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第一章
狐坂の怪 1
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京都のお盆には「五山の送り火」といって、京都市街地を取り囲む山々に文字や記号をかたどった火が点される行事がある。
有名な東山の「大文字」に始まり、「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」と順番に、各山約三十分ずつ炎が燃え上がるのである。
このうち、「妙法」があるのは京都市街の北のはずれだ。
その一帯は宝ヶ池公園と言って、宝ヶ池という江戸時代に造られた巨大なため池を中心に、緑豊かな森に包まれている。
ちなみに公園の北には京都議定書が採択されたことで有名な国立京都国際会館があるが、この建物は要塞のような姿をしているので、水面に映る様はまるでSFのワンシーンのようだ。
さて。それはさておき、「狐坂」は京都の市街地側から宝ヶ池に上っていく坂道の名称であった。
「この辺りに来るのは久しぶりだなあ」
鴨川の東の支流である高野川を渡り、北山通りを西へ走る車の助手席に座る恭は、眠たそうな目をこすりながら呟いた。
「北山地区はお洒落エリアだし、俺たちには用がないからじゃないか?」
冗談交じりに言う運転席の与一は、眠気覚ましにガムを噛んでいる。メントールの香りが車内に広がり、スピーカーからは邦ロックがガンガンと鳴り響いていた。
これは与一の実家の車だが、選曲はこいつで間違いないだろう。少しでも怖さを紛らわすための彼なりの工夫らしい。
一方、彼の式神の小鬼はというと、恭の膝の上で音楽に合わせてノリノリでヘッドバンギングしている。
「おい、俺の膝の上で踊るな。どけ」
恭がすごむと、小鬼は不服そうに「べっ」と舌を出して後部座席に消えた。
恭はやれやれと窓枠に肘をのせて頬杖をつき、点々と続く街灯に照らされた通りに目を向ける。酔っぱらった大学生らしき集団とすれ違った。新入生歓迎会でも開いていたのだろうか。
「しかし、狐坂とは、また定番の心霊スポットだよね。高架橋の新しい車道ができてから、怪異はかなり減ったはずだけれど」
カーナビの指示に従って右折しながら、与一が不意に思い出したように言った。
「ああ。旧道は現在の歩行者・自転車道の場所にあったんだっけ? ヘアピンカーブで事故が起こることもあったとか」
「そうそう。当時はしょっちゅう狐坂の妖怪祓いの依頼が来てたらしいぜ」
「まあ、この辺りには心霊スポットの深泥池もあるしな。平安京の結界からも外れているし、怪異が集まりやすいんだろう」
「さーてと。着いた。今回はどんな妖怪かね?」
与一は車のスピードを緩めると、路肩に停車させ、窓から顔を出した。
彼らの正面には二本の道が見える。左の歩行者・自転車道は林の陰に沈み、右の車道は高架橋へと向かっていた。どちらも人気はない。
「……どっちから攻める?」
与一は窓から顔を引っ込めて恭に尋ねた。
「どっちでもいいぜ。お前に任せる」
そう返事をした恭が印を結んで短く呪を唱えると、どこからともなく三尾の狐が彼の膝の上に姿を現した。与一は恭に羨望の眼差しを向ける。
「ひゅー。さすが」
「……早く行こうぜ。夜明け前に片付けないと、怪異が起こらない可能性がある」
「分かってるよ。というかお前、あんなに渋ってたくせに、すげーやる気だな?」
「別に。俺は報酬が欲しいだけだよ。むしろお前の方がここに来てびびり始めてるんじゃねーのか?」
「び、びびってねーし!」
与一の声は明らかに上ずっていた。恭は「はあ」とため息をつく。
「お前さあ、陰陽師なのに妖怪を怖がっててどうすんだよ」
「なっ!? いや、それを言うならお前だって、いつも怨霊から逃げ回ってるじゃねーか!」
「俺が怨霊を避けてるのは怖いからじゃねーよ。下手に関わり合うとこっちのメンタルが参ってしまうからだ。普通の人がチンピラとの喧嘩を避けるのと変わらないよ」
「う、う、うるさい! み、右だ! 新道の方に行くぞ!」
「はいはい」
アクセルをふかし、車は勢いよく坂を駆け上がり始めた。
道路がだんだんと高くなり、右手に広がるのは市街地の夜景である。
高架橋の先は左に緩やかなカーブを描き、鬱蒼とした林間に埋もれていた。
「待て。スピードを落としてくれ。妖気が強まってきた」
「え? そうか?」
恭が険しい表情で言うと、与一は驚いた様子で周囲をきょろきょろと見回した。
その時である。
「うわあああ!」
カーブの陰から大型トラックが姿を現し、与一は悲鳴を上げた。トラックはどう見てもこちらの車線を走ってきている。逆走車だ。
「ぶ、ぶつかる!」
「落ち着け!」
パニックになって急ハンドルを切る与一の手を押さえ、恭は右足を伸ばして思い切りブレーキを踏んだ。
「なんで!?」
「よく見ろ!」
恭は迫りくるトラックを睨みつけて叫んだ。衝突する寸前で、トラックは夜闇に溶けるようにフッと霧散する。
「ま、幻……?」
「ああ」
恭は短く答えると、ドアを開けて路上へと飛び出し、すぐさまトラックがやって来た方に視線を走らせた。そこには一匹の狐が怪しげに目を光らせて座り、こちらを見つめている。狐は踵を返すと高架橋からふわりと身を躍らせ、音もなく森の中に消えた。
