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第一章
狐坂の怪 2
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「そうなのか……。あー、怖かった。まだ心臓がバクバクしてる」
与一はハンドルを握ったまま震え声を漏らした。
「危なかったな。もう少しで高架橋から飛び出すところだったぞ」
恭はボンネットを指先でコンコンと叩いて言った。今や車は完全に反対車線に入り、ガードレールの一歩手前で止まっていたのだ。
「とりあえず対向車が来る前にここから離れよう。このままじゃ危険だ」
恭は車に乗り込んで与一に声をかけた。与一は青ざめた顔でぎこちなく頷く。
――狐坂を上り切り、宝ヶ池トンネル前の直線道路に入ってから、二人は車を路肩に止めてやっと息をついた。
「怪異の原因は狐の霊だったのか……。意外だったな。こんなところに狐がいるなんて」
与一はぐったりと背もたれに身を沈めながら呟いた。出かける前の威勢はどこへやらである。
「野生動物は俺たちが思っているより身近にいるもんだよ」
「へえ……。そういえば恭は動物好きだったな」
「ああ。動物たちは純粋だからな。癒し効果がある」
「癒し効果ねえ……。でも、さっきの奴は俺たちを殺そうとしてきたぞ?」
与一は眉間に皺を寄せて不満げに言い返した。
「そうだな……。でも、あいつからは怨念が一切感じられなかった。きっと俺たちを襲った理由があるはずだ」
「へーん、そうかい。怨念があるかどうかなんて、俺には全く分かんなかったけど」
与一は唇を尖らせてブツブツと呟く。恭は苦笑した。
「そんなことは分からない方がいいんだよ。――それじゃあ俺は、歩行者・自転車道から狐の霊の後を追ってみるぜ」
「ちょ、ちょっと待て! どうしたんだ恭、今回はずいぶんと積極的だな!?」
懐中電灯を手に早くもドアを開けようとする恭を、与一が慌てて呼び止めた。
「ん? ああ。あの狐が少し気にかかってね。さっき去り際に、あいつに呼ばれたような気がしたんだ」
「妖狐が恭を呼んだって? そんな馬鹿な」
「ともかく俺はそう感じたんだよ。長年妖狐と接してきた経験があるからな」
恭は肩にのった三尾の狐にちらりと目を向けながら言う。
「うーん……。そりゃあ、恭ほど妖狐の扱いに慣れた奴はそうそういないと思うけどさー。でも、あの狐は危険だぜ? あんまり深追いしすぎるとやばいんじゃないのか?」
「お? どうした? 怖いのか?」
「こ、怖くねーよ!」
恭がニヤニヤと笑いながら車から出ると、ムキになった与一も彼の後を追って外に飛び出して来た。
「よし。じゃあ行くぞ。他の怨霊に邪魔されないように護符を出しておけ」
「お、おう……」
そうして二人は五芒星が描かれたお札を手に、車道の脇の小道へと足を踏み入れたのだった。
自転車・歩行者道は車道とは全く雰囲気が違った。
まず、とにかく薄暗い。道の両側に木々が迫り、梢が時折ざわざわと音を立てている。道は舗装されていて歩きやすいのだが、斜面はかなり急である。ここを自転車で上がるのは相当しんどいはずだ。
少し下ると、二人の前に件のヘアピンカーブが現れた。
「ああ。これは確かに事故が起こっても不思議じゃないなあ……」
恭は思わず呟いた。坂道でスピードのついた車がここを曲がるのは簡単ではなかっただろう。
「――で、俺たちが事故りかけた場所はちょうどあの辺りか」
振り返って高架橋を見上げる。下から仰ぐと思っていた以上に高く感じられた。
あそこから森に向かって飛んだとすると、妖狐は自分たちが今いる場所の近くに降り立ったのかもしれない……。もっとも、霊体に物理法則は適用されないため、必ずしも放物線を描いて落ちてきたとは限らないが……。
「うわ、蚊がめっちゃいる。虫よけスプレー持って来れば良かった」
与一の悲痛な声が恭の耳朶を打つ。振り返ると、与一は奇妙な踊りでも踊っているかのように必死に手足をばたつかせていた。
小鬼も張り切って主人に群がる蚊を叩き落とそうとしているが、その手には実体がないのでもちろん効果はない。恭は呆れ顔になった。
「何やってんだ。行くぞ。狐はおそらくここから森に入って行ったはずだ」
「えーっ!? 道を外れて森に分け入るのか!? 嫌だよ!」
「三尾、先導を頼む」
「人の話聞いてるか!?」
恭は与一に構わず、三尾の狐についてずんずんと暗い森の中に入って行く。
「全く……。ひきこもりのくせに、妙なところだけ行動的なんだよなあ」
与一はぶつくさと文句を口にしつつ恭の後を追った。
恭の指示を受けた三尾の狐は、時折地面を嗅ぎながら木立の中を迷いなく進む。恭は油断なく懐中電灯で周囲を照らしながら、しっとりと湿った腐葉土を踏みしめて歩いた。
明かりに驚いて時折羽虫が舞う。途中で後ろから「蜘蛛の巣に引っかかった!」と騒ぐ声が聞こえたが、恭は無視した。
――やがて三尾の狐は歩調を緩め、しきりに耳を動かして辺りを探索し始める。
「この近くか……。確かに妖気が強くなっている」
「左様ですか。俺にはぜんっぜん分かんねーけど」
追いついた与一の言葉には不機嫌さが滲んでいた。恭は構わず斜面に光を当て、何か手掛かりになりそうなものがないかを探す。その時――
