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看護婦『鮫島昭子』
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夕方、周明氏が八畳敷きの病室の中央で座禅を組んでいる。
ドアーを叩く音が。
「うん? どうぞ」
ドアーが静かに開き、中年の看護婦(鮫島昭子・東病棟担当)が顔を出す。
「失礼します」
看護婦は周明氏の病室に入り、丁寧に挨拶をする。
「東病棟を受け持つ 鮫島昭子と申します。宜しくお願いします」
小ぶりながら凛とした中々の美人である。
「大川周明と申します。宜しくお願いします」
「お名前は存知あげております。裁判所で東条さんの頭を叩いた・・・」
「ああ、あれは公判中、東条くんが居眠りをしていたものですから」
鮫島看護婦は驚いて、
「ええ! そうだったんですか? 新聞にはそうは書いては有りませんでしたよ」
「どう書いて有りました」
「発狂の思想家、A級戦犯大川周明。東条の頭を叩く!」
「発狂ですか。発狂したからここに連れて来られたんでしょうな。ハハハ」
「でも、国民は誰も先生を発狂したとは思っていませんよ。私はこの記事を見て本当に戦争が終わったと思いました。戦争なんて・・・」
鮫島看護婦は歯をくいしばり、涙を堪える。
周明氏は鮫島看護婦を見て、
「あなたはピアノがお上手ですね。あれは、ショパンですか」
「あら恥ずかしい。先生は音楽に興味がお有りですか?」
「うん? いや、まあ」
「私、子供の頃、父の仕事の関係でポーランドに住んでいた事があるんです。そこで母にバレーとピアノを習わされて」
「ポーランド!?」
「ご存知ですか?」
「え? まあ、それは・・・。ご主人、硫黄島で戦死されたんですって?」
「あら、畑 婦長が言ったんですか? 何でも喋ってしまうんだから」
「なんと酷(ヒド)い所に配属されたんでしょうね」
鮫島看護婦は俯いて寂しそうに、
「栗林さんの下で副参謀職をやらせて頂いてた様です。全滅だったらしいです。仕方がないですよ。主人だけじゃないし。あ、先生はお風呂とお食事、どちらを先にしますか?」
「え? この病院では決まりは無いんですか?」
「そうですねえ、病院ですから少しの拘束は有りますけれど、東棟はその辺は別に」
「そう云えば、畑さんはその辺の事は言ってなかったなあ。あ、それじゃ私は風呂が先・・・」
「はい。じゃ、ご案内します」
「え!? 今ですか」
「順番が有るので。あ、それから入浴時間は十分でお願いします」
「十分?」
「食事の用意も有りますし、お風呂場で亡くなる方も居オるんです」
「亡くなる?」
「自殺です。神経が衰弱してる患者さんが多いので。表面で楽しくやっていても、一人に成ると突然自分の世界に入る方が居るんです。だからお風呂は必ず二人で入ってもらいます」
「二人?」
「ご案内します。どうぞ、こちらえ。寝巻きはお風呂場に用意してあります」
「え? あ、はい」
焦る周明氏は鮫島看護婦の後に付いていそいそと部屋を出て行く。
長い廊下の右奥に「風呂」と書いた札が鴨居に挿してある。
入り口に備え付けの椅子が一つ。
「こちらです」
鮫島看護婦は曇りガラスの引き戸を開ける。
スノコ板の床の隅に二つの籠が。
その中に着替えが各一着ずつ置いてある。
一つの籠の中には、周明氏愛用の『水色のパジャマ』が入っている。
周明氏は驚いて、
「あッ、これは!」
「ああ、佐藤が用意したのでしょう」
「随分手際が良い」
「ここは精神病院ですから。では、ごゆっくり。時間に成りましたらお知らせします」
鮫島看護婦はガラス戸を静かに閉める。
風呂の入り口に備えた椅子に座り、文庫本を取り出し読み始める鮫島看護婦。
つづく
ドアーを叩く音が。
「うん? どうぞ」
ドアーが静かに開き、中年の看護婦(鮫島昭子・東病棟担当)が顔を出す。
「失礼します」
看護婦は周明氏の病室に入り、丁寧に挨拶をする。
「東病棟を受け持つ 鮫島昭子と申します。宜しくお願いします」
小ぶりながら凛とした中々の美人である。
「大川周明と申します。宜しくお願いします」
「お名前は存知あげております。裁判所で東条さんの頭を叩いた・・・」
「ああ、あれは公判中、東条くんが居眠りをしていたものですから」
鮫島看護婦は驚いて、
「ええ! そうだったんですか? 新聞にはそうは書いては有りませんでしたよ」
「どう書いて有りました」
「発狂の思想家、A級戦犯大川周明。東条の頭を叩く!」
「発狂ですか。発狂したからここに連れて来られたんでしょうな。ハハハ」
「でも、国民は誰も先生を発狂したとは思っていませんよ。私はこの記事を見て本当に戦争が終わったと思いました。戦争なんて・・・」
鮫島看護婦は歯をくいしばり、涙を堪える。
周明氏は鮫島看護婦を見て、
「あなたはピアノがお上手ですね。あれは、ショパンですか」
「あら恥ずかしい。先生は音楽に興味がお有りですか?」
「うん? いや、まあ」
「私、子供の頃、父の仕事の関係でポーランドに住んでいた事があるんです。そこで母にバレーとピアノを習わされて」
「ポーランド!?」
「ご存知ですか?」
「え? まあ、それは・・・。ご主人、硫黄島で戦死されたんですって?」
「あら、畑 婦長が言ったんですか? 何でも喋ってしまうんだから」
「なんと酷(ヒド)い所に配属されたんでしょうね」
鮫島看護婦は俯いて寂しそうに、
「栗林さんの下で副参謀職をやらせて頂いてた様です。全滅だったらしいです。仕方がないですよ。主人だけじゃないし。あ、先生はお風呂とお食事、どちらを先にしますか?」
「え? この病院では決まりは無いんですか?」
「そうですねえ、病院ですから少しの拘束は有りますけれど、東棟はその辺は別に」
「そう云えば、畑さんはその辺の事は言ってなかったなあ。あ、それじゃ私は風呂が先・・・」
「はい。じゃ、ご案内します」
「え!? 今ですか」
「順番が有るので。あ、それから入浴時間は十分でお願いします」
「十分?」
「食事の用意も有りますし、お風呂場で亡くなる方も居オるんです」
「亡くなる?」
「自殺です。神経が衰弱してる患者さんが多いので。表面で楽しくやっていても、一人に成ると突然自分の世界に入る方が居るんです。だからお風呂は必ず二人で入ってもらいます」
「二人?」
「ご案内します。どうぞ、こちらえ。寝巻きはお風呂場に用意してあります」
「え? あ、はい」
焦る周明氏は鮫島看護婦の後に付いていそいそと部屋を出て行く。
長い廊下の右奥に「風呂」と書いた札が鴨居に挿してある。
入り口に備え付けの椅子が一つ。
「こちらです」
鮫島看護婦は曇りガラスの引き戸を開ける。
スノコ板の床の隅に二つの籠が。
その中に着替えが各一着ずつ置いてある。
一つの籠の中には、周明氏愛用の『水色のパジャマ』が入っている。
周明氏は驚いて、
「あッ、これは!」
「ああ、佐藤が用意したのでしょう」
「随分手際が良い」
「ここは精神病院ですから。では、ごゆっくり。時間に成りましたらお知らせします」
鮫島看護婦はガラス戸を静かに閉める。
風呂の入り口に備えた椅子に座り、文庫本を取り出し読み始める鮫島看護婦。
つづく
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