「何だあれ……。妖狐?」
「……『野狐』だな。尻尾が一本だったから、死んで間もない狐の霊だろう。妖狐は妖狐でも、俺の式神とは種類が違う」
有名な東山の「大文字」に始まり、「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」と順番に、各山約三十分ずつ炎が燃え上がるのである。
このうち、「妙法」があるのは京都市街の北のはずれだ。
その一帯は宝ヶ池公園と言って、宝ヶ池という江戸時代に造られた巨大なため池を中心に、緑豊かな森に包まれている。
ちなみに公園の北には京都議定書が採択されたことで有名な国立京都国際会館があるが、この建物は要塞のような姿をしているので、水面に映る様はまるでSFのワンシーンのようだ。
さて。それはさておき、「狐坂」は京都の市街地側から宝ヶ池に上っていく坂道の名称であった。
「この辺りに来るのは久しぶりだなあ」
鴨川の東の支流である高野川を渡り、北山通りを西へ走る車の助手席に座る恭は、眠たそうな目をこすりながら呟いた。
「北山地区はお洒落エリアだし、俺たちには用がないからじゃないか?」
冗談交じりに言う運転席の与一は、眠気覚ましにガムを噛んでいる。メントールの香りが車内に広がり、スピーカーからは邦ロックがガンガンと鳴り響いていた。
これは与一の実家の車だが、選曲はこいつで間違いないだろう。少しでも怖さを紛らわすための彼なりの工夫らしい。
一方、彼の式神の小鬼はというと、恭の膝の上で音楽に合わせてノリノリでヘッドバンギングしている。
「おい、俺の膝の上で踊るな。どけ」
恭がすごむと、小鬼は不服そうに「べっ」と舌を出して後部座席に消えた。
恭はやれやれと窓枠に肘をのせて頬杖をつき、点々と続く街灯に照らされた通りに目を向ける。酔っぱらった大学生らしき集団とすれ違った。新入生歓迎会でも開いていたのだろうか。
「しかし、狐坂とは、また定番の心霊スポットだよね。高架橋の新しい車道ができてから、怪異はかなり減ったはずだけれど」
カーナビの指示に従って右折しながら、与一が不意に思い出したように言った。
「ああ。旧道は現在の歩行者・自転車道の場所にあったんだっけ? ヘアピンカーブで事故が起こることもあったとか」
「そうそう。当時はしょっちゅう狐坂の妖怪祓いの依頼が来てたらしいぜ」
「まあ、この辺りには心霊スポットの深泥池もあるしな。平安京の結界からも外れているし、怪異が集まりやすいんだろう」
「さーてと。着いた。今回はどんな妖怪かね?」
与一は車のスピードを緩めると、路肩に停車させ、窓から顔を出した。
彼らの正面には二本の道が見える。左の歩行者・自転車道は林の陰に沈み、右の車道は高架橋へと向かっていた。どちらも人気はない。
「……どっちから攻める?」
与一は窓から顔を引っ込めて恭に尋ねた。
「どっちでもいいぜ。お前に任せる」
そう返事をした恭が印を結んで短く呪を唱えると、どこからともなく三尾の狐が彼の膝の上に姿を現した。与一は恭に羨望の眼差しを向ける。
「ひゅー。さすが」
「……早く行こうぜ。夜明け前に片付けないと、怪異が起こらない可能性がある」
「分かってるよ。というかお前、あんなに渋ってたくせに、すげーやる気だな?」
「別に。俺は報酬が欲しいだけだよ。むしろお前の方がここに来てびびり始めてるんじゃねーのか?」
「び、びびってねーし!」
与一の声は明らかに上ずっていた。恭は「はあ」とため息をつく。
「お前さあ、陰陽師なのに妖怪を怖がっててどうすんだよ」
「なっ!? いや、それを言うならお前だって、いつも怨霊から逃げ回ってるじゃねーか!」
「俺が怨霊を避けてるのは怖いからじゃねーよ。下手に関わり合うとこっちのメンタルが参ってしまうからだ。普通の人がチンピラとの喧嘩を避けるのと変わらないよ」
「う、う、うるさい! み、右だ! 新道の方に行くぞ!」
「はいはい」
アクセルをふかし、車は勢いよく坂を駆け上がり始めた。
道路がだんだんと高くなり、右手に広がるのは市街地の夜景である。
高架橋の先は左に緩やかなカーブを描き、鬱蒼とした林間に埋もれていた。
「待て。スピードを落としてくれ。妖気が強まってきた」
「え? そうか?」
恭が険しい表情で言うと、与一は驚いた様子で周囲をきょろきょろと見回した。
その時である。
「うわあああ!」
カーブの陰から大型トラックが姿を現し、与一は悲鳴を上げた。トラックはどう見てもこちらの車線を走ってきている。逆走車だ。
「ぶ、ぶつかる!」
「落ち着け!」
パニックになって急ハンドルを切る与一の手を押さえ、恭は右足を伸ばして思い切りブレーキを踏んだ。
「なんで!?」
「よく見ろ!」
恭は迫りくるトラックを睨みつけて叫んだ。衝突する寸前で、トラックは夜闇に溶けるようにフッと霧散する。
「ま、幻……?」
「ああ」
恭は短く答えると、ドアを開けて路上へと飛び出し、すぐさまトラックがやって来た方に視線を走らせた。そこには一匹の狐が怪しげに目を光らせて座り、こちらを見つめている。狐は踵を返すと高架橋からふわりと身を躍らせ、音もなく森の中に消えた。
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