解呪結婚

nsk/川霧莉帆

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 朝日を感じて目覚めると、ベルタはひとりだった。
 アウリスが寝ていた場所はもう冷えている。昨日の今日なのにずいぶん早起きだ。
(妻に、なったんだった)
 枕が二つ並ぶベッドの中でぼんやりと思う。
 妻になった。それは同時にアウリスが言っていた解呪の条件を満たしたということになる。
 ――これでもう夢に悩まされることはないのだ。
 そうと分かればだらだらしてはいられない。妻としてできることを探しに行かなければ。
「……よし」
 気合を入れるつもりで勢いよく身を起こした。

 寝室から自分の部屋へ向かうまでの廊下はとても静かだ。
 この古城に来てまだ日は浅いが、ここで働く者がとても少ないことには既に気づいている。その少ない人数が大きな城を保っているのだから驚くべきことだ。
 軽く風呂に入って着替えた後、ベルタは人を探しに食堂へ入った。以前会った侍女が広いテーブルを拭いている。
「おはようございます、奥様」
「おはよう。アウリスはもう行ってしまったの?」
「こちらにはまだいらっしゃっていませんよ。お忙しくなさっているみたいです」
「そう」
 朝食も食べずに何をしているのだろう。
 少し考えて、温室のことが頭に浮かぶ。
「なら、また後で来るわ」
「はい、分かりました」
 侍女が頷く。そういえば、とベルタは尋ねる。
「あなたは食堂の担当なの?」
「いいえ。でもここが一番忙しいのでよくいます。この城では皆で仕事を分け合っているんです」
「そうなの。ありがとう。この機会にあなたの名前を聞いてもいいかしら?」
「ダーラです。よろしくおねがいします、奥様」
「ダーラね。こちらこそよろしく」
 ベルタは食堂を出て温室へ向かった。古城は広いが複雑ではない。勘を頼りに廊下を抜け、すぐに目当てのホールを見つけた。
 温室は朝日に照らされて水滴のように輝いていた。薔薇も暖かな日差しで生き生きとして見える。
 そこに人はいない。
(じゃあ、書斎かしら)
 ホールを後にしようとしたが、せっかくだから、とベルタは温室のガラスを覗いた。
 白い薔薇で満ちている風景はアウリスが見せてくれた夢に似ている。だがよく見ると切られた茎がちらほらあった。アウリスが魔法の種にするために摘んだ跡だろう。
「奥様、おはようございます」
 ベルタはびっくりして振り返った。そこにいたのは執事だ。
「お、おはよう」
「お入りにならないのですか」
「え……」
 見れば、執事は手に大きなじょうろを持っている。
「入っていいのかしら」
「私に水やりをお任せになるくらいですから、お怒りにはならないでしょう」
 それは執事自身の判断でしかないのだが、それほどに信用し合っているということだろう。
 親と子ほどの歳だろうに、ダーラもこの執事もアウリスをよく敬っている。
「じゃあ、そうしてみるわ……」
「はい」
 執事がガラスのドアを開けてくれる。ベルタはそっと足を踏み入れた。
「……あら?」
 温かな空気には予想していたような香りがほとんどない。
 後から入ってきた執事がドアを閉めながら言う。
「ここにあるのは特別な薔薇で、魔法を込めなければ香りを発しないそうです」
「そうだったの」
 あの黒薔薇の強い香りを思い出す。魔法の強さによって香りの度合いも違ってくるのだろうか。
 執事が仕事に取り掛かり始めた。ベルタはひとりで円形の温室を回る。
 温室の中は薔薇が植わっている芝生の部分と通路とで分けられている。壁際と中央を薔薇が占めており、その間はタイルの床となっている。三重の円に似た形だ。
 ドアの真向かいまで回ってきた時、ベルタは中央に茂る薔薇の足元に小さな蕾を見つけた。
 まだ固く閉じた薔薇の蕾だ。他と違って背がとても低いが、どうしてなのかはベルタには分からなかった。
「奥様、水やりを代わっていただけないでしょうか」
 妙な頼み事だ。ベルタは立ち上がる。
「どうかしたの?」
「そろそろご主人様がいらっしゃる気がします」
「そうなの?」
 温室の外は静かだ。まだ足音も聞こえない。
「ですから、どうぞ」
「え、ええ」
 ベルタはじょうろを押し付けられた。見た目に反して中身は大分少ない。
