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幻想
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「はい。どーじょ。」
弾けるような眩しい笑顔で、両手いっぱいに集めた小さな花たちを差し出す。
「どうしてオレに?」
「けーちゃん、これ、しゅき!」
何故、なんの疑いもなく断言できるのか、その自信はどこからくるものなのかという事はこの際、気にしないとして…文字通りニッと笑って得意気に両手を突き出している姿は、本当に誰かさんそっくりだ。
フッと気づかれないように苦笑してから、その場にゆっくりとしゃがみ込み、目線を合わせる。
「ありがとな。」
そう言いながら頭を撫でてやると猫みたいに目を細めて嬉しそうに笑う。
笑顔の小さな親友は、とても大切そうに両手いっぱいの花たちをオレの手にそっと移した。
満足そうな顔で、親友は川原の方へと走り去って行く。
ふわりと心惹かれるような甘い香りが漂う。目に見えるはずのないその香りは、ゆっくりゆ
くりと流れ出す。このまま幻の世界へ迷い込めそうだと思い、静かに目を閉じたと同時に
肩を叩かれた。
「よぉ、桂。今日は急に悪かったな。」
せっかくの日曜日なのに呼び出しをくらった彼は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「お疲れ。たまには良いんじゃね?」
昨日の夜中に帰ってきて突然連絡を受けたオレは苦笑した。
お互い苦笑しつつ、視線を川原へと移す。
少し離れた場所で遊んでいる子供たちに向かって彼は叫んだ。
「碧音(あおと)―」
名前を呼ばれた子供は、自分に向けて大きく手を振る彼の姿を見つけると、嬉しそうな顔で走
ってくる。
「おかえりー。おとーしゃん!」
「ただいま。今日はごめんな。」
「けーちゃんといっぱい、あしょんだよ。」
そう。『碧音』はオレの小さな親友で、その『おとーしゃん』はオレの幼馴染の桂太だ。
「桂、こんどはいつまでこっちにいる予定なんだ?」
「んー?一応二週間くらいかなぁ。」
自分から聞いてきたくせに『ふーん』と気のない返事だけを残して、ふと空を見上げている。
雑貨の輸入の仕事をしているオレは、短い期間でいろいろな場所へと移動するため、あまり
長期間自宅に滞在していない。
「で、今度はどこに行くんだ?」
「今回は国内をちょっとウロウロするくらいかな。」
常にはっきりとした目的地があるわけではない。依頼されているものを探しに行ったり、手探りでただ、何か掘り出し物はないかと、出かけることもあるのだ。
「まぁ、楽しくやってんなら良いか。」
桂太は少し淋しそうな笑みを見せて言った。
相変わらず、そっくりだな。その顔…
オレと桂太、そしてもう一人を足して、三人は幼馴染だ。家が近かったことと親同士が同級
生ということもあり、よく一緒に遊んでいた。しかも誕生日が同じだから、毎年盛大に三人分の誕生日パーティーをしてくれていた。親たちはその場のノリなのか、なんなのか…子供たちの名前に共通の文字を入れようと提案したらしい。
初めてその話を聞いたときは、流石に呆れて、なんとも勝手な親たちだと思った
でも今は…ほんの少しだけ、感謝している。かもしれない。
「そういえば、この前アイツから絵ハガキが来てた。」
「へぇ。相変わらずマメな奴。」
果たして素直にマメな奴だと言えるのかどうかは置いておくとして、俺のところには時々絵ハガキが届く。
「桂花、元気そう?」
「たぶんな。」
その返答に首を傾げ不思議そうな顔をする桂太に、文字がひとつもない事を教えてやるほど、オレは物好きではなかったらしい。
桂花から届く不定期な絵ハガキには『元気?』の一言すら、ない。
「ん?」
「けーちゃん、肩、乗しぇて。」
服の裾をツンツンと引っ張られ、下を見ると碧音がオレを見上げている。
「なんで桂なんだよ。」
「だってー、けーちゃんのが、おっきいから。」
両手を思い切り広げて、当たり前だと言いたそうな顔をしている。
「はいはい。おとーしゃんの方が小さいよな。」
我が子の言葉に、素直に拗ねる姿が可笑しくて、オレは声を殺して笑った。
「けーちゃん。肩―。」
「おう。」
しゃがんで、要望通りに肩に乗せると『高い高い』と言って、しばらくの間はしゃいでいる。
「俺、そんな小さくねぇし。」
余程ショックだったのか、まだ文句を言っている。
「まぁ、小さくは…ないな。」
178ある身長は、確かに低くない。一般的に見ても高い方なのだが…オレが182もあるせいで、子供目線の背比べでは、低い方になってしまうだけなのだ。
「そういえば、桂花もよく背の話してたなぁ。」
「まぁ。」
アイツ、チビだったからなぁと思い出しながら笑う桂太に、三人でよく遊んでいた頃の、いたずらっ子の面影が重なる。
「このまま、帰って来ねぇのかな。」
ポツリと呟かれた本音は、とても淋しげだった。
「双子だと、離れていてもなんとなくどっか繋がっているように思うとか言うけど、あれは嘘だな。」
一人で納得しながら頷いている桂太を見て、オレはそっと息を吐いた。
桂太と桂花は双子だ。男女の双子だけれど見た目がソックリで、小さい頃は入れ替わって遊んでいることもあった。なんとなくオレは間違えなかったらしいが…親たちでさえ間違えるくらいなのだから、他人の目を欺くことなんて容易いことだろう。でも、いつの頃からか忘れてしまったが、二人は一緒の時間を避けるようになっていた。仲が悪いのではなく、同じ時間の流れを感じないように別々の世界で生きているように見えた。なんの為なのかは解らないけれど、もしかしたら二人は、見えない壁を作っていたのかもしれない。
「けーちゃん、止まって。」
「うん?」
