解呪結婚

nsk/川霧莉帆

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 パトリック・シムノンは書斎の窓から遠くの空を見た。
 林の向こうに一筋の煙が薄っすらと立ち上っている。狼煙だ。分隊がアラステアを捕らえたという報告を受けたのはつい先程のことだった。
 扉が叩かれ、シムノン司祭は振り返る。
「どうぞ」
 入ってきた聖騎士は緊張の面持ちで報告した。
「ベルタを捕らえました」
「ええ。ここから見ました」
 司祭は万感のこもるため息をつき、机の上から十字架を取り上げた。
 年季の入った金色の十字架は、十分な手入れのおかげで清廉な輝きを放っている。司祭はそれを真っ白な祭服の胸へかけた。
「始めましょう」

 ベルタは坂を登りきったところで馬から降ろされた。
 城門は様変わりしていた。聖騎士団の旗が掲げられた下には、これ見よがしに武器が立てかけられている。見張りの騎士も物々しい格好だ。
「ここで待て」
 トウ隊長はベルタの背後に立った。見えない威圧感が背中をじりじりと焼くようだ。
 勝手なものだ。城を占領した挙げ句、好きなように飾り付けて、おまけに住人を締め出すなんて。
 やがて扉が開いて司祭が姿を現す。相変わらずの爽やかな面構えを見たら余計に怒りが募った。
「お帰りなさい、ベルタさん。いえ、奥様とお呼びすべきですね。貴方はまだ未亡人ではありませんから」
「それが本性なのね」
 司祭は目元を三日月の形にして笑った。
「この間のお返しですよ。それにしても、どちらへ行かれていたんですか? 奥様がいないせいで随分退屈していたんですよ」
「アウリスがいたじゃない」
「彼とは三日話してません。私を無視することに決めたみたいです」
 口の端に意地の悪さが滲んでいる。ぞっとするほどの変わり身だ。
「それより、ここで時間を潰していていいのかしら? 予定があるんでしょう?」
 司祭が首をかしげる。
「国王陛下主催のお茶会よ。その案内のためにあなたはここへ来たのでしょう、忘れたの?」
「おや……こちらこそ、お二人とも忘れてしまっているのかと心配していたところです」
「忘れてなんてないわ。わたしはそのために準備していたんだもの」
「さようですか?」
「そうよ。だからあとはアウリスの潔白を証明するだけ」
 司祭の青い瞳は完璧に冷静だった。
「何の話です?」
「もうとぼけなくていいわ。あなたはアウリスが魔術師だと疑っているんでしょう? 魔術師の家系の一人で、身内に呪われたせいでこの城から出られないんだって。お茶会を断ったのはそのせいだって考えているのでしょう」
 返事はない。ベルタは構わず続ける。
「全部あなたの妄想よ。魔法なんてないし、魔術師の一族なんて存在しないの。だからアウリスはこの城から出られる。証明できるわ」
「はぁ」
 はじめこそ気のないふりをしていた司祭だったが、こらえきれなくなったのか、とうとうおかしそうに笑いだした。
「……面白いですね。そんな口上のために夫婦ふたりで知恵を絞ったわけですか。アウリスは囮に、貴方はアラステアの協力を取り付けに。確かに私は見事に出し抜かれました」
「…………」
「でも無駄ですよ。城から出られたとて、待っているのはお茶会じゃありません。審問です」
「……!」
 審問――過去、実際に行われていたことは拷問だったという。あくまで過去の話だが、今の司祭を見るに何かを用意していてもおかしくない。
 ベルタの表情がこわばる手前、司祭は両手を広げる。
「まあ、ここで多少なりとも何かを証明できるというなら、それに越したことはありませんね。言っておきますが、私には貴方の言い分を聞くことに何の義理もないのですよ」
「……御慈悲に感謝するわ」
 好ましい微笑みを見せた後、司祭は両開きの正面扉を両腕で押しのけた。
「貴方に神の御加護がありますように」
