幽 閉(大川周明)

具流次郎

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分裂病患者『杉浦誠一・104号室』

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 朝倉看護婦が岡田(106号室)の病室を出て、102号室を覗く。
周明氏と肥田、堀田の三人を見てドアーを開ける。

 「あら、皆さんお揃いで。そろそろお昼ですよ」
 「ええ! もう、そんな時間ですか? で、今日のメニューは?」
  「コロッケを作ってみたんです」
 「コロッケ?! 良いですね~。で、デザートは?」
 「プディングです。ちょっと甘みを抑えた」
 「朝倉さんを奥さんに持った男は幸せだなあ。ハハハハ」

周明氏は肥田を見て朝倉看護婦を紹介する。

 「この方は朝倉さんと云って料理も担当している方なんです。彼女は西洋料理の達人ですよ」

肥田は驚いて、

 「西洋料理ッ? 私はスキ焼きぐらいしか食べた事がない」
 「スキ焼きは西洋料理じゃないですよ」
 「そうだッ! 夜はスキ焼きにしましょう」
 「一本付けてくれる?」
 「ええッ! まさか。この病院は旅館ですか?」

朝倉看護婦は強い口調で、

 「冗談じゃないです。早く良くなって出て行ってもらわないと。入りたい患者さんが沢山居るんですから」

肥田は驚いて、

 「そんなに気違い病院に入りたいヤツが居るのか」

朝倉看護婦は肥田の顔を睨み、

 「この病院はそんな患者さんだけではありませんッ!」
 「失礼した。よしッ! 私は隣の開かずの間に住む事に決めた。人間は体力と気合だけでは生きられない。適度な滋養の三位一体で健全な発想が育まれる」
 「それが、有ればあの戦争に勝てたでしょね」
 「おお、まさにその通り。人間に滋養、国に兵力! 飛行機には燃料だ!」
 「その通り。私の思想の根底に流れている物は・・・?」

周明氏は肥田をジッと見詰めて、

 「いや、その三位一体とはちょっと違うな」

三人が笑う。

 突然、廊下に悲鳴が起こる。
畑婦長が慌てた表情で廊下を走って行く。

 「あら? 何かあったのかしら」

朝倉看護婦は急いで102号室を出て行く。

 104号室。
病室のドアー枠に『杉浦誠一』の名札が掛っている。
畑婦長がドアーを開ける。
茶碗が割れて、畳のあちこちに血が飛び散っている。
腕に破いたシーツを巻いて、蒲団の中で臥せっている男。
『杉浦誠一』である。
杉浦は高齢の「精神分裂病」である。
傍(カタワ)らに、血の付いた茶碗の欠片(カケラ)が。

 「杉浦さんッ! どうしました? 大丈夫ですか!」

鮫島看護婦が畑婦長の後を追うように「治療箱」を持って、104号室に入って来る。

 「ダメだ。・・・姉(ネエ)さんを呼んでくれ。僕はもうダメだ」

鮫島看護婦と畑婦長が顔を見合わせる。
朝倉看護婦も遅れて104号室に入って来る。

 「・・・茶碗を割って腕を切ったのね」

鮫島看護婦は急いで治療箱を開け止血、包帯を巻いて行く。
補助する朝倉看護婦。
畑婦長は飛び散った畳の血を拭きとっている。
暫くして西方医師が部屋に入って来る。
西丸医師は杉浦を見て優しく、

 「杉浦さん、どうした・・・」

西丸医師は包帯で厚く巻かれた腕を見る。
畑婦長を見て、

 「ヤッてしまったか」
 「はい」

西丸医師は杉浦をジッと見る。
杉浦は西丸医師を一瞥、天井に目をやり、

 「・・・先生、僕はもうダメです」
 「そうか。もうダメか。どこがダメなんだろうなあ・・・」
 「僕はとうとう飯(メシ)が喉に通らなく成ってしまった」

畑婦長は朝倉看護婦を見て、

 「杉浦さん、昼食は?」
 「オカワリもしました」

畑婦長は怪訝な顔で杉浦を観ている。

 「杉浦さん。死にたく成ったのか」

杉浦は首を縦に振り、

 「・・・先生、姉さんを呼んでくれ。遺言を伝えたい」

杉浦の「姉」は空襲で亡くなり今は居ない。
西丸医師は丁寧にゆっくりと、杉浦の話しを聴いてやる。

 「そうか。分かった。鮫島さん、姉さんに連絡してくれないか。少し、煙突の中を掃除しよう」
 「はい」

鮫島看護婦は部屋を出て行く。

『これは、精神病院内で行う『芝居』である』

西丸医師が杉浦の傍(カタワ)らに座り、

 「姉さんは三鷹に居るんだよね」
 「・・・はい」
 「今日中(キョウジュ)にはここまで来られないかも知れないぞ」
 「そうですか・・・。先生?」
 「うん? どうした・・・」
 「僕は寂しくてやり切れないのだ。僕は何の為に生きているんだろう」