静かにしているから眠っているのだと思っていた碧音が急に動き出し、オレの頭を叩いた。
「きれー。いい匂いだねー。」
「ああ…もうそんな時期なのか。」
オレたちは足を止め、しばらく幻想的な風景を楽しんだ。
「十月も近いのに、秋って感じがしないな。」
立ち止まっていても、風にのってふわりと漂ってくる甘くて心を誘われるような香りだ。
「この花、なんて名前だっけ?」
「…キンモクセイ。」
ああ、それな。と軽く頷く桂太にとって、この花は特別な意味をもっていないらしい。
― キンモクセイ
オレンジ色の小さな花をつけ、印象に残るほどの甘い香りを漂わせる。その香りに酔った者たちには『かくりよ』の世界への扉が開かれ、迷い込むことがあるのだとか…
花言葉と簡単に言っても、様々な意味を持ち、その数だけ物語がある。
いつだったか、ある少女が得意気に、でもとても幸せそうに微笑みながら、オレにキンモクセイの花言葉を教えてくれたことを思い出した。
誘惑・謙虚・真実・陶酔・気高い・初恋・高潔…
よくもまあ、そんなにスラスラと言葉が出てくるものだなぁと、心の中では感心しながら、表面上は至って興味なさげに振舞ってみる。そんなオレを見て、少女は話を止め、急にすんっとした顔でオレから視線を外す。
「なんだよ。急に黙って。」
急変した少女の態度が気になり声を掛けたオレは、内心少し焦っていた。
「もう教えてやんない。」
明らかに拗ねた口調で言い、しばらく無言の時間が流れる。本当はこんな無言の時間も好きなのだけれど、ふと一言告げたくなった。
「教えてもらわなくても、そのくらい…知ってる。」
できるだけ無愛想な言い方をしてみたのは、単なる強がりだったのかもしれない。
「え?」
少女はオレの言葉を聞いて、案の定驚きの表情を見せる。オレは気付かれないように、心の中で微笑む。
もし、ただ驚いた表情が見たかったのだと言ったら、きっと間違いなく怒られるだろうな。だからオレは…いつも通り誤魔化すことにした。
「そんなの嘘に決まってるだろうが。」
からかうように言ってベーっと舌を出し、少女の頭を軽くポンッと叩く。
「ばーか。」
「桂の、バカ!」
オレは反撃が来る前に、さっとその場から立ち去り、背を向けたまま手を振った。
この、必死に顔を赤くして怒っている少女を好きなのだと気付いたのは…いつだっただろうか。小さい頃は何も特別な思いなんてなく、ただ一緒に走り回ったり、ちょっとしたイタズラをして笑い転げる仲間でしかなかった。男でも女でもそんな事はどうでも良くて、三人が同じ時間を共有できるだけで楽しかった。ただ、いつの間にか『仲良しの幼馴染』の関係は、音もなく変化していたのだ。
オレたちの関係性が変化し始めたのは、もしかしたら『あの頃』かもしれない…
そう。桂太と桂花が一緒の時間を避けるようになったあの頃…はっきりとは覚えていなが、どこを探しても、桂花の姿が見当たらない時間がある。たぶん数週間程度なのだと思うけれど、確かに桂花だけが存在していないのだ。
いつも三人でいた場所は知らないうちに『思い出』と呼ばれる場所になってしまい、今となっては正確な位置も情景すらも浮かんでこない。
でも、色褪せることなく、ずっと忘れられないものもある。それが、キンモクセイ…
甘い香りに包まれ、そっと目を閉じれば幼い頃の出来事が溢れ出してくる。
ずっとキレイだと思っているアイツの、桂花の笑顔をはっきりと思い出す。消えそうなほど儚い、あの笑顔を…
桂太にとって何の意味も持たないこの花たちは、オレにとって、どの花たちよりも特別な意味を持っている、大切な花たちなのだ。
オレは目の前にあるキンモクセイにそっと手を伸ばし、誰にも聞こえない声でそっと囁く。
「桂花。」
愛おしいその名を、声にすることがなんだかとても幸せに感じた。
まだ、学生の頃、キンモクセイの中国名が『桂花』という事を知った。どうやらオレの中には、キンモクセイの甘く誘うような香りも、桂花の儚くキレイな笑顔も同じくらい、特別で大切に感じるものがあるらしい。
「わーっ!」
突然の風に煽られ、碧音がオレの頭にしがみついた。ハッと我に返ったオレは、慌てて腕を伸ばしてなんとか落ちないように支える。
「けーちゃん、あーと。」
素直にお礼を言っていつも通りの元気な笑顔をくれる碧音を見て微笑む。
「碧は強いな。」
風に煽られたキンモクセイの花たちが一斉に空中を舞う。甘い香りと共に舞い散っていく様は、まるで幻想の世界を思わせるほど美しかった。風が止み、ゆっくりと地面へ流れ落ちる花たちを眺めていると…
『桂』
微かにオレの名を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がして、思わず振り返った。
「どうした?」
立ち止まったままのオレに桂太が不思議そうに問い掛ける。
「いや…気の、せいだ。」
「そっか。おい、碧音。そろそろ家に着くぞ。」
そう言ってオレから碧音を降ろして、優しく小さな手を繋ぐ。
「けーちゃん。またねー。」
空いている方の手を振って、楽しそうに家路を歩いていく二人の姿を見送った。
そっと空を仰ぐと、キンモクセイが彩るオレンジとは違う、夕日の鮮やかなオレンジが世界を染めていた。秋の夕暮れは心なしかいつもより淋しい気持ちになるのは、どうしてだろう…
『桂』
さっきの声は、やっぱり気のせいだったのだろうか。オレの中にある桂花との記憶が、あの甘い香りと結びついているからなのかもしれない。初恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎる感情だが、桂花がいなくなったあの数週間、オレは心に穴があいたような気持ちだった。何をしていても何かが足りなくて、どうすればいいのかさえわからなかった。