 司祭が背後へ合図を送って退くと、玄関ホールに朝日が差し込んだ。扉の形に光が伸びた先に見慣れた姿を見つける。
「アウリス……!」
 思わず一歩踏み出すと、トウ隊長がすかさず腕をつかんできた。
 ベルタはアウリスの姿に目を凝らした。項垂れて立ちすくんでいるのだろうか。いや、それにしてはおかしい。
 よく見るとアウリスの身は台と棒の簡素な仕組みに張り付いている。縛り付けられているのだと分かったのは、聖騎士が後ろ手の拘束を切った直後、その細身が膝から崩折れた時だった。
 アウリスは聖騎士らに両脇を抱えられても自ら歩こうとしなかった。扉の前まで引きずられてくると、聖騎士らが支えるのをやめた途端、重力に従って床に体を叩きつける。そしてぴくりとも動かない。
 ベルタは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「アウリス……?」
 背中を凝視しても息をしている確信が持てない。痛めつけられた跡はないようだ。だがあんなに痩せていただろうか。
 銀色の頭の横へ靴が並ぶ。司祭が身をかがめて言う。
「これが最後の機会ですよ」
 ベルタの視界が滲んだ。
「アウリス、こっちを見て!」
 夫は微動だにしない。
 ベルタはトウ隊長を振り切ろうとしたが、横から飛び出してきた鋭い光が喉元に当たり、腕を下ろした。
 剣だ。冷たい切っ先が肌に食い込んでいるのが分かる。
「……っアウリス……!」
 恐怖で声がか細くなる。悔しいのに、どうしてもその場から動けない。
 司祭が身を起こした。
「慈悲をかけても、かけなくても何も変わらない。興味深いことです」
 十字架を握り、足元を見下ろす。
「やはり神の罰は絶対なのですね。私たちの使命は……」
 瞑目の後、青い瞳が振り返った。
「その魔女を斬りなさい」
 ベルタは両腕を背中で一絡げにされ、跪かされた。耳元で風が鳴ったのは、トウ隊長が剣を逆手に握り直したからだろう。
「お……お願い」
 全身がぶるぶると震える。目の前が白黒していて、全然力が入らない。
 背中に力が伸し掛かってきた。前傾姿勢を取らされ、刃が振りかぶられたのを感じる。
(これで終わるなんて――そんなはずない)
 ベルタは顔を上げ、大きく息を吸って叫んだ。
「――アウリス、助けてっ!」
 涙が頬をこぼれ落ちた。
 一瞬止まったように感じられた時が一秒、また一秒と経ったが、ベルタはまだ生きていた。知らない間に閉じていた目を開けてみて、驚きのあまり何度か瞬く。
「あ……」
 アウリスが床から身を起こしている。そばにいた司祭を支えに使いながら片膝を突き、片脚を立てる。そして両足で立ち上がる。
 司祭の肩から手を離した後の歩みは今にも倒れそうなほど覚束なかった。乱れた髪に視界が埋もれているが、それを払う力はありそうにない。気力だけで前へ、光の方へと進んでいる。
 その脚が走り出した。
 ベルタは全力で拘束を押しのけ立ち上がった。両腕を広げて一歩踏み出した瞬間、どこかから薔薇の香りがした。
「撃てーッ!」

 その時、城門に控えていた聖騎士がアウリスの背めがけて撃ったクロスボウのボルトは、二人を避けるように不自然に軌道を曲げた。
 その時、アウリスに抱きつかれて姿勢を崩したベルタの鞄から薄桃色の薔薇が飛び出して宙を舞った。
 ボルトは軌道上に飛び出してきた薔薇を散らすと、あらぬ方向へ飛んでいく。

 ベルタは力なく覆いかぶさってきたアウリスを受け止めようとしたが、もがけばもがくほど体格の差を知るだけだった。仲良く地面に倒れ込んだ後、すぐに痩せた体の下から這い出し仰向けにする。
「アウリス!」
 銀髪を払いのけるが、茫洋とした瞳はこちらを見てくれない。ただ太陽の光を浴びて、宝石のように輝いている。
「空、だ」
 乾いた唇が呟き、帳のように瞼が下りた。
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