水葬日和

夜隅ねこ

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1.この世で最も絶対的な格差

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何度机上を睨みつけても、時計の短針もペン先も止まったまま動きそうになかった。伸びた前髪を乱暴にかき上げて、夏木 智  なつき    さとしは大きくため息をついた。
 夏休みを「あと何日」と数え始める八月中旬。課題も終わり休みを満喫ーーとはならず、悲しいかな、今日も数学のプリントとにらめっこしていた。嫌いなものを残してしまうのは幼少からの悪癖で、視線を横にずらした先には数学やら物理やらのテキストが乱暴に積み上げられている。改めてそれを認めてしまうとペンを持つ気力すらも無くなってしまって、夏木はスマホを手に取った。SNSでは同じ学部の見知った顔が、黒いネズミのカチューシャやら赤い配管工の帽子やらを身につけて、陽気な笑顔を全世界に拡散している。額に汗して机に縛り付けられている自分とは大違いだ。
 1年間の必死の受験勉強の末、なんとか入学した専門学校と、始まった一人暮らし。夢にまで見た1年目の夏がこの有様だと去年の夏木が知ったらどう思うだろう。まぁ失望するに違いない。
 夏休みとは、この世で最も絶対的な格差だと思う。楽しそうな薄着の家族連れとスーツ姿の無表情なリーマンが同じ新幹線に乗り込む姿は異様だし、同じ学生でも薄い液晶を一枚挟んでこんなにも違う。夏木のような苦学生にとっての夏休みは、ひたすらに忍耐を強いられる地獄の期間なのだ。備え付けのクーラーを尻目に顔の真横で暑い空気を掻き回し、いかに食費を削るかに頭を悩ませながらきゅうりを齧る。夏という季節はとかく、生きているだけで金がかかる。旅行をする余裕などあるわけもない。平等大好き日本人がこれほどの格差に反対運動の一つも起こさないなんて、やはり夏の暑さは人の脳をダメにしてしまうに違いない。
 夏休みに対する異議申し立てをあらかた終えたところで再び文字盤を見ると、短針がちょうど30度分首を傾げていた。この世で最も平等に時を刻むくせに、その大切さは解せないらしかった。
 心臓を冷風が通り抜けていくような強烈な虚しさに押し倒されるようにして、夏木は床に寝転がった。夏木が籍を置く専門学校が管理するこのアパートの住人には親孝行者が多いらしくーーもちろん皮肉であるーーほとんどの人が出払っている。だからこうしていると、遠くで鳴く雀や蝉の鳴き声が一層鮮明に耳に届いた。虚しい。退屈を超えて、自分が空っぽな何かに成り果ててしまったかのような錯覚すら覚える。やらなくてはならないことはたくさんあるのに、それらはうつろを埋めるどころか、更にその穴を押し広げてしまう。絶対的な無力感が部屋の空気に飽和して、肺を目一杯に膨らませた。がっかり顔の過去の自分に中指を立ててやりたい気分だ。ただ生きるということが、いかに大変か。
 唐突に扇風機がプリント類を巻き上げて、筆記具と消しカスごと床一面にばら撒いた。ばさばさばさ、という派手な音。呆然と扇風機を見つめる夏木を嘲笑うように、シャーペンが頰の横に転がった。
 生きることがそんなに苦しいなら、いっそやめてしまえばいい。天井を見上げる夏木の頭をよぎったのはそんな言葉だった。どうやら自分も、暑さに脳をやられていたらしい。自嘲に頬をひきつらせた夏木だったがーーその言葉が自分の冷めた部分から吐き出されていることに気づくと、表情が固まった。
 それは間違いなく夏木の理性を司る部分から湧き出てきた欲求だった。魔が刺したわけでも夏に煽られたわけでもなく。夏木は自然と実現可能性について頭を巡らせーー物理的・そして心情的両面においてーーそれがあながち不可能でもないことに気づいてもう一度頰を引き攣らせた。自分が希死念慮を抱えていようなど、夢にも思わなかったのだ。
 だが、一度気づいてしまったその感情は夏木の空っぽの心を隙間なく埋めた。あろうことかその歪な充足感は違和感を与えるどころか、とびきりの安らぎを感じさせて。気がつけば夏木は汗まみれのスウェットを脱ぎ捨てていた。
 比較的シワの少ないTシャツとジーンズを引っ張り出し、いつものパーカを羽織る。財布に家中からかき集められるだけの金を入れてーー何せどこに行くか決めていないのだ。金はあるに越したことはあるまいーースマホと一緒にウエストポーチに突っ込んだ。できるだけ身軽な格好で。余計なものも肩の荷も全部、この部屋に置いていこう。ぶちまけられたままの課題も、シンクに投げ込みっぱなしの食器も、未来の夏木に丸投げすることにした。コンセントを引っこ抜かれた扇風機が、面白くなさそうな顔でこっちを見ていた。
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