当たり前に思っていた存在が、それほどまでに大きなものだったのだと、初めて知った。
「元気に、してんのかなぁ。」
また、あの笑顔に会いたい。
切実にそう思ってしまうくらい、桂花のことを強く想っている自分に気付き、一人苦笑した。不意にジャケットのポケットに手を入れた時、指先に何かが触れ、そっと取り出してみる。
『はい。どーじょ。』そう言ってオレに差し出されたキンモクセイの花だった。
自信あり気に、ニッと笑った碧音の顔が浮かんだ。
『はい。桂、好きでしょ。』
桂花も…よくそう言い切ってオレに両手いっぱいのキンモクセイを持ってきてたなぁ。
『私もこの花、好きなんだ。』
少し照れたように笑って、言ってたっけ。
そう、だ。思い出した…
あの後、風が吹いてアイツの髪がふわりと揺れ、両手いっぱいの花も舞い上がった時、オレは急に説明のできない不安に襲われてアイツの手を掴んだ。理由なんてなかった。なんとなく、そのままどこか遠くへ行ってしまうような気がしたのかも、知れない。
桂太と桂花が双子だからなのか、碧音のちょっとした仕草や表情の中に、幼い頃の二人の姿が重なる。特に桂花の姿を思い出してしまうのは、それだけオレが桂花を見ていたということなのだろうな。
ポケットから取り出した花を手のひらで転がしてみる。ふわふわと揺れる様が桂花の姿を思わせる。そういえば、一緒に歩いている時ですらどこか掴みどころがなくて、別世界にいるのではないかと不安を感じることがあった。一人でいる時にふと見せる表情は、目を離したすきに本当に消えてしまいそうで、心配になって思わず手を握ることが何度もあった。そんな時でもアイツは、ただ優しく微笑むだけだった。
昔のことを思い出し、なんだか遠回りをしたくなったオレは、家とは逆の方向へと歩き出す。二週間ほどすれば、またこの街を離れて見知らぬ場所で仕事をするのだけれど…いつもは何も思わないくせに、今回は何かが引っかかっているようだ。それが何なのかわからないけれど、きっとオレの中で何かが引き止めているのかもしれない。仕事の都合で居場所が定まらないことには、もうとっくに慣れているはずなのにな、と思いながらも言いようのない感情が胸の奥でくすぶっていることを否定できずにいる。
途方もなく歩いてみたが、もともと行き先なんてなかったオレはなんだか、やるせなくなってきて仕方なく帰ることにした。街灯が照らす、歩きなれた道は思った以上に早く家へと導いてくれる。
「はぁ…」
軽い溜め息を吐いて、仕方なくドアを開ける。
「ん?」
ドアを開け、ふとポストを見ると何通かの手紙が届いていた。
「桂花…?」
絵ハガキは、この前届いていたと思うけど?あれからそんなに経っていないはずだ。
「まぁ、アイツはいつも不定期だからなぁ。」
きっといつだって思いつきで出しているのだろう。
ハガキとは別にダイレクトメールや仕事の書類、そして一通の封筒を手にし、リビングへと向かった。
「誰からだ?」
差出人不明の封筒をしばらく眺める。正直、開けるのを少し躊躇ったが、確認しなくては何もわからないと思い、ゆっくりと封を開けた。
「嘘、だろ?」
手紙を読み終えたオレは、何が起こっているのかわからず、ただ…困惑していた。
でも…今までの違和感や不自然な出来事が少しずつ解けていき、納得せざるを得ない状況なのは間違いない、みたいだ。
この手紙の内容すべてが事実だという事なのか?
たとえ事実であったとしても、そんな簡単に受け入れられるわけがない。できることならオレは、すべてを否定したい。ここに書かれてある事は嘘なのだと…思いたい。
「嘘…だよな?」
静まり返った部屋の中で、オレは頼りなく呟いた。
― 桂へ
桂、元気にしていますか?
あなたにこの手紙が届く頃には、私はこの世界にいないかもしれない。だからこそ、伝えておこうと思い、筆を取りました。
ずっとずっと、謝りたくて…
いきなり謝りたいだなんて言っても、何のことだかわからないでしょうね。でも…
ごめんなさい。
あなたは、本当は私たちの子供ではないのです。
私は幼い頃から体が弱く、医者からも子供を産むことは難しいと言われていました。でも、奇跡的に子供を授かることができたの。ただ…結局、お腹の中で十分に成長できなくて、その子を抱ことは叶わなかった。
悲しくて、しばらく泣いて過ごす日が続いていたある日、私の親友から子供が産まれたと報告を受けた。彼女は、経済的な理由で子供たちを育てることができないと、泣いていた…
「一人でも大変なのに、無理よ!」
彼女は泣きながら叫んだ。
「でも、大切な子供たちでしょ。」
「そんなこと、わかってる!わかってるけど!」
どうすれば良いのかわからずに、彼女は泣きじゃくる。周囲の反対を押し切って結婚した二人に頼れる人もなく途方に暮れていた。
「養子として…育ててもらえないだろうか。」
彼女の夫は憔悴しきった声で、静かにそう告げた。
― 何度も話し合って、私たちは…あなたを本当の息子として一緒に生きることを選んだ。
こんなにも大切なことをずっと隠していてごめんなさい。でも、私は…私たちはあなたを本当の息子として育ててきたし、今でもそう思っています。これからもずっと、あなたは私たちの息子です。
でも、このまま真実を隠し通す事が最善だとは言えない。たとえ、母親失格だと言われても構わない。自分の死が近いからこそ、私から伝えたかった。現状として直接話すこともできそうにないから、こんな形になってしまったけれど…
桂、あなたは、本当は…桂花ちゃんと桂太くんの三つ子の一人で、二人のお兄ちゃんなのよ。
今まで話せなかったこと、本当にごめんなさい。
名前に共通の文字を入れたのは、三人の繋がりを消したくなかったから…でも結局は単なる私の自己満足なわがまま、ね…ごめんね。
桂、あなたは今、幸せですか?
