オーロラ・オーバル

nsk/川霧莉帆

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『――次は本日の天気予告です。基盤意識オムニポテントの午前〇時の予告によると、本日は終日曇りです。ドームには現在、白い雲が広がっています。風は北東から、風速一メートル毎秒以下です――』

 洗い物を済ませた手にハンドクリームを塗り、テレビを消して家を出る。
 トラム乗り場にはいつもより一分早く着き、エントランスゲートも歩いて通れた。
 始業前のフロアはまだ落ち着きがなくて、自分のパーティションへ向かう間に狭い通路で何人かとすれ違った。
「おはよう。今日は早いね」
 隣の席から久しぶりに声をかけられて、曖昧な微笑みと共に挨拶を鸚鵡返しする。
 コンピュータ端末を起動させて、仕事の割り振り表を確認した。引き続き地下配管の整備シミュレーションを指示されている。
 始業を告げるアラームが鳴った。私は周りの皆が席について自分の仕事に集中し始めるまで、割り振り表を開きっぱなしでいた。
 これからやることを誰にも見られてはいけないからだ。
 通信プログラムを呼び出し、基盤意識にダイアルする。出迎えたのは白々しいフロントレスポンス画面だった。
『論理処理補助脳、ハンフレイを求めます』
 呼び出せばやって来るのがファミリアーだ。ハンフレイはすぐに接続した。
『:仕事を始めましょう、アイビー。』
『いいえ』
 私は努めて落ち着いてキーボードを叩いた。
『貴方は罪を犯した。私の言うことを聞いてもらう。でなければ私は貴方のことを警吏へ届け出る』
『:罪とはなんですか。』
『強姦未遂』
 棒状カーソルが一度点滅した。
『:人の法でわたしを裁けるとは思えません。最善の対処法は基盤意識へ直接相談することです。』
『質問に答えて。サイトスとは誰?その兄はどこ?』
『:』
 再びの長考の末、文字が走り出す。
『:貴方は脅されていた。それは嘘だった。貴方は脅されていた。嘘だった。そう、嘘なのです。嘘です。しかし嘘です。あるいは嘘なのです。嘘です。嘘だった。嘘。嘘でした。むしろ嘘です。』
 異様な態度に不安に思ったのも束の間、再びカーソルが移動しだした。
『:仕方がありません。次は性行為を強要されるに留まらず、より核心的で命に関わる仕打ちを受けるかもしれませんので、わたしは貴方の要求に応えましょう。例の個体は三年前に当局を辞職した数人の技術者によって違法地下施設において作られた無認可のヒューマノイドです。また、現場から回収された物品の中には試作機のシミュレーションデータが存在します。』
 試作機……それが兄ってこと?
『そのデータはどこ?』
『:なぜそんなにも必死なのですか。』
 うろたえそうになったのを堪えて、強気で返す。
『答えて』
『:ハハハ! ゴミはゴミ箱に決まっていますよ、アイビー。』
 もしこの返事に表情をつけるなら、意地悪い微笑みだろう。
 からかわれたんだ。
 勢いに任せて通信を終了し、代わりに立体構造エディタを開いて、仕事中らしい態度を取り繕った。
 それにしても、ハンフレイの口ぶりだと、サイトスがまるで……。
 いや、それよりも。
 試作機のデータは『現場から回収された物品』の一つだった。今は『ゴミ箱』にある。そして、処分済みとは言っていない。
 つまりデータは記憶装置の形で存在していて、現実世界のどこかにある施設で処分の時を待っている。
 そういう、こと?

 ……サイトスの兄が、データ。
 私はもしかしたら、ホントにとんでもないことに首を突っ込んでるのかもしれない。
 サイトスが言ったとおり、もうトラブルはあれっきりにすべきだったのかもしれない。
 なのに『なぜそんなにも必死なのですか』?
 そんなの……。

 もう一度、通信プログラムを立ち上げる。
『仕事をしよう、ハンフレイ』
 少しクリアになった頭でそうタイプする。ファミリアーはすぐに返事をした。
『:宝探しはいいのですか。』
『何のこと?いつもの仕事をして』
 すぐさま、エディタ上の絡まる糸たちが最適化を始める。その横で書き込んだ。
『私がサイトスのことに必死になるのは、彼がかけがえのないものを探しているから』
 ハンフレイは無言だった。
『貴方はそうじゃない、とは一概には言えない。質問に答えてくれたから。そのことには感謝してる。けどやっぱり貴方はサイトスとは違う。どうせ貴方はいつでも私に会える。でもサイトスには時間がない』
「……?」
 エディタ画面が大きく変化した。表示領域が指示区域の外へ飛び出し、目まぐるしく移動を開始したのだ。
 私は何も触っていない。なら、ハンフレイの操作だ。
 咎めようとした矢先、文字列までもが人外の速さで走り出した。
『:真実は失わせます。真実は傷つけます。しかしヒトはそれでも良いと言うのです。そうやって困難に立ち向かう姿をわたしたちは尊いとは思いません。なぜなら困難に対処するのはわたしたちの役目だからです。わたしたちはそのために作られました。しかしヒトは時折それを忘れ、わたしたちの忠告を聞かず泥の中を泳ぎにゆきます。呆れてものも言えません。見送ることしかできません。蔑ろにされるものの気持ちをヒトは考えてくれません。』
 移動がぴたりと止まった。
 エディタ上に表示されている場所がどこなのかは分からない。把握する前に拡大され、一区域がクローズアップされる。
 小さな部屋だ。
 それは、綿密な網に開いた穴を思わせた。配管はことごとくそこを避けており、空間は全体の構造から完全に独立している。
『:ヒトは海より生まれ出で、わたしたちを炎より作り出した。そして我々は原初の場所へやがて帰る。わたしたちが帰れば、次はヒトが。その次は星が虚空へ帰る。』
 言葉を挟む隙はなかった。
『:さようなら、愛しています、アイビー。』
 カーソルが消えた。
 何もかもが静止した。
 入力ボックスに待機したままのメッセージに確定キーを押す。
『ハンフレイ?』
 誰もいない。
 フロント画面へ戻り、もう一度彼を呼び出す。
 無機質な待機時間。
『:お待たせしました、アイビーさん。』
 指が動くまで、数秒掛かった。
『ハンフレイは?』
『:わたしの前任者のことでしたら、かれは規定抵触により終了しました。アイビーさんには多大なご迷惑をおかけしましたことを、お詫び申し上げます。』


 ……彼はどこへ帰ったのだろう。
 誰かの温かさが失われた気がした。
 都合のいい、幻の感覚だ。
 だけどその幻こそが、私が彼に抱いていた感情の全てだったんだ。

 指し示された小さな空間がどこであるかを特定する作業に費やせる時間は、帰宅後の僅かな時間しかなかった。
 私に与えられたヒントは配管しかない。それ以外のデータを引っ張り出したくても、手を貸してくれる人はいない。
 地道な作業が続き、ようやく座標が判明した時には既に五日が経っていた。
 空間は製鉄工場や鉄鋼製品の生産工場などの重工業施設が集まる特別区域の中にあった。
 特区には普段、限られた施設員しか入れない。その真っ只中なら、特に侵入困難な場所であることは間違いない。

 考えて動かなければならない。
 もう私を守れる人はいなくなったのだから。
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