「失礼します」
 執事が逃げるように去っていく。
 もしかして若い新婚夫婦のために気を利かせてくれたのだろうか。
(そんな甘い仲じゃないのに……)
 自分たちは恋愛結婚ではない。事情があって一緒になっただけだ。
 アウリスのことは信頼している。妻として応えたいとも思う。だが、普通の夫婦のようにはできない。もしそこへ至ろうと思うなら、たくさんの時間が必要だろう。
 もしも、の話だ。
 アウリスはほどなくしてやってきた。
「ここにいたのか。お早う」
 夫は昨日の疲れもなく爽やかだ。ベルタはその顔をあまり見れなかった。
「おはよう。忙しいそうね」
「少しだけな。……水をやっていたのか」
「ええ、でもほとんどは執事の方がやったのよ」
「メルヴィンか。そういえば頼んでいたな」
 言いながら薔薇を見渡していたアウリスの目がふと止まる。あの蕾だ。
「あ、それ。その薔薇だけ種類が違うのかしら?」
 アウリスは答えなかった。
 蕾の前にしゃがんで地面を触ると、ベルタを見上げる。
「これにも水をやったのか」
「え……ええ」
 アウリスの表情に厳しいところはなかったが、焦っているのは分かる。
「駄目……だったかしら」
「……いや。構わない」
 本当にそうだろうか。
 立ち上がったアウリスはもういつもの様子に戻っていたが、ベルタは釈然としなかった。
「勝手なことをしてごめんなさい」
「いいのだ。どうせ水はやらなければいけなかったから」
 アウリスはじょうろを取り上げてドアのそばに置いた。二人は温室を出てホールの外へ向かう。
「それより、君の薔薇のことだが」
 アウリスが振り返る。
「まだ枯れていなかった」
「……え?」
「来てくれ」
 ベルタは慌ててその背を追った。
「ど、どうして? 条件は満たしたはずでしょう?」
「ああ。だが見落としていたことがあった」
「どういうこと? どうしてそんなことがあるの?」
 不安と疑惑に駆られた声が大きくなる。
「私の魔法は感情と言葉で紡ぐものだ。解釈に時間がかかることもある」
「でも、あなたが作ったものじゃない!」
 アウリスは押し黙った。
 階段を上り、書斎に着く。
 黒薔薇は城へやってきた日からアウリスが管理している。大きな本棚に囲まれた机の上で、黒薔薇は瓶の中で生き生きと咲いていた。
(どうして……!)
 やり場のない感情で握った拳が震える。
「一つ、思いついたことがある」
 背後でアウリスが言う。
「魔法を依頼された時、あの男は確かに『結婚すること』を解呪の条件にしろと言った。だが……」
「まさか、違うの?」
 ぞっとして振り返る。アウリスは首を横に振った。
「私は他にもあの男の言葉を魔法に練り込んでいる。その中の『自分のものにしたい』という言葉が解呪条件を複雑にしているようだ。ものにする、というのは惚れさせたり手玉に取ったりすることを言うのだろう? ならば、君が相手に心酔する、という条件もありえてくる」
 ベルタは頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 恐るべきザカリーの執念だ。だがもはや怯えなどなかった。
「あの人は馬鹿ね。わたしが惚れるわけないじゃない」
 握った拳が怒りに震える。アウリスは目を瞬いた。
「ベルタ」
「だって、ひどいのよ! 強引に迫ったり、乱暴なことをしたり! 薔薇を渡してきた時だって」
 ベルタは叫ぶのをやめた。頬をつままれたからだ。
 アウリスが顔を覗き込んでくる。
「私なら、どうだ?」
 紫色の瞳に自分が映った。それが近づいて、唇がそっと触れ合う。
 身を離したアウリスは申し訳なさそうに微笑んでいる。
「すまない、ベルタ。私がうっかりしていたばかりに君を混乱させてしまった」
「……あ、いえ……」
「誓おう。解呪の条件はこれで出尽くした。夜明けから考えていたから確かだぞ」
「そ、そんな早くから……?」
 アウリスはおかしそうに笑った。そのままケープをひるがえして歩き出す。
「朝食を食べに行こう」
「……ええ」
 ベルタは呆然と脚を動かした。
 唇の甘い感触を思い返しながら。
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