今まで歩いてきた時間を、少しでも幸せだったと感じてくれていたら、私はとても嬉しい。大切なあなたと一緒に生きた時間は、私の宝物です。
数え切れないほど、たくさんの幸せを…ありがとう。
そして、息子として一緒に生きてくれて、本当にありがとう…
その手紙の最後には、九月吉日と記されていた。すでに十月半ばなのだから、きっと手紙の差出人は…オレの母親は、他界しているだろう。オレが仕事でここに帰って来られなかった時期に手紙が届いていたのかもしれない。だとしても突然告げられた内容が、あまりにも大きく重要過ぎて、思考がついてこない。
「嘘、だろ?」
あの二人とオレが兄弟って…いきなりそんなことを言われて、あぁそうですか。なんて…
「言えるわけ、ねぇよ…」
一人で家にいても落ち着かず、混迷したままのオレは夜明け前の街に向かうことにした。当然まだ闇の深い街は、昼間とは違った世界に見える。街灯だけが静かにひっそりと照らしている街並みは、どこか幻想的だった。
まったく目的もなく歩き回っていたオレは、いつの間にか小学校の近くまで来ていた。
ここは、初めてキンモクセイを知った場所。
でも、いくら卒業生だとはいえ、こんな時間に訪問するのは不審者でしかない。少しずつ落ち着いてきたけれど、まだ帰る気にはなれないオレは、歩調を緩めてのんびりと歩くことにした。
「まだ、あるのかな?」
あの頃は学校の裏庭にあったのだけれど、長い間訪れていないこの場所にまだそれがあるのか、期待と不安を抱きながらも探してみることにした。
学校の裏口が見えた時、不意に誰かがクスッと笑った気がした。さーっと流れるような風が吹き、微かに…彼女の声が聞こえた。
『桂』
「桂花…?」
『ずっと見てたんだよ。』
声のする方を探してみても誰もいない。確かに桂花の声が聞こえているのに、どこにも姿がない。
「桂花?いるのか?」
周辺を何度も見回すが、やはり桂花はいない。
オレはずっとおまえのことを待っていたんだ。好き、だから…誰よりも大切だからこそ、おまえに会いたいと思っている。本当の兄弟だったとしても…構わない。今すぐ抱きしめて、もう二度と離したくない。それほどまでに、おまえの事を…
『桂、目を閉じてみて。』
「何だよ。」
『いいから。目を閉じてって。』
言われるままに仕方なく目を閉じてみるが、何も変わらない。
『桂が、好きだよ。』
懐かしくて優しい声と頬に微かな温もりを感じて、思わず手を伸ばし、抱きしめようとしたオレの腕はただ空を切った。その時オレは二人の距離が縮まることはないのかもしれないと思った。
『桂は、まだ来なくて良い。』
「どういう意味だよ。」
『意味なんてどうでも良いの。まだ、ダメなんだよ。』
声は少し笑っていて、軽い冗談を言っているように聞こえるのに、何故か淋しそうに感じた。
「桂花…おまえ…」
桂花がどこにいるのかを確認しようとした時、どこからかそっと優しい風が吹き、キンモクセイの花たちを揺らすと甘い香りが流れ出した。
「なぁ。桂花。今、オレの傍に…いるのか?」
『…うん。』
ほんの少し躊躇いながら返事が聞こえた。
「そ、かぁ。」
目で確認できないだけで、こんなにも不安になるものなのかと拳に力を入れた。
『桂…』
オレの手に、桂花の手が触れた…気がした。
「桂花。オレ…おまえが、好きだ。」
ずっと隠していた想いをやっと伝えられたはずだったのに、桂花はクスッと笑った。
『教えてもらわなくても、そのくらいは知ってるよ。』
「え?」
驚いて目を開けた時、そっとオレの手を両手で包み込み、大切に抱きしめる桂花が目の前にいた。
「私は、ずっと桂の事見てたんだから。ちゃんと、知ってるよ。」
あの頃と変わらない優しい笑顔でそう言った。
「おまえ…今までどこに…」
伝えたい気持ちが言葉にならない。たくさん話したいことも聞きたいこともあるのに、言葉がひとつも見つからない。
隠れていた月がそっと顔を出し、月光がオレたちを静かに照らしている。
「桂花…あの…」
「大丈夫。私は、大丈夫だから。桂はまだ来ないでね。ちゃんと待ってるから、まだ、ダメだよ。」
こんなにもキレイで悲しい笑顔を、見たことがない。
「桂。私はずっと一緒にいるよ。私の心にもずっとずっと桂がいるの。だから…」
桂花はじっとオレの目を見つめて話しながら、そっと握っている手を離した。そしてその時、月がまた隠れてしまった。
『だから、さよならは、言わない。』
小さな声が聞こえた後、ほんの一瞬、頬に温もりを感じた。
突然、静かで暗い世界に放り出されたオレは、その場に立ちすくんで動けなくなった。
ポツリポツリと空から雫が零れだした。
「雨、か…」
サーっと静かに降り出した雨の中、オレはしばらく空を見上げていた。
「うん。桂花。さよならなんて、いらないよ。」
そう言ってオレは、桂花の笑顔を思い出し、優しく微笑んだ。
オレンジ色の小さな花たちは、甘い香りを漂わせる。
その香りに酔った者は『かくりよ』の世界への扉が開かれるという…
オレはキンモクセイの花をそっと握り、香りが強くなる方へと歩き続けている。
風が吹き、どこからかキンモクセイの花が舞った。
その光景を眺めていると、いつの間にか花たちがオレの周りをオレンジ色に染めていった。ゆっくりと花がたち地上に舞い降りたとき、目の前に扉が見えてくる。
オレは迷うことなく、そっと扉に手を伸ばし、音もなく開いた扉をくぐり抜ける。
そう、ここが…
かくりよの世界…
弾けるような眩しい笑顔で、両手いっぱいに集めた小さな花たちを差し出す。
「どうしてオレに?」
「けーちゃん、これ、しゅき!」
