膝が差し込まれて、僕の尻は天を仰いでいた。めくりあがった夜着が胸のあたりでわだかまっている。ロジェさんからは丸見えだろうに。上体を起こした彼に見下ろされた僕は羞恥よりも期待に頬を染めていた。早く来てほしい。早く埋めてほしい。じれったさに涙さえ出ているのか、視界がゆがんでいた。なのに、振ってきた言葉は予想外だった。
「これを彼が知っているのか」
「ロジェさん?」
「こんなに魅力的な君を、君のあられもない姿を彼が知っている?」
 おおっと、今回はそういう風向きか。確かに煽りはしたが、これほどに効いてくるとは思いもしなかった。不穏と好奇心に鼓動が激しくなる。彼の輪郭を包み込んで視線を合わせた。瞳の緑が深く深く沈んでいる。底知れないほどに暗い。
「どこまで見せた? どこまで許した?」
 ほとんど独り言だった。かすれてざらついていた。
「ロジェさん」
「どうなんだ」
「……すべてです。頭のてっぺんから、つま先。喉も……それこそ、ここの奥の奥まで」
 おなかの上に載っていた彼の手に自分のものを重ねる。にわかに凶悪な空気が僕たちを包み込んだ。殺気だ。知っている。これは森でも、砦でも幾度も体験した。間違いなく彼は今、敵を見据えている。背中に感じるのは悪寒のはずなのに、流れる汗はすっかり冷めきっているのに、僕は特定の場所に熱を集めていた。
 優雅な笑みを浮かべていた唇は歪んでいた。育ちのいい人は怒りを覚えても頭に血が上らないらしい。ロジェさんはむしろ青白くなっていた。眉を顰め神経質な人のように震わせて。おぞましいものを見るような視線? 唇を噛んで何かに耐え忍びながら、僕をじっと注視していた。
「でも、許したからじゃないです」
 わかってくれますよね? ギリギリ声に出ていたはず。その証拠か、言葉にならない呻きがロジェさんから漏れていた。
「すまない。私はどうかしていたようだ。一瞬でも己を見失ってしまった。恥ずかしい」
 前のめりになったロジェさんが僕の額に唇を押し付けた。それでは満足できないよ、ロジェさん。
「過去だ、と。終わったと、君は言うが、彼との生活は君の血肉となっている」
 お会いして確信に変わった、と続けた。他人から見ても僕の言動は確かにジャン先生の思想がはっきりと色濃く影響しているとわかるらしい。
「でも、ただの一部ですよ」
 僕は言い切った。はっきりと、何のためらいもなく。
「今はあなたが私のすべてですよ。ロジェさん。言わなくても知ってくれていると思ってましたが?」
 腕を、足を動かせるだけ強い力で抱き込んだ。また。ロジェさんが呻いた。痛い? それでも離さない。
「無念だと思うよ。君を手放したなんて、彼は認めたくなかったろう」
 全く、何から何まで意味があると、どれもが漏れなく尊重されるべきものだと信じてやまないやんごとなき人々の扱いは面倒くさい、なんて思ってしまう。それだけ大切にされてきた証左なのだろうけど。
「私なら耐えられない。こんな、せっかく再会できたのに、ただ死んでいくなんてできない」
 そして息をするように競合相手にも適用するのも、まぁ、見事だ。
「お優しいですね」
「優しい? 違う。警戒しているだけだ。君を想っているのであれば、どんな手を使ってでも君を手に入れようとする。あれだけの影響力を持っているのならなおさら」
 それはある種の闘争に有利に働く。それがきっとロジェさんの先生から教わってたことだろう。
「まさか。もう先は長くないと、ご本人が言っているのに?」
 すでに力が抜けていた僕の四肢からロジェさんが身を起こしていた。それを目だけで追う。緑の瞳からは昏い色は消えている。
「自覚したからこそ、何をするかわからない。あの招待状は純粋に君に会いたかったこともあるだろうが、病気さえ偽装ということも――」
「そんな、あの先生に限ってそんなことは思いたくもないです。少々後ろめたい趣味があったかもしれませんが、人を騙すような卑劣なことはされないです。それに本当にやせ細って枯れ枝のようだったじゃないですか」 
 無意識に手を伸ばしていた。すがるように腕にとりついた。
「すまない。可能性を言ったまでだ。そこまで本気には考えてないよ」
 両腕で優しく包み込まれて、背中をなでおろされた。ロジェさんの首筋に押し付けられた耳がゆったりとした鼓動を感じとる。
「私の思い過ごしであればいい」
 祈るような囁きだった。
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