杉浦の記憶の中に、また『孤独の虫』が針を刺す。
畑婦長と朝倉看護婦が杉浦の傍に座り、話しを真剣に聴いている。

 「何の為に生きている?・・・それは、私も分からないな。医師の立場から言うと心臓が動いているから生きている。何の為と云うと、それは哲学的な問題だな」

杉浦は西丸医師を暫く見つめて、

 「僕はこの一ヶ月、誰とも話しをしてない・・・」

杉浦は『鬱状態』である。

 「そうか。今日は私がゆっくり話しを聴いてやろう」
 「わるいねえ」
 「気を使うな。人間は話をしないと、つまらない事を考えてしまうものだ」

杉浦は鉄の格子戸の外を眺めながら、

 「僕の家は三鷹だ」
 「そうだったねえ・・・」
 「僕には息子が八人居る」
 「ほう。八人か」

西丸医師は今日もまた、杉浦の「同じ話し」を聴いてやる。

 「それで?」
 「皆、兵隊に取られた・・・。僕の家は空襲で焼けてしまって今は無い」

杉浦の記憶が一瞬、蘇る。

 「なるほど。でも、それはアンタだけじゃない」
 「それは分っている。だから今、頼れる者は姉と先生だけなんだ。もし、息子達が戻って来ても僕は再会出来ないだろう」

杉浦は枕もとのスケッチブックの上に置いてあるセピア色の写真に眼をやる。
「写真」は家族が楽しそうに写って居る。
杉浦は写真を手に取り、西方医師と畑婦長に見せる。

 「・・・こんな時も在った。七年前の写真だ」

朝倉看護婦がそっと割り込んで写真を覗く。

 「・・・良い写真ですねえ」
 「僕は何の為に一生懸命、絵を描いて来たんだろう。それも、戦争の絵を」

三人は真剣に杉浦の話を聴いている。

 「すべてが夢の中に居るようだ」
 「いや、現実だ。すべてが今に続いている。受け止める勇気も必要だぞ。勇気が無くなると動物は精神が弱る。人間も同じだ。死神が覗くのだ」
 「それは分かっている。僕も旅順の生き残りだ」
 「旅順? アンタは画家ではなかったのか」

杉浦が奇妙な事を言い出す。

 「? 誰が言った」

※この会話は入院当初と変わらない。
西丸医師の返答も変らない。
この後、杉浦は号泣する。
これも当初から変らない。
この104号室は『芝居の部屋』である。

 「先生、家に帰りたい。息子達に会いたい。僕の生還した姿を家族に見せたいんだ」

杉浦の記憶は断片的でバラバラである。 

 「うん? うん」
 「杉浦さん?」
 「うん?」
 「明日、帰りましょう。私も一緒に行きますわ」

杉浦は畑婦長を見て涙ぐみ、

 「・・・そうか」

と、突然、杉浦の顔色が変わり嬉しそうに饒舌(ジョウゼツ)に喋り始める。

 「僕の家は駅前の時計屋でね。杉浦時計店の看板があるんだ。隣が果物屋で前が肉屋なんだ。肉が美味しいんだよ。肉を買ったら果物(クダモノ)を買うんだ。バナナをね。母さんに買ってもらうんだ。それから、皆で食べるんだ。食べながら兵隊達の戦ってる姿を描(カ)くんだ。弾が飛んで来て、皆な死んで行くんだ。怖いんだぞ。可哀そうだぞ~」
 「そうですか。分かりました。明日は皆なと会えますよ」

杉浦は明るく、

 「先生、僕は希望が湧いて来た。早く荷物を纏めなきゃ」
 「そうだな。私も手伝おう」

杉浦は嬉しそうに、

 「ハハハハ。僕は帰れる。明日は帰れるぞッ!」

杉浦の記憶は断片の繋ぎ合わせである。

 「さあ、明日の為に今日は早く寝ましょう」

杉浦は子供のような笑顔を畑婦長に見せ、蒲団を被る。
そして大声で、

 「よ~しッ! 僕は寝るぞー」

 「参 考」
煙突掃除「催眠療法・患者の心身に詰まった物を取り除く治療」
                つづく
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