水葬日和

夜隅ねこ

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4-1.ただ漫然とナニカが「在る」

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 いくら老朽化の進んだご老体といえど、空調は効いている。箱型の座席に二人向かい合うように腰を沈め、夏木は大きく息を吐いた。お行儀よく膝をそろえた巫部は田園が過ぎ去るばかりの車窓に釘付けだ。風呂敷包みーー長方形をしたそれは、大きさの割に重量はそれほどでもないようだったーーは、何かから守るように通路から一番遠い座席に置かれている。走行音だけが二人の沈黙の谷間を淡々と流れていた。夏木は同じ車両に他の客の姿がないことに心底安堵し、自分たちが降りるまで乗り込んでこないことを祈った。こんな連れ合い、自分が見たら通報してしまうかもしれない。ここら辺に住む人のほとんどは農業を営む高齢者。つまり、皆元気なのだ。太陽がカンカンに照りつける平日の昼間だろうが出掛けるという人がいたっておかしくない。
 二人はしばらく無言のまま、電車の揺れに身を任せていた。巫部に視線を注ぎ続けるのはなんとなく憚られて、真似をするように窓の外に意識を向けた。青々と連なる山が徐々に少なくなり、田んぼと畑ばかりだった景色にビルがポツポツと入り混じり始める。電車はいくつかの駅に止まり、扉の開閉運動だけを繰り返しながら終点へと向かっていた。
 まさかこんなことになるとは。夏木は半ば他人事のような心持ちで自分の置かれた状況を俯瞰する。自分が流されやすい性質であることは分かっていたが、それでも見知らぬ少女のためにわざわざ切符を買って電車に乗せてやるなんて、酔狂極まりない。
 けれど、例えば今日、用事があったとて、夏木は彼女の頼みを断らなかっただろう。なぜそう思うかはわからない。駅のホームで惑う巫部と、明日を見失った自分とを勝手に重ねたのかもしれない。同情ではない何かが夏木を突き動かしたことは間違いなかった。
「蛇塚駅までは大体20分くらいかな。あそこは確か、駅員さんが常駐してたはずだから。困ったらその人に聞けばいいよ」
「困ったら・・・」
巫部は田園風景から名残惜しそうに視線を外しながら、味のない飴を口の中で転がすように夏木の言葉をゆっくりと復唱した。
「困ったら、例えば、そうだな、道がわからなくなっちゃったとか、改札の通り方がわからないとか・・・あーいや、改札はないっけ。切符渡せばいいんだった。えーと、その、何かわからないことがあったら、かな」
「・・・あなたはどこで降りるつもりなの?」
「あー・・・俺は黄坂駅までの予定だったけど・・・」
「そう」
巫部の顔に一瞬、親とはぐれてしまった子のような表情が浮かんだ。その動揺はすぐにかき消されてしまい、夏木の目には留まらない。
「・・・例えば、その、駅員さんに蛇塚神社までの行き方を教えてほしい、って言ったら教えてくれるのかしら」
「え、まあ、教えてくれると思うけど。でも多分、止められると思うよ」
「止められる?」
「あそこには行かない方がいい、って」
巫部がきょとんと首を傾げた。何を言われているか理解できない、とまあるい瞳が語っていた。
「なんの権利があって?蛇塚山は私の家の土地よ。なのに」
「うち?うちって」
「巫部家。あそこは代々私の家が管理している土地なの。山のことは色々と母から聞いてる。実際に入ったことはないけれど」
今度は夏木が目を丸くする番だった。あまりに驚いて、話の途中で口を挟んだことにも気が付かなかった。
 あそこが?私有地だって?
 山を所有していること自体は夏木の地元において大して珍しくない。昔からこの土地に住んでいるという家が多いからだろうか。ご先祖様が購入し、そのまま持ち財産として受け継がれているという例をいくつか知っているし、何を隠そう夏木の祖父も小さな山ーー秋になるとキノコがよく獲れるーーを持っている。彼の死後、所有権は夏木に相続されるらしい。
 けれどその山が蛇塚山となれば話は別だ。誰が好き好んで、あんな場所を買おうとするというのか。
「・・・『蛇塚山には立ち入るな』とか言われて入らなかったわけじゃなくて?俺はそう言い含められて育ったんだけど」
「違うわ。あそこに立ち入ることが許されるのは巫部家の中でもごく一部よ。あなたが入っちゃいけないことなんて、うちの私有地なんだから当然でしょう。関係者以外立ち入り禁止に決まってるわ」
「いや、そういうレベルじゃなくて・・・」
 不気味な空き家、野生動物が出やすい山、藻だらけの濁った沼・・・立ち入ってはいけない場所は他にもある。そうした場所には大抵曰くがつく。幽霊が出るとか、人を引き摺り込む底なし沼だとか。まだ危険性の理解できない子供も近づかないようにするためだ。
 数年前に亡くなった夏木の祖母は、そういう一種の「騙し」を嫌う人だった。
『あの空き家は年がら年中暗ぇし、床板が腐ってるから入っちゃなんねぇ』
『沼には近づくなよ。水がドロドロじゃけえ、足を滑らせて溺れたら大人でも抜け出れねぇからな』
同級生と比べても好奇心旺盛な少年だった自分に、祖母は「近づいちゃいけねぇと言われるところにはな、おばけなんぞよりもっと怖い理由があんのよ。なのにそんなもんで誤魔化すから、毎年行く馬鹿が出るんだ」と言って、夏木が納得するまで説明してくれた。
 それなのに、あの山だけは。
『蛇塚山には昔から鬼が棲みついとる。だんがな、ありゃあもう妖じゃねえ、神さんだ。あそこはそいつの縄張りだ。だから、近づいちゃなんねぇ』
 見たこともないような怖い顔をした祖母に、夏木は大いなる不満を感じたのを覚えている。いつもはあんなに論理的な説明をする祖母がなぜ、と。不満も露わに唇を尖らせる夏木の髪を、祖母はぐしゃぐしゃとかき混ぜて、まるで誰かの耳に入るのを恐れるかのように低い声で言った。
『あれはな、ただあるもんなんだ』
幼く透き通った感性は、その言葉の裏に滲むを敏感に嗅ぎつけたのだろう。持って回ったような言い回しが酷く不気味に感じたのを覚えている。
 「蛇塚」という名をみだりに出すべきではないーー大きくなるにつれ、それがこの辺りに住む者にとって共通の認識であることを夏木は肌で理解した。近づこうとは思わなかった。大なり小なり、地元の人々は「蛇塚」を畏れと共に扱っている。あの祖母でさえ、「蛇塚」には特殊な感情を持っているようだった。
 いわば蛇塚山とは、禁忌の存在なのだ。そこにはとにかくが「在る」。
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