オーロラ・オーバル

nsk/川霧莉帆

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 鋼鉄の腕を振り払って、扉へ後ずさる。
「こ、壊れてる」
「いいえ。わたしは正常に稼動しています」
「まともな機械はこんなことしない!」
 ノブに手をかけると同時に、二重の扉から施錠音が聞こえた。
 私に睨みつけられて、ハンフレイは寂しそうな表情を浮かべてみせる。
「行かないで下さい」
 演技の出来ない電子音声が言い、二本の腕が逃げ場のない私を今一度抱きしめた。
 壁と家具の間なんかに挟まったらこんな心地だろう。それが、逃げ出そうともがく動きに追い縋って私を閉じ込める。
「あの夜、あの男の下で、貴方が乱れきっていたのをわたしは知っています」
「……!」
 思わず力が緩んだ隙に、ハンフレイは私を軽々と抱え上げた。
「あっ」
「わたしの誤算は、貴方に出会ったのが人間の男ではなかったことです。ですが結果を言えば、最良の運命でしたでしょう。彼の振る舞いはわたしの多くの疑問に答えを授けてくれましたから。彼はとてもよい、先生でした」
 台の上に下ろされて、抵抗する暇もなく頑丈な体躯に押さえつけられる。
 ありえない……基盤意識オムニポテントの分身が罪を犯すなんて!
「やめてよッ、嫌だってば!」
「心配しなくとも、わたしはもう繊細さを知っています。それにわたしは誰よりも勉強熱心で、物覚えが良い男です」
 デニムパンツがずり下ろされ、寒々とした空気に怯えた肌の上を硬い指が這い回った。
「いや……!」
「なぜです?」
 淡々と無意味な問いかけをしながら、機械が下着の上から敏感な場所を押し潰した。
「んッ……」
「もし、わたしに感情がないと思っているなら、その認識は間違いです。わたしは貴方を気に入っている。少なくとも、そう言えます。わたしは貴方が好きです、アイビー」
 強制的に生み出されてゆく熱に、身を任せそうになる。
 だって、これは取引なのだ。ハンフレイが満足すれば、私はまた、日常に戻れる。
 そうだ。少し我慢すればいい。どうせ相手は人間じゃない。
 ……だけど。
「あ……!」
 つるつるして存在感のない指が布を押しやり奥へ潜り込んできて、あちこちを探り回る。聞こえる水音に嬉しそうな視線を遣って、ハンフレイは綺麗に微笑んだ。
「どれだけの思い出があれば、貴方は他の男を忘れてくれるでしょうか」
 抜き去られた手が眼前に翳される。
「これくらい、でしょうか」
 拳。
 思わず顔が引きつる。
「心配は要りません。わたしならば爪が引っかかるようなこともありません。また、メリディアン社のヒューマノイドボディは完全防水設計である上、約千八百十一ケルビン環境においても六十秒動作し続けることが」
 やっぱり逃げ出そうと全身に力を込めたその時、検査室の全ての電源が落ちた。
 当然、内部電源で動くファミリアーには関係がない。しかし指示系統であった端末が強制終了したことで、暗闇の中で薄ぼんやりと発光したままのハンフレイの実体は半端な姿勢のままフリーズしてしまった。
 咄嗟に、これがチャンスだと思った。服を整えて台を降り、ヒューマノイドボディの首根っこから生えている線を手探りで見つけて引っこ抜く。実体ブレインにパーソナルシステムがコピーされた様子はない。ハンフレイはもう動けない。
 壁を伝って二重扉に辿り着いて、もう一度ノブを動かしてみる。けど、やっぱり駄目だ。電子鍵である以上、ここから出るには部屋へ電気を通さないと……。
 その時、外で奇妙な高い音がし始めた。まるで水が沸騰した時のケトルの笛みたいな。
 それから扉が一枚、乱暴に開かれる音。
 施錠を焼ききったんだ。
 ……不正アクセスと不法侵入の犯罪者を捕らえに来た巡回ロボットかもしれない。
 どうしよう、言い訳なんて考えてない。だってハンフレイの賢い頭脳を馬鹿みたいに信用してたんだもの!