何故、なんの疑いもなく断言できるのか、その自信はどこからくるものなのかという事はこの際、気にしないとして…文字通りニッと笑って得意気に両手を突き出している姿は、本当に誰かさんそっくりだ。
フッと気づかれないように苦笑してから、その場にゆっくりとしゃがみ込み、目線を合わせる。
「ありがとな。」
そう言いながら頭を撫でてやると猫みたいに目を細めて嬉しそうに笑う。
笑顔の小さな親友は、とても大切そうに両手いっぱいの花たちをオレの手にそっと移した。
満足そうな顔で、親友は川原の方へと走り去って行く。
ふわりと心惹かれるような甘い香りが漂う。目に見えるはずのないその香りは、ゆっくりゆ
くりと流れ出す。このまま幻の世界へ迷い込めそうだと思い、静かに目を閉じたと同時に
肩を叩かれた。
「よぉ、桂。今日は急に悪かったな。」
せっかくの日曜日なのに呼び出しをくらった彼は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「お疲れ。たまには良いんじゃね?」
昨日の夜中に帰ってきて突然連絡を受けたオレは苦笑した。
お互い苦笑しつつ、視線を川原へと移す。
少し離れた場所で遊んでいる子供たちに向かって彼は叫んだ。
「碧音(あおと)―」
名前を呼ばれた子供は、自分に向けて大きく手を振る彼の姿を見つけると、嬉しそうな顔で走
ってくる。
「おかえりー。おとーしゃん!」
「ただいま。今日はごめんな。」
「けーちゃんといっぱい、あしょんだよ。」
そう。『碧音』はオレの小さな親友で、その『おとーしゃん』はオレの幼馴染の桂太だ。
「桂、こんどはいつまでこっちにいる予定なんだ?」
「んー?一応二週間くらいかなぁ。」
自分から聞いてきたくせに『ふーん』と気のない返事だけを残して、ふと空を見上げている。
雑貨の輸入の仕事をしているオレは、短い期間でいろいろな場所へと移動するため、あまり
長期間自宅に滞在していない。
「で、今度はどこに行くんだ?」
「今回は国内をちょっとウロウロするくらいかな。」
常にはっきりとした目的地があるわけではない。依頼されているものを探しに行ったり、手探りでただ、何か掘り出し物はないかと、出かけることもあるのだ。
「まぁ、楽しくやってんなら良いか。」
桂太は少し淋しそうな笑みを見せて言った。
相変わらず、そっくりだな。その顔…
オレと桂太、そしてもう一人を足して、三人は幼馴染だ。家が近かったことと親同士が同級
生ということもあり、よく一緒に遊んでいた。しかも誕生日が同じだから、毎年盛大に三人分の誕生日パーティーをしてくれていた。親たちはその場のノリなのか、なんなのか…子供たちの名前に共通の文字を入れようと提案したらしい。
初めてその話を聞いたときは、流石に呆れて、なんとも勝手な親たちだと思った
でも今は…ほんの少しだけ、感謝している。かもしれない。
「そういえば、この前アイツから絵ハガキが来てた。」
「へぇ。相変わらずマメな奴。」
果たして素直にマメな奴だと言えるのかどうかは置いておくとして、俺のところには時々絵ハガキが届く。
「桂花、元気そう?」
「たぶんな。」
その返答に首を傾げ不思議そうな顔をする桂太に、文字がひとつもない事を教えてやるほど、オレは物好きではなかったらしい。
桂花から届く不定期な絵ハガキには『元気?』の一言すら、ない。
「ん?」
「けーちゃん、肩、乗しぇて。」
服の裾をツンツンと引っ張られ、下を見ると碧音がオレを見上げている。
「なんで桂なんだよ。」
「だってー、けーちゃんのが、おっきいから。」
両手を思い切り広げて、当たり前だと言いたそうな顔をしている。
「はいはい。おとーしゃんの方が小さいよな。」
我が子の言葉に、素直に拗ねる姿が可笑しくて、オレは声を殺して笑った。
「けーちゃん。肩―。」
「おう。」
しゃがんで、要望通りに肩に乗せると『高い高い』と言って、しばらくの間はしゃいでいる。
「俺、そんな小さくねぇし。」
余程ショックだったのか、まだ文句を言っている。
「まぁ、小さくは…ないな。」
178ある身長は、確かに低くない。一般的に見ても高い方なのだが…オレが182もあるせいで、子供目線の背比べでは、低い方になってしまうだけなのだ。
「そういえば、桂花もよく背の話してたなぁ。」
「まぁ。」
アイツ、チビだったからなぁと思い出しながら笑う桂太に、三人でよく遊んでいた頃の、いたずらっ子の面影が重なる。
「このまま、帰って来ねぇのかな。」
ポツリと呟かれた本音は、とても淋しげだった。
「双子だと、離れていてもなんとなくどっか繋がっているように思うとか言うけど、あれは嘘だな。」
一人で納得しながら頷いている桂太を見て、オレはそっと息を吐いた。
桂太と桂花は双子だ。男女の双子だけれど見た目がソックリで、小さい頃は入れ替わって遊んでいることもあった。なんとなくオレは間違えなかったらしいが…親たちでさえ間違えるくらいなのだから、他人の目を欺くことなんて容易いことだろう。でも、いつの頃からか忘れてしまったが、二人は一緒の時間を避けるようになっていた。仲が悪いのではなく、同じ時間の流れを感じないように別々の世界で生きているように見えた。なんの為なのかは解らないけれど、もしかしたら二人は、見えない壁を作っていたのかもしれない。
「けーちゃん、止まって。」
「うん?」
静かにしているから眠っているのだと思っていた碧音が急に動き出し、オレの頭を叩いた。
「きれー。いい匂いだねー。」
「ああ…もうそんな時期なのか。」
オレたちは足を止め、しばらく幻想的な風景を楽しんだ。
「十月も近いのに、秋って感じがしないな。」
