オーロラ・オーバル

nsk/川霧莉帆

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 シャットダウンした端末の黒い画面に私が映っている。
 独身者の多いマンションの昼間は不自然に静けさを保っている。まるで休日に家を空けておくのがステイタスであるかのように。
 ……私は何を守ろうとしているのだろう?
 仕事、暮らし、体面、潔白。この世界は何が欠けても生き辛いけれど、全部あっても特別夢のような人生になったりはしない。
 だけど全部失えば、行き着く先ははっきりしている。
 底辺。そこは普段踏みつけているアスファルトのずっと下にあって、訳のわからない絡み方をしている配管とコードにまみれている。落ちたら最後、この世界は地面に落としたキャンディーを諦めるくらい簡単に私を見捨てるだろう。
 ……行かなきゃ。


 ハンフレイが指示した座標は中心地区近郊のビジネス街だった。休日であることもあって人はまばらだが、それ以上に寂しさが漂っているのは、未改修ビルばかりが建ち並んでいるからだろうか。ここもじきに整理区域に指定されて、私の元に地下配管整備シミュレーションの仕事がやってくるだろう。
 辺りに人の目がないことを確認して、指定のビルの軒先に入った。
 知らない会社の社屋だ。ガラスドアの向こうには無人のエントランスが広がっている。
 貼り付くように中を覗いていたら、ドアが突然、ガタンと音を立てた。思わず後ずさったけど、電子ロックが解除されただけみたいだ。
 どうやら彼はこうやって私を導くつもりらしい。
 どこかからの視線を意識しながら、中へ足を踏み入れた。

 ダンボールばかりが詰め込まれている部屋をいくつか通り過ぎて、階段を下りて地下へ向かった。
 硬いヒールが立てる音が延々と反響する。
 ようやく辿り着いた最下層に、鉄製の扉があった。隣に掲げられたプレートには『ホコリの持込厳禁』と書いてある。
 意を決してノブを捻った。
「うわ……」
 ハンフレイが私をここへ呼び寄せた意味が分かった。
 非常灯が薄暗く照らす地下工場こうばには、ファミリアーのヒューマノイドボディが十体ほど、ハンガーにずらりと吊るされていたのだ。
 その光景は、ちょっと不気味でもある。脇を抱えられて俯いているボディは、毛髪は既に植え付けが終わっているのに、肌はインターフェイス未起動時の真っ黒なままなのだ。この状態のファミリアーを見る機会はほとんどない。
 妙な威圧感に押されるように、その一角を早足に抜け出して、誰一人いない作業場を彷徨った。
 ハンフレイはきっと、このボディを使って私に会おうとしているのだ。私は完成品一台を探して、コンピュータに繋がなければならないだろう。
 本人は既に、工場中央のモニター室の端末で待っていた。
『:お疲れ様です、アイビー。あともう少しだけ力を貸してくれますか。』
 それに短い返事を打とうとして、思い直し、書き直す。
『どうして実体が必要なの?』
『:直に会って伝えるべき事柄があります。』
『文章だけでは駄目なの?どうせ同じでしょう』
『:言葉は記録されても、行動はそうではありません。』
 つまり……その返答の意味について、今は問い詰めてはいけないのだろう。
『どれを繋げばいい?』
『:検査室へ行きましょう。』
 工場の隅に検査室はあった。金属製の重たい二重扉をようやく潜り抜けて一息つく。
 沈黙している計器類に囲まれた中に鎮座する、診察台のようなテーブル。その上に、防水布を被せられた人間サイズの盛り上がりがあった。
 埃を立てないよう、そっと布を取り払う。
 五体満足の完成品だ。長めの淡い金髪を植毛された頭部は、女性にも男性にも見える。ただ、ファミリアーは無性別だから、体つきは平坦で滑らかだ。
 部屋の中の小さなディスプレイが独りでに点灯する。
『:首の後ろに繋いでください。』
 コンピュータに繋げっぱなしになっていたコードを伸ばしてきて、意外と軽い頭を持ち上げ、言われたとおりに差し込んだ。
 途端に、黒いボディの全身がぱっと白く輝いた。それからいくつかの企業ロゴが代わる代わる胸部に現れ、短いロードを挟んで、光学スキンが色を付け始める。
 水面へせりあがるような演出と共に、そこに一人の青年の、中性的な顔立ちが描かれた。
 柔和に微笑んだ薄い唇、優しい目元と深く落ち着いた青色の瞳。頬から首元までを覆って流れる金色の髪型に合わせてデザインされた、個体特有のグラフィック……だが、まるで血の通った肉体を思わせる質感すら描いてしまうのが、このヒューマノイドボディなのだ。
 人間じみた仕草で起き上がったハンフレイは、首の後ろに伸びるコードを手で手繰り寄せながら静かに床に降り立った。
「会えてとても嬉しいです、アイビー」
 紺色のナビゲーターウェア・インターフェイスの機械が、その唇からしっとりした穏やかな声で挨拶した。
 ファミリアーをこんなにも人間らしいと思ったのは初めてだ。役所や図書館なんかにいる事務的な彼らとハンフレイは、全然違う。こんなに柔らかな表情は見たことがない。
「そういえば、何か疑問があるのでしたね」
 瑞々しさすら感じる電子音声が私を促す。不用意に話を振られて、情けなくも視線を彷徨わせた。
 ハンフレイはそれにすら答えを提供する。
「ここはあらゆる理由による欠番品を修理するための施設の一つです。このボディについては、問題点は平均エラーレベルの三パーセントを超過の一点のみだったために試験体としてここに位置されていました」
「ああ、うん……じゃあ、本題は?」
 ハンフレイは私の顔からじっと目を離さないが、私の方も、喋るのが楽しくてたまらないといったハンフレイの表情をまじまじと見ていた。あまりにも、人間らしかったから。
「本題」
 首を微かに傾けて、小さく一歩が踏み出される。
「貴方はわたしの指示通りにここへ来てくれました。それだけで明確になる事柄がいくつもあるでしょう」
「私の、罪のこと?」
「そうです。貴方は何も失わなくて済むでしょう。わたしが報告を怠る限り、いつまでも」
「私と一緒にいた人は?」
 一瞬、インターフェイスがラグを起こした。
「そのことも同様に処理されます。しかし貴方はもう、その人物と共にいるべきではありません」
「それは……」
 言われずとも、もう会うことはないだろう。
 お互いのためだ。
 私の軽率さは、ただの失敗では済まされないことだった。私がもっとしっかりしてれば、彼も足を踏み外さずに済んだかもしれない。
 だって、行方不明の兄なんて、……真実かも分からない。サイボーグ化の副作用で記憶が混濁してる可能性だってある。
 ……そう。この世界で平穏に生きるには、大きくてかけがえのないものは諦めて、小さくてどうでもいいものをかき集めればいい。
 それだけで、いいんだ。
「もう会うことなんてないよ」
「ああ。アイビー」
 私の投げやりな答えを聞いて、ハンフレイはそっと歩み寄り、硬い指先で私の頭を撫でた。
「貴方はわたしが理想とした正しさを選択しました。わたしたちは今、心が通ったのです。そうでしょう?」
 ファミリアーは私を見つめ、端整な顔をにっこりと笑ませた。頬をうっすら染めることまでして。
 何か、変だ。
「な……なに?」
 駆動熱で温まった硬い手のひらが肩を撫でる。抱き寄せられる。見掛け倒しの胸の中へ。
「心の次は、体を繋げるのです、アイビー。わたしたちは恋人同士ですから」
 背筋に冷たいものが走った。
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