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6.もしもの話(後編)
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とは言ったものの、数日ぶりに緊張しているのも事実だ。
自分のティーカップに紅茶が注がれ終わるとセレネはしばし固まってしまった。マクシムとジャネットが世話を終えて出てゆき、いよいよ長いソファに二人きりとなる。
「綺麗に焼けたな。焦げちまわなくてよかった」
「そうね。ユーグ、先に食べてくれないかしら? あなたとの合作だけど、一口目は譲るわ」
「いいのか? じゃあ、毒味させてもらうよ」
三角形の鋭い角にフォークが入る。大きな一口を頬張ったユーグは笑顔で頷いた。
「すごく美味い。俺が切ったオレンジが効いてるな」
「良かった。でも今日はこれだけよ。一日寝かせた方が美味しいから、取っておかなきゃ」
ユーグはすぐに二口目を食べようとしたが、セレネが一向に食器に手を付けないことに気づいて手を止める。
「……やっぱり、人前じゃ食べたくないか?」
「…………」
「じっと見たりなんかしないさ。約束する」
「あなたを疑ってるわけじゃないわ。ただ……」
言いよどんで俯いた。
「変、だから」
「変?」
「く、口に入れても、すぐには見えなくならないの」
ちらりと顔を窺うと、ユーグは多少は驚いていた。
「それは不思議だ」
「ええ、だからいつも一人でいたかったの。そんなもの見えてはよくないもの……ユーグ?」
セレネのフォークに一口分のケーキを刺している。それをこちらへ向けて、食べさせようとしてくるのだ。
「ベールを少し上げて。そうすれば見えない」
「でも……」
「怖がらなくていい。ただ美味しいだけさ」
ベール越しに魅力的な甘い香りを仄かに感じる。
セレネは恐る恐るベールを持ち上げた。下から潜ってきたフォークが、ちょうど口の高さへとケーキを運ぶ。
食べると、芳醇なバターとオレンジの香りが幸せなほど口いっぱいに広がった。
「美味いだろ」
コクコクと頷く。ユーグは目を細めた。
「初めて一緒に食べてくれたな」
透明人間になって一番辛かったのは、たった一口すらも人前で食べられなくなったことだった。そのせいでいっそう不気味がられ、孤独に追い込まれていったからだ。
孤独が自分の性格から良い部分を奪っていることには気づいていた。自分を守ろうとするあまり、沢山の人に失礼な態度をとったことにも。
忌避されるのは自業自得だと思う一方で、誰も自分を助けてくれないことを憎んでいた。
なのに――ユーグはどうして手を差し伸べてくれるのだろう。
「いつも思ってたんだが、見づらいだろう?」
ベールがついているボンネットを指す。室内用の軽いものだが、キッチンでも被っている姿は奇妙だっただろう。
「……見づらいわよ」
「暑くない?」
「暑いわ」
「面倒?」
「ええ……」
「じゃあ、脱いだらいい」
顔を上げると、ソファの背に腕を凭せ掛けたユーグは存外に近い。
僅かに首を横に振ったが、ベール越しに覗き込んでくる真っ直ぐな瞳から目が離せない。やっとの思いでソファに後ろ手を突いてじりじりと後退るが、すぐに肘置きにぶつかってしまう。
ユーグはどこか切ない微笑みを浮かべた。
「もし……俺が恋人だったら、逃げないでいてくれるのかな」
伸ばされた手が顎の下のリボンに触れる。
かぁっと全身を巡った熱さに耐えられず、セレネは咄嗟に身を捩って逃れようとした。だが、バランスを崩して体の支えを失う。
「あっ……!」
ソファから転げ落ちて床にぶつかる直前。
セレネの背中は腕に、頭は手のひらに持ち上げられていた。押し付けられた硬い胸から恐る恐る顔を上げると、頭上で安堵の溜息が聞こえた。
「痛いところは?」
「な、ないわ。大丈夫よ」
「よかった」
ユーグは片腕でセレネを支え、もう片方の腕を床に突いて体を浮かせていた。鍛えられた体が隆起しているのがシャツ越しでも分かる。
二人はソファとテーブルの間で重なるように倒れていた。ユーグが起き上がるため体勢を変えようとして、ふと眉を寄せる。
「何か……落ちてきてる」
「え?」
「頭に冷たいものが掛かってる。何か溢しちまったみたいだ」
セレネが頭をずらして上を見ると、テーブルの縁から白い液体が滴っている。
「ミルクピッチャーが倒れたんだわ」
「あぁ……しまったな」
そこへ、外からバタバタと足音が近づき、ノックもなしにドアが開かれた。
「何事ですか!? 大きな音がしましたが」
「あ、ジャネット……」
床から聞こえた声に驚き、その光景に目を丸くする。後ろから顰め面をのぞかせたマクシムは更に眉間にしわを寄せた。
「こ、この破廉恥! 早くどいてください!」
ユーグは困った声を出した。
「今はどけないんだ。よく見てくれ」
「言い訳しないでください!」
「これは事故だ。マクシム、早く助けてくれよ」
「布巾ならテーブルの上に」
「手が届かないから言ってるんだ!」
