水葬日和

夜隅ねこ

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2.目に見えないほど透き通ったガラス

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 重たい扉を開けた途端、湿っぽい熱気がむき出しの首筋と顔にまとわりついた。日光が白い光線となって降り注ぎ、部屋にこもりきりだった夏木の目を灼く。
 勢いで飛び出してきたせいで、目的地も曖昧だ。とりあえず最寄駅を目指すことにした。陽炎が揺らぐ坂道をゆっくり歩く。聞こえる音はいつもより少しだけくぐもっていて、視界は魚眼レンズのように歪んで見えた。
 多分、自分という存在と世界との交わり方が変わってしまったのだ。夏木は水槽に閉じ込められたようだと感じていた。目に見えないほど透き通ったガラスが己と世界の間を隔てている。美しかったはずのそのガラスは今や曇りひび割れカビに侵され、夏木から見える世界を歪めてしまった。
 自分の身体が水中にあるところを想像してみる。いつか見た水族館の魚のように悠々自適に泳ぎ回る光景を期待したが、実際に思い浮かんだのはホルマリン漬けの実験動物のごとく水中に浮かぶ姿だった。薄く開いた唇と瞼から細かな水泡が浮かんで、やがてそれも無くなってしまう。夏木 智ではない、たった三十七兆個の細胞で辛うじて人間としての形を保っているだけの実験体A。
 どこに行こうか。安直に人のいない路地裏のビルから飛び降りようか。山の木漏れ日の下で首を吊るのも心地いいかもしれない。いや、思い切って海などどうだろう。冷たい水の中で揺蕩う自分を想像して、悪くないなと思った。キラキラ輝く海で溺れるなんて、酷暑に茹だる人々に対するさぞ夏らしいアンチテーゼになるに違いない。あぁ、でもそこまで行くと結構運賃が…いや、もういいのだ。夏木ははたと気づいた。明日について考える必要はない。冷蔵庫が空っぽであろうが、借りているアパートの家賃が払えなかろうが、ライフラインが止められようがもう関係ない。
 夏木は目的地について考えることをやめた。今日の夏木にとって重要なのはどこへ行くかではなく、どこへでもいける自由があることなのだから。行き先は電車の乗車券を買うときにでも決めればいい。
 とりとめない思考が傷だらけのガードレールとともに後ろへ後ろへ流れていく。歩道に覆い被さるように伸びた木の葉が柔らかに擦れる音が木陰とともに降り注いで、夏木は爽快感に目を細めた。ここ数年感じた覚えもないほど楽しい気持ちで坂を下る。「空っぽ」が心地いい、なんて生まれてからこれまで味わったことのない感覚だった。あと3年若ければ、あるいはもう少し涼しければ駆け出していたかもしれない。ざまぁみろ。誰に向けた言葉か自分でもわからないが、そんな悪態も笑い混じりにつけてしまうような身軽さが夏木の心を昂らせていた。
 緑葉の日除けの下を抜け、田園に差し掛かる。蝉の声は遠ざかったが、代わりに遮るものがなくなった日光が容赦なく首筋に突き刺さった。最寄り駅といっても、田舎だけあって歩けばそれなりの距離となる。喉の渇きを感じ始めた頃、青々と伸びる稲の向こうに古びた木造の駅舎が見えた。
 電車の時刻表を調べてくるのを忘れたことに気がついたのは、軋む駅舎のスロープを上り切った時だった。幸いにも今回は十分後に次の電車が来るらしいが、田舎と田舎をつなぐこの路線は一本一本の間隔が広い。次は一時間後、なんてこともザラだ。流石に無計画すぎたかと、無人のホームに苦い笑みがこぼれた。
 券売機の前に立ったところで、夏木の視界が階段を駆け上る白いワンピースの少女を捉えた。上品な紫色の風呂敷包みを大切そうに胸元に抱えている。大人の影はなかった。
 ぴたりと立ち止まり、後ろを振り返ったあと何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回した彼女は、ふと瞳を輝かせたと思うと、微笑ましさに頬を緩めながら券売機を操作する夏木の真横に立った。
 なんだ、と身構えるより一歩早く、桃色の唇が開いた。
「あなた、電車に乗る?」
 可憐という表現がぴったりの少女だった。幼い少女特有の甘さを含んだ澄んだ声。手入れの行き届いた柔らかな茶髪が華奢な肩につくかつかないかのところで揺れている。長いまつ毛に縁取られた黒柿色の瞳と白く華奢な手足が、硝子細工のごとくキラキラと輝いていた。身にまとう白いワンピースも相まって、その姿は茹だるような暑さに全く不釣り合いだった。
「あ、え、俺?」
「そう。電車、乗る?」
「乗るけど・・・」
早口に喋る幼い声に急き立てられるように答えていた。見下ろした先で、少女の焦りに揺れる瞳が縋るようにこちらを見つめていた。
「私、巫部 紗季(かんなぎ さき)。お願いなんだけど、あの、一緒に電車に乗せてもらえない?ね、ね、お願い」
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