「あれだ!」
「ん?」
恭が指さした先に与一が目を向ける。そこには地面にぽっかりと空いた丸い穴があった。
与一はハンドルを握ったまま震え声を漏らした。
「危なかったな。もう少しで高架橋から飛び出すところだったぞ」
恭はボンネットを指先でコンコンと叩いて言った。今や車は完全に反対車線に入り、ガードレールの一歩手前で止まっていたのだ。
「とりあえず対向車が来る前にここから離れよう。このままじゃ危険だ」
恭は車に乗り込んで与一に声をかけた。与一は青ざめた顔でぎこちなく頷く。
――狐坂を上り切り、宝ヶ池トンネル前の直線道路に入ってから、二人は車を路肩に止めてやっと息をついた。
「怪異の原因は狐の霊だったのか……。意外だったな。こんなところに狐がいるなんて」
与一はぐったりと背もたれに身を沈めながら呟いた。出かける前の威勢はどこへやらである。
「野生動物は俺たちが思っているより身近にいるもんだよ」
「へえ……。そういえば恭は動物好きだったな」
「ああ。動物たちは純粋だからな。癒し効果がある」
「癒し効果ねえ……。でも、さっきの奴は俺たちを殺そうとしてきたぞ?」
与一は眉間に皺を寄せて不満げに言い返した。
「そうだな……。でも、あいつからは怨念が一切感じられなかった。きっと俺たちを襲った理由があるはずだ」
「へーん、そうかい。怨念があるかどうかなんて、俺には全く分かんなかったけど」
与一は唇を尖らせてブツブツと呟く。恭は苦笑した。
「そんなことは分からない方がいいんだよ。――それじゃあ俺は、歩行者・自転車道から狐の霊の後を追ってみるぜ」
「ちょ、ちょっと待て! どうしたんだ恭、今回はずいぶんと積極的だな!?」
懐中電灯を手に早くもドアを開けようとする恭を、与一が慌てて呼び止めた。
「ん? ああ。あの狐が少し気にかかってね。さっき去り際に、あいつに呼ばれたような気がしたんだ」
「妖狐が恭を呼んだって? そんな馬鹿な」
「ともかく俺はそう感じたんだよ。長年妖狐と接してきた経験があるからな」
恭は肩にのった三尾の狐にちらりと目を向けながら言う。
「うーん……。そりゃあ、恭ほど妖狐の扱いに慣れた奴はそうそういないと思うけどさー。でも、あの狐は危険だぜ? あんまり深追いしすぎるとやばいんじゃないのか?」
「お? どうした? 怖いのか?」
「こ、怖くねーよ!」
恭がニヤニヤと笑いながら車から出ると、ムキになった与一も彼の後を追って外に飛び出して来た。
「よし。じゃあ行くぞ。他の怨霊に邪魔されないように護符を出しておけ」
「お、おう……」
そうして二人は五芒星が描かれたお札を手に、車道の脇の小道へと足を踏み入れたのだった。
自転車・歩行者道は車道とは全く雰囲気が違った。
まず、とにかく薄暗い。道の両側に木々が迫り、梢が時折ざわざわと音を立てている。道は舗装されていて歩きやすいのだが、斜面はかなり急である。ここを自転車で上がるのは相当しんどいはずだ。
少し下ると、二人の前に件のヘアピンカーブが現れた。
「ああ。これは確かに事故が起こっても不思議じゃないなあ……」
恭は思わず呟いた。坂道でスピードのついた車がここを曲がるのは簡単ではなかっただろう。
「――で、俺たちが事故りかけた場所はちょうどあの辺りか」
振り返って高架橋を見上げる。下から仰ぐと思っていた以上に高く感じられた。
あそこから森に向かって飛んだとすると、妖狐は自分たちが今いる場所の近くに降り立ったのかもしれない……。もっとも、霊体に物理法則は適用されないため、必ずしも放物線を描いて落ちてきたとは限らないが……。
「うわ、蚊がめっちゃいる。虫よけスプレー持って来れば良かった」
与一の悲痛な声が恭の耳朶を打つ。振り返ると、与一は奇妙な踊りでも踊っているかのように必死に手足をばたつかせていた。
小鬼も張り切って主人に群がる蚊を叩き落とそうとしているが、その手には実体がないのでもちろん効果はない。恭は呆れ顔になった。
「何やってんだ。行くぞ。狐はおそらくここから森に入って行ったはずだ」
「えーっ!? 道を外れて森に分け入るのか!? 嫌だよ!」
「三尾、先導を頼む」
「人の話聞いてるか!?」
恭は与一に構わず、三尾の狐についてずんずんと暗い森の中に入って行く。
「全く……。ひきこもりのくせに、妙なところだけ行動的なんだよなあ」
与一はぶつくさと文句を口にしつつ恭の後を追った。
恭の指示を受けた三尾の狐は、時折地面を嗅ぎながら木立の中を迷いなく進む。恭は油断なく懐中電灯で周囲を照らしながら、しっとりと湿った腐葉土を踏みしめて歩いた。
明かりに驚いて時折羽虫が舞う。途中で後ろから「蜘蛛の巣に引っかかった!」と騒ぐ声が聞こえたが、恭は無視した。
――やがて三尾の狐は歩調を緩め、しきりに耳を動かして辺りを探索し始める。
「この近くか……。確かに妖気が強くなっている」
「左様ですか。俺にはぜんっぜん分かんねーけど」
追いついた与一の言葉には不機嫌さが滲んでいた。恭は構わず斜面に光を当て、何か手掛かりになりそうなものがないかを探す。その時――
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