 ど……どこかに隠れる場所は……。
「アイビー!」
 聞き覚えのある声に、現金な全身が振り返った。
「サ……サイトス?」
 叫びにならなかった情けない呼びかけでも、彼の聴覚は拾ってくれる。
「ドアから離れてろよ!」
 熱線鋸が扉の隙間に食い込んで、暗闇の中に騒音と火花を散らす。
 やがてそれが全て止んで、塞いでいた目と耳を解放すると、同時に薄い明かりがまるで道しるべのように差し込んできた。
 その中に、玉虫色がきらめいている。
「大丈夫か?」
 工具を放る動作すら慎重になりながら、サイトスは遠慮がちに黒い手を差し伸べた。
 それは私がすべき心遣いなのに。
「……うん」
 温かい手に手を重ねれば、しっかりと握って腕を引いてくれる。
 私は許しを請うように、外へ出るまでずっとサイトスにくっついていた。
 どれくらい地下にいたのだろう。空にはもう夕暮れが迫り、ビルの谷間は影の中に沈んでいた。
「トラムまで送る。真っ直ぐ家に帰って、休み明けは何事もなかったように仕事に行くんだ」
 狭い路地に身を隠すと、サイトスは手短にそう言った。
 私はよほどひどい顔をしていたのだろう。こっちを見て、すぐにかぶりを振ったけれど。
「頑張りすぎだぜ。気が気じゃなかった」
「ずっと追いかけてたの?」
「許してくれよ。俺はファミリアーほどスマートじゃないんだ」
 私は首を振った。
「ごめんなさい。私、自分のことばっかり考えて……サイトスに酷いこと言って」
 彼の二つの手が言葉を探し、結局力なく落ちた。
「俺が甘かったんだ。アイビーにはどうせ大きな味方がいるから多少のことなんか心配ないと思ってたんだ。それが間違いだって気づいた時にはもう遅かった」
 私も同じ思いだ。
 でも、私は逃げることしかできなかった。大きな問題に立ち向かっていくなんて、考えもしなかった。
 サイトスへ頭を下げる。
「助けに来てくれて、本当にありがとう」
「俺にはこれしかできなかったんだよ」
 疲労混じりの声で彼は言った。
「でも、これでトラブルはおしまいだ。散々迷惑かけて今更だけど、ごめんな。俺たちはもう会わない方がいい」
「…………」
 見上げたフェイスシールドには何も映り込まない。ただ細かな動きに合わせて、黒い面上で色が波打つだけだ。
 身勝手だけど、寂しく思っていることを気づいて欲しい。口に出せば次の厄介事を招いてしまう気がするから。
「そうだな」
 どきりとする。返事のような独り言だった。
 サイトスは踵を返しかけていた身体を元に戻して、パンツのポケットに両手を突っ込む。
「最後にキスしてもらおっかな」
 思わず無機質な顔面上を見回した。
 サイトスは肩をすくめる。
「こんなナリだからしてもらったことないんだよ。だからちょっと憧れてるのさ」
 努めて軽い口調に、複雑な微笑が出た。
 彼の肩に緊張した手を宛がい、頭部を見上げる。
「目を閉じようか?」
 ちょっと笑ってしまう。
「できるの?」
「どうかな」
 傍目には何にも変化はないけれど、サイトスの全身が静止したのを感じた。
 少し背伸びをして目を閉じて、そっと唇を寄せる。
 やがて感じた、冷たい硬質な感触。何度でも証明される、彼が人ではない事実。
 だけど薄くて頑丈なこのフェイスシールドの中には、確かに心がある。
 そう、思う。
 ゆっくりと離れた体の間に、冷えた空気がすっと入ってきた。
「……沈黙の意味を理解できるのは人間だけだって、どこかで聞いた。俺はその言葉の意味が分からなかったけど」
 彼は体温を振り切るように背を向ける。
「ありがとう、アイビー」
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