立ち止まっていても、風にのってふわりと漂ってくる甘くて心を誘われるような香りだ。
「この花、なんて名前だっけ?」
「…キンモクセイ。」
ああ、それな。と軽く頷く桂太にとって、この花は特別な意味をもっていないらしい。
― キンモクセイ
オレンジ色の小さな花をつけ、印象に残るほどの甘い香りを漂わせる。その香りに酔った者たちには『かくりよ』の世界への扉が開かれ、迷い込むことがあるのだとか…
花言葉と簡単に言っても、様々な意味を持ち、その数だけ物語がある。
いつだったか、ある少女が得意気に、でもとても幸せそうに微笑みながら、オレにキンモクセイの花言葉を教えてくれたことを思い出した。
誘惑・謙虚・真実・陶酔・気高い・初恋・高潔…
よくもまあ、そんなにスラスラと言葉が出てくるものだなぁと、心の中では感心しながら、表面上は至って興味なさげに振舞ってみる。そんなオレを見て、少女は話を止め、急にすんっとした顔でオレから視線を外す。
「なんだよ。急に黙って。」
急変した少女の態度が気になり声を掛けたオレは、内心少し焦っていた。
「もう教えてやんない。」
明らかに拗ねた口調で言い、しばらく無言の時間が流れる。本当はこんな無言の時間も好きなのだけれど、ふと一言告げたくなった。
「教えてもらわなくても、そのくらい…知ってる。」
できるだけ無愛想な言い方をしてみたのは、単なる強がりだったのかもしれない。
「え?」
少女はオレの言葉を聞いて、案の定驚きの表情を見せる。オレは気付かれないように、心の中で微笑む。
もし、ただ驚いた表情が見たかったのだと言ったら、きっと間違いなく怒られるだろうな。だからオレは…いつも通り誤魔化すことにした。
「そんなの嘘に決まってるだろうが。」
からかうように言ってベーっと舌を出し、少女の頭を軽くポンッと叩く。
「ばーか。」
「桂の、バカ!」
オレは反撃が来る前に、さっとその場から立ち去り、背を向けたまま手を振った。
この、必死に顔を赤くして怒っている少女を好きなのだと気付いたのは…いつだっただろうか。小さい頃は何も特別な思いなんてなく、ただ一緒に走り回ったり、ちょっとしたイタズラをして笑い転げる仲間でしかなかった。男でも女でもそんな事はどうでも良くて、三人が同じ時間を共有できるだけで楽しかった。ただ、いつの間にか『仲良しの幼馴染』の関係は、音もなく変化していたのだ。
オレたちの関係性が変化し始めたのは、もしかしたら『あの頃』かもしれない…
そう。桂太と桂花が一緒の時間を避けるようになったあの頃…はっきりとは覚えていなが、どこを探しても、桂花の姿が見当たらない時間がある。たぶん数週間程度なのだと思うけれど、確かに桂花だけが存在していないのだ。
いつも三人でいた場所は知らないうちに『思い出』と呼ばれる場所になってしまい、今となっては正確な位置も情景すらも浮かんでこない。
でも、色褪せることなく、ずっと忘れられないものもある。それが、キンモクセイ…
甘い香りに包まれ、そっと目を閉じれば幼い頃の出来事が溢れ出してくる。
ずっとキレイだと思っているアイツの、桂花の笑顔をはっきりと思い出す。消えそうなほど儚い、あの笑顔を…
桂太にとって何の意味も持たないこの花たちは、オレにとって、どの花たちよりも特別な意味を持っている、大切な花たちなのだ。
オレは目の前にあるキンモクセイにそっと手を伸ばし、誰にも聞こえない声でそっと囁く。
「桂花。」
愛おしいその名を、声にすることがなんだかとても幸せに感じた。
まだ、学生の頃、キンモクセイの中国名が『桂花』という事を知った。どうやらオレの中には、キンモクセイの甘く誘うような香りも、桂花の儚くキレイな笑顔も同じくらい、特別で大切に感じるものがあるらしい。
「わーっ!」
突然の風に煽られ、碧音がオレの頭にしがみついた。ハッと我に返ったオレは、慌てて腕を伸ばしてなんとか落ちないように支える。
「けーちゃん、あーと。」
素直にお礼を言っていつも通りの元気な笑顔をくれる碧音を見て微笑む。
「碧は強いな。」
風に煽られたキンモクセイの花たちが一斉に空中を舞う。甘い香りと共に舞い散っていく様は、まるで幻想の世界を思わせるほど美しかった。風が止み、ゆっくりと地面へ流れ落ちる花たちを眺めていると…
『桂』
微かにオレの名を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がして、思わず振り返った。
「どうした?」
立ち止まったままのオレに桂太が不思議そうに問い掛ける。
「いや…気の、せいだ。」
「そっか。おい、碧音。そろそろ家に着くぞ。」
そう言ってオレから碧音を降ろして、優しく小さな手を繋ぐ。
「けーちゃん。またねー。」
空いている方の手を振って、楽しそうに家路を歩いていく二人の姿を見送った。
そっと空を仰ぐと、キンモクセイが彩るオレンジとは違う、夕日の鮮やかなオレンジが世界を染めていた。秋の夕暮れは心なしかいつもより淋しい気持ちになるのは、どうしてだろう…
『桂』
さっきの声は、やっぱり気のせいだったのだろうか。オレの中にある桂花との記憶が、あの甘い香りと結びついているからなのかもしれない。初恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎる感情だが、桂花がいなくなったあの数週間、オレは心に穴があいたような気持ちだった。何をしていても何かが足りなくて、どうすればいいのかさえわからなかった。
当たり前に思っていた存在が、それほどまでに大きなものだったのだと、初めて知った。
「元気に、してんのかなぁ。」
また、あの笑顔に会いたい。