気づけばセレネは数年ぶりに笑っていた。顔に落ちたベールが少し揺れるほどに吐息を漏らして。
自分のティーカップに紅茶が注がれ終わるとセレネはしばし固まってしまった。マクシムとジャネットが世話を終えて出てゆき、いよいよ長いソファに二人きりとなる。
「綺麗に焼けたな。焦げちまわなくてよかった」
「そうね。ユーグ、先に食べてくれないかしら? あなたとの合作だけど、一口目は譲るわ」
「いいのか? じゃあ、毒味させてもらうよ」
三角形の鋭い角にフォークが入る。大きな一口を頬張ったユーグは笑顔で頷いた。
「すごく美味い。俺が切ったオレンジが効いてるな」
「良かった。でも今日はこれだけよ。一日寝かせた方が美味しいから、取っておかなきゃ」
ユーグはすぐに二口目を食べようとしたが、セレネが一向に食器に手を付けないことに気づいて手を止める。
「……やっぱり、人前じゃ食べたくないか?」
「…………」
「じっと見たりなんかしないさ。約束する」
「あなたを疑ってるわけじゃないわ。ただ……」
言いよどんで俯いた。
「変、だから」
「変?」
「く、口に入れても、すぐには見えなくならないの」
ちらりと顔を窺うと、ユーグは多少は驚いていた。
「それは不思議だ」
「ええ、だからいつも一人でいたかったの。そんなもの見えてはよくないもの……ユーグ?」
セレネのフォークに一口分のケーキを刺している。それをこちらへ向けて、食べさせようとしてくるのだ。
「ベールを少し上げて。そうすれば見えない」
「でも……」
「怖がらなくていい。ただ美味しいだけさ」
ベール越しに魅力的な甘い香りを仄かに感じる。
セレネは恐る恐るベールを持ち上げた。下から潜ってきたフォークが、ちょうど口の高さへとケーキを運ぶ。
食べると、芳醇なバターとオレンジの香りが幸せなほど口いっぱいに広がった。
「美味いだろ」
コクコクと頷く。ユーグは目を細めた。
「初めて一緒に食べてくれたな」
透明人間になって一番辛かったのは、たった一口すらも人前で食べられなくなったことだった。そのせいでいっそう不気味がられ、孤独に追い込まれていったからだ。
孤独が自分の性格から良い部分を奪っていることには気づいていた。自分を守ろうとするあまり、沢山の人に失礼な態度をとったことにも。
忌避されるのは自業自得だと思う一方で、誰も自分を助けてくれないことを憎んでいた。
なのに――ユーグはどうして手を差し伸べてくれるのだろう。
「いつも思ってたんだが、見づらいだろう?」
ベールがついているボンネットを指す。室内用の軽いものだが、キッチンでも被っている姿は奇妙だっただろう。
「……見づらいわよ」
「暑くない?」
「暑いわ」
「面倒?」
「ええ……」
「じゃあ、脱いだらいい」
顔を上げると、ソファの背に腕を凭せ掛けたユーグは存外に近い。
僅かに首を横に振ったが、ベール越しに覗き込んでくる真っ直ぐな瞳から目が離せない。やっとの思いでソファに後ろ手を突いてじりじりと後退るが、すぐに肘置きにぶつかってしまう。
ユーグはどこか切ない微笑みを浮かべた。
「もし……俺が恋人だったら、逃げないでいてくれるのかな」
伸ばされた手が顎の下のリボンに触れる。
かぁっと全身を巡った熱さに耐えられず、セレネは咄嗟に身を捩って逃れようとした。だが、バランスを崩して体の支えを失う。
「あっ……!」
ソファから転げ落ちて床にぶつかる直前。
セレネの背中は腕に、頭は手のひらに持ち上げられていた。押し付けられた硬い胸から恐る恐る顔を上げると、頭上で安堵の溜息が聞こえた。
「痛いところは?」
「な、ないわ。大丈夫よ」
「よかった」
ユーグは片腕でセレネを支え、もう片方の腕を床に突いて体を浮かせていた。鍛えられた体が隆起しているのがシャツ越しでも分かる。
二人はソファとテーブルの間で重なるように倒れていた。ユーグが起き上がるため体勢を変えようとして、ふと眉を寄せる。
「何か……落ちてきてる」
「え?」
「頭に冷たいものが掛かってる。何か溢しちまったみたいだ」
セレネが頭をずらして上を見ると、テーブルの縁から白い液体が滴っている。
「ミルクピッチャーが倒れたんだわ」
「あぁ……しまったな」
そこへ、外からバタバタと足音が近づき、ノックもなしにドアが開かれた。
「何事ですか!? 大きな音がしましたが」
「あ、ジャネット……」
床から聞こえた声に驚き、その光景に目を丸くする。後ろから顰め面をのぞかせたマクシムは更に眉間にしわを寄せた。
「こ、この破廉恥! 早くどいてください!」
ユーグは困った声を出した。
「今はどけないんだ。よく見てくれ」
「言い訳しないでください!」
「これは事故だ。マクシム、早く助けてくれよ」
「布巾ならテーブルの上に」
「手が届かないから言ってるんだ!」
気づけばセレネは数年ぶりに笑っていた。顔に落ちたベールが少し揺れるほどに吐息を漏らして。
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