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第五章

雷獣の怪 1

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 チャリンチャリン。

 ――と、音を立て、机の上に転がったのは数枚の小銭だった。

 椅子に座った恭は手にした財布を上下に振り、中をのぞき込んで何も入っていないことを確認すると、無表情になってそれを机の上に置く。

 それから頬杖をついて小銭を睨みつけるや、おもむろに首を傾げ、天井を仰ぎ、ため息をつき、前髪をかき上げ、唇を尖らせ、机の上に突っ伏した。

「畜生。もう金が尽きやがった……」

 恨みのこもった声が漏れる。

 卓上のカレンダーは八月になっていた。――祇園祭で影の犬に遭遇してから拍子抜けするほど何事も起こらず、すでに半月以上が過ぎている。

「うう。やっぱり妖怪祓いと日雇いバイトだけではカツカツだな……」

 顔を腕の間に沈めたままブツブツと呟いた。夏は怪異の起きやすい季節だが、京都では厄払いの祭りがたくさん開催されるので、他の季節と比べて目に見えて妖怪が増えるわけではない。

 むしろ、この時期は連日の「危険な暑さ」のせいで人間がクーラーのきいた部屋に閉じこもってしまうため、怪異の報告が減るくらいなのだ。結果、恭は陰陽師の仕事を得られず、貴重な収入源を失っているのであった。

 早く与一の奴が依頼を取ってきてくれたらいいんだが……。

 額を腕に押し付けて小さくため息をつく。こんなことを願うのは癪だが、こうなったらあいつに期待するしかない。

 というのも、与一は最近、鵜の目鷹の目で依頼を見つけようと奔走していたからであった。

 その動機は単純そのもの。与一は晴明賞を手に入れたくて仕方がないのである。

 恭と与一はコンビで陰陽師業を行っているので、受賞は連名になるだろうと踏んでいるらしい。

 いや、もし連名にならなくても、結局与一が恭の授賞式に代理で出席し、受賞後も恭の渉外担当を継続することになるのは想像に難くなかった。

 すなわち、幸か不幸か、恭の非社交的な態度が与一の野心に火をつけてしまったようなのである。晴明賞を受賞した暁には、与一は恭のマネージャーとして荒稼ぎしようと目論んでいるに違いない。

 ――ぐう、と恭の腹が鳴った。

 恭は呻きながら立ち上がり、蛇口から水を汲んで一気に飲み干す。

 ただの水でも、胃に何も入っていないよりはましだ……。

 その時、ピンポーン! と、玄関チャイムが高らかに鳴り響いた。

「おーい! 恭! でかい依頼を見つけてきたぜ! 開けろ!」

 興奮した声にドンドンとノックが重なる。

「うるさい! 今開けるから落ち着けっ!」

 恭は尖った声で言い返した。しかし、その言葉とは裏腹に、恭の口元には安堵の笑みが浮かんでいる。

 良かった。これで今月分の家賃が払える……。

 恭がドアを押し開けると、与一は隙間から体を押し込むように中に入ってきた。

「いやーあっつー。蒸し焼きになるかと思ったー」

 与一はサンダルを乱雑に脱ぎ捨てて部屋に上がり込むなり、一目散に扇風機に駆け寄ってその正面に座り込む。

「あー涼しい……。京都の夏の暑さは異常すぎるぜ。全く……」

「おい。何しに来たんだ、おめーは」

 小鬼と一緒に風に当たって至福の表情を浮かべている与一を見て、恭は思わず苦笑いを浮かべた。

「ああ、すまん。ちょっと涼ませてくれよ。今日は俺、めちゃくちゃ頑張ったんだから」

「へえ。その様子だと、どこか行ってたのか?」

「行ってたも何も。あっちこっち駆け回って、怪異の目撃情報がないかを調べてたんだよ。そしたら大当たり。古民家についた妖怪を祓ってほしいって人を見つけたんだ」

「ほう?」

「最近こっちに引っ越してきた中年の夫婦でね。家の庭木に雷が落ちてから、その焼け焦げた幹の上に奇妙な獣の影が見えるようになったんだって。しかも夜な夜な天井裏から物音がするらしくてさ。電話でその人たちに話を聞いたら、家が『雷獣』に憑かれたんじゃないかって言ってたよ」

「なるほど。雷獣……か。雷とともに地上に落ちてくる妖怪と伝えられているけど、実物を見たことはないな」

「でも、祓えるだろ? 名前からして動物妖怪みたいだし!」

 与一は恭を振り返って屈託なく笑う。しかし、恭は呆れたように肩をすくめた。

「あのな。動物妖怪だって、俺は絶対に祓えるわけじゃねえよ? 例えば神に匹敵する力を持った幻獣――竜とか、麒麟とかはさすがに無理だからな?」

「しかもなんと! 今回の依頼人は資産家なんだよ。高額報酬が期待できるぞ!」

「おい。人の話聞いてるか?」

「これで伝説の雷獣を祓ったとなれば、俺たちの評判もうなぎ登り……。そのまま晴明賞までまっしぐらだ!」

「おーい。まだ祓えると決まったわけじゃねえぞ? 捕らぬ狸の皮算用ってことわざ知ってるか?」

「そんなこと言って、いつも余裕で祓っちまうんじゃねーか。恭なら大丈夫だって!」

「ちぇっ。買いかぶられたもんだな」

 恭は嘆息しながら耳の後ろをかく。

「――とにかく、現場に行ってその妖怪を見てみないことには何とも言えねーよ」

「よし! じゃあ、早速今から行こうぜ!」

 与一が意気揚々と指を鳴らしたので、恭は信じられないという表情で目を見開いた。

「は!? 冗談じゃねえ。今が一番暑い時間帯じゃねえか。俺は三十五度越えの屋外なんかに出たら、すぐにぶっ倒れる自信があるぞ!?」

「そんなこと言ってるから、お前はいつまで経ってもひきこもりなんだよ!」
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