切実にそう思ってしまうくらい、桂花のことを強く想っている自分に気付き、一人苦笑した。不意にジャケットのポケットに手を入れた時、指先に何かが触れ、そっと取り出してみる。
『はい。どーじょ。』そう言ってオレに差し出されたキンモクセイの花だった。
自信あり気に、ニッと笑った碧音の顔が浮かんだ。
『はい。桂、好きでしょ。』
桂花も…よくそう言い切ってオレに両手いっぱいのキンモクセイを持ってきてたなぁ。
『私もこの花、好きなんだ。』
少し照れたように笑って、言ってたっけ。
そう、だ。思い出した…
あの後、風が吹いてアイツの髪がふわりと揺れ、両手いっぱいの花も舞い上がった時、オレは急に説明のできない不安に襲われてアイツの手を掴んだ。理由なんてなかった。なんとなく、そのままどこか遠くへ行ってしまうような気がしたのかも、知れない。
桂太と桂花が双子だからなのか、碧音のちょっとした仕草や表情の中に、幼い頃の二人の姿が重なる。特に桂花の姿を思い出してしまうのは、それだけオレが桂花を見ていたということなのだろうな。
ポケットから取り出した花を手のひらで転がしてみる。ふわふわと揺れる様が桂花の姿を思わせる。そういえば、一緒に歩いている時ですらどこか掴みどころがなくて、別世界にいるのではないかと不安を感じることがあった。一人でいる時にふと見せる表情は、目を離したすきに本当に消えてしまいそうで、心配になって思わず手を握ることが何度もあった。そんな時でもアイツは、ただ優しく微笑むだけだった。
昔のことを思い出し、なんだか遠回りをしたくなったオレは、家とは逆の方向へと歩き出す。二週間ほどすれば、またこの街を離れて見知らぬ場所で仕事をするのだけれど…いつもは何も思わないくせに、今回は何かが引っかかっているようだ。それが何なのかわからないけれど、きっとオレの中で何かが引き止めているのかもしれない。仕事の都合で居場所が定まらないことには、もうとっくに慣れているはずなのにな、と思いながらも言いようのない感情が胸の奥でくすぶっていることを否定できずにいる。
途方もなく歩いてみたが、もともと行き先なんてなかったオレはなんだか、やるせなくなってきて仕方なく帰ることにした。街灯が照らす、歩きなれた道は思った以上に早く家へと導いてくれる。
「はぁ…」
軽い溜め息を吐いて、仕方なくドアを開ける。
「ん?」
ドアを開け、ふとポストを見ると何通かの手紙が届いていた。
「桂花…?」
絵ハガキは、この前届いていたと思うけど?あれからそんなに経っていないはずだ。
「まぁ、アイツはいつも不定期だからなぁ。」
きっといつだって思いつきで出しているのだろう。
ハガキとは別にダイレクトメールや仕事の書類、そして一通の封筒を手にし、リビングへと向かった。
「誰からだ?」
差出人不明の封筒をしばらく眺める。正直、開けるのを少し躊躇ったが、確認しなくては何もわからないと思い、ゆっくりと封を開けた。
「嘘、だろ?」
手紙を読み終えたオレは、何が起こっているのかわからず、ただ…困惑していた。
でも…今までの違和感や不自然な出来事が少しずつ解けていき、納得せざるを得ない状況なのは間違いない、みたいだ。
この手紙の内容すべてが事実だという事なのか?
たとえ事実であったとしても、そんな簡単に受け入れられるわけがない。できることならオレは、すべてを否定したい。ここに書かれてある事は嘘なのだと…思いたい。
「嘘…だよな?」
静まり返った部屋の中で、オレは頼りなく呟いた。
― 桂へ
桂、元気にしていますか?
あなたにこの手紙が届く頃には、私はこの世界にいないかもしれない。だからこそ、伝えておこうと思い、筆を取りました。
ずっとずっと、謝りたくて…
いきなり謝りたいだなんて言っても、何のことだかわからないでしょうね。でも…
ごめんなさい。
あなたは、本当は私たちの子供ではないのです。
私は幼い頃から体が弱く、医者からも子供を産むことは難しいと言われていました。でも、奇跡的に子供を授かることができたの。ただ…結局、お腹の中で十分に成長できなくて、その子を抱ことは叶わなかった。
悲しくて、しばらく泣いて過ごす日が続いていたある日、私の親友から子供が産まれたと報告を受けた。彼女は、経済的な理由で子供たちを育てることができないと、泣いていた…
「一人でも大変なのに、無理よ!」
彼女は泣きながら叫んだ。
「でも、大切な子供たちでしょ。」
「そんなこと、わかってる!わかってるけど!」
どうすれば良いのかわからずに、彼女は泣きじゃくる。周囲の反対を押し切って結婚した二人に頼れる人もなく途方に暮れていた。
「養子として…育ててもらえないだろうか。」
彼女の夫は憔悴しきった声で、静かにそう告げた。
― 何度も話し合って、私たちは…あなたを本当の息子として一緒に生きることを選んだ。
こんなにも大切なことをずっと隠していてごめんなさい。でも、私は…私たちはあなたを本当の息子として育ててきたし、今でもそう思っています。これからもずっと、あなたは私たちの息子です。
でも、このまま真実を隠し通す事が最善だとは言えない。たとえ、母親失格だと言われても構わない。自分の死が近いからこそ、私から伝えたかった。現状として直接話すこともできそうにないから、こんな形になってしまったけれど…
桂、あなたは、本当は…桂花ちゃんと桂太くんの三つ子の一人で、二人のお兄ちゃんなのよ。
今まで話せなかったこと、本当にごめんなさい。
名前に共通の文字を入れたのは、三人の繋がりを消したくなかったから…でも結局は単なる私の自己満足なわがまま、ね…ごめんね。
桂、あなたは今、幸せですか?
今まで歩いてきた時間を、少しでも幸せだったと感じてくれていたら、私はとても嬉しい。大切なあなたと一緒に生きた時間は、私の宝物です。
数え切れないほど、たくさんの幸せを…ありがとう。
そして、息子として一緒に生きてくれて、本当にありがとう…
その手紙の最後には、九月吉日と記されていた。すでに十月半ばなのだから、きっと手紙の差出人は…オレの母親は、他界しているだろう。オレが仕事でここに帰って来られなかった時期に手紙が届いていたのかもしれない。だとしても突然告げられた内容が、あまりにも大きく重要過ぎて、思考がついてこない。
「嘘、だろ?」
あの二人とオレが兄弟って…いきなりそんなことを言われて、あぁそうですか。なんて…
「言えるわけ、ねぇよ…」
一人で家にいても落ち着かず、混迷したままのオレは夜明け前の街に向かうことにした。当然まだ闇の深い街は、昼間とは違った世界に見える。街灯だけが静かにひっそりと照らしている街並みは、どこか幻想的だった。
まったく目的もなく歩き回っていたオレは、いつの間にか小学校の近くまで来ていた。
ここは、初めてキンモクセイを知った場所。
でも、いくら卒業生だとはいえ、こんな時間に訪問するのは不審者でしかない。少しずつ落ち着いてきたけれど、まだ帰る気にはなれないオレは、歩調を緩めてのんびりと歩くことにした。
「まだ、あるのかな?」
あの頃は学校の裏庭にあったのだけれど、長い間訪れていないこの場所にまだそれがあるのか、期待と不安を抱きながらも探してみることにした。
学校の裏口が見えた時、不意に誰かがクスッと笑った気がした。さーっと流れるような風が吹き、微かに…彼女の声が聞こえた。
『桂』
「桂花…?」
『ずっと見てたんだよ。』
声のする方を探してみても誰もいない。確かに桂花の声が聞こえているのに、どこにも姿がない。
「桂花?いるのか?」
周辺を何度も見回すが、やはり桂花はいない。
オレはずっとおまえのことを待っていたんだ。好き、だから…誰よりも大切だからこそ、おまえに会いたいと思っている。本当の兄弟だったとしても…構わない。今すぐ抱きしめて、もう二度と離したくない。それほどまでに、おまえの事を…
『桂、目を閉じてみて。』
「何だよ。」
『いいから。目を閉じてって。』
言われるままに仕方なく目を閉じてみるが、何も変わらない。
『桂が、好きだよ。』
懐かしくて優しい声と頬に微かな温もりを感じて、思わず手を伸ばし、抱きしめようとしたオレの腕はただ空を切った。その時オレは二人の距離が縮まることはないのかもしれないと思った。
『桂は、まだ来なくて良い。』
「どういう意味だよ。」
『意味なんてどうでも良いの。まだ、ダメなんだよ。』
声は少し笑っていて、軽い冗談を言っているように聞こえるのに、何故か淋しそうに感じた。
「桂花…おまえ…」
桂花がどこにいるのかを確認しようとした時、どこからかそっと優しい風が吹き、キンモクセイの花たちを揺らすと甘い香りが流れ出した。
「なぁ。桂花。今、オレの傍に…いるのか?」
『…うん。』
ほんの少し躊躇いながら返事が聞こえた。
「そ、かぁ。」
目で確認できないだけで、こんなにも不安になるものなのかと拳に力を入れた。
『桂…』
オレの手に、桂花の手が触れた…気がした。
「桂花。オレ…おまえが、好きだ。」
ずっと隠していた想いをやっと伝えられたはずだったのに、桂花はクスッと笑った。
『教えてもらわなくても、そのくらいは知ってるよ。』
「え?」
驚いて目を開けた時、そっとオレの手を両手で包み込み、大切に抱きしめる桂花が目の前にいた。
「私は、ずっと桂の事見てたんだから。ちゃんと、知ってるよ。」
あの頃と変わらない優しい笑顔でそう言った。
「おまえ…今までどこに…」
伝えたい気持ちが言葉にならない。たくさん話したいことも聞きたいこともあるのに、言葉がひとつも見つからない。
隠れていた月がそっと顔を出し、月光がオレたちを静かに照らしている。
「桂花…あの…」
「大丈夫。私は、大丈夫だから。桂はまだ来ないでね。ちゃんと待ってるから、まだ、ダメだよ。」
こんなにもキレイで悲しい笑顔を、見たことがない。
「桂。私はずっと一緒にいるよ。私の心にもずっとずっと桂がいるの。だから…」
桂花はじっとオレの目を見つめて話しながら、そっと握っている手を離した。そしてその時、月がまた隠れてしまった。
『だから、さよならは、言わない。』
小さな声が聞こえた後、ほんの一瞬、頬に温もりを感じた。
突然、静かで暗い世界に放り出されたオレは、その場に立ちすくんで動けなくなった。
ポツリポツリと空から雫が零れだした。
「雨、か…」
サーっと静かに降り出した雨の中、オレはしばらく空を見上げていた。
「うん。桂花。さよならなんて、いらないよ。」
そう言ってオレは、桂花の笑顔を思い出し、優しく微笑んだ。
オレンジ色の小さな花たちは、甘い香りを漂わせる。
その香りに酔った者は『かくりよ』の世界への扉が開かれるという…
オレはキンモクセイの花をそっと握り、香りが強くなる方へと歩き続けている。
風が吹き、どこからかキンモクセイの花が舞った。
その光景を眺めていると、いつの間にか花たちがオレの周りをオレンジ色に染めていった。ゆっくりと花がたち地上に舞い降りたとき、目の前に扉が見えてくる。
オレは迷うことなく、そっと扉に手を伸ばし、音もなく開いた扉をくぐり抜ける。
そう、ここが…
かくりよの世界…
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