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忘れえぬ出来事
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「え、えええっ!?な、なんで、、」
清流は何度か瞬きを繰り返すと、目の前の光景に文字通り飛び起きた。
ありえない人影を前に、寝起きでまともに働かない頭であやふやな記憶を手繰るも、何も思い出せない。
「……寝起きに叫ぶなって」
この状況で叫ばない人がいるなら教えてほしい。
叫んだ瞬間に頭の奥が鈍く痛む。
それが二日酔いの痛みだと分かったが構ってなどいられない。
一方の洸は、薄目を開けるもまだ視点がぼんやりとしていた。
窓の外から差し込む光が色素の薄い瞳に反射して、少し眩しそうに眇めると乱れた髪を鬱陶しそうにかき上げている。
その仕草は、寝起きの悪さを霞ませるくらいには色気を含んでいて、清流の心拍数を跳ね上がらせるには十分だった。
「…おはよ」
「お、おはようございます…じゃなくてっ、服着てください!」
「着てるけど」
「バスローブ1枚じゃないですか…っ」
起き上がることもなく、寝た状態のまま一つ大きなあくびをする。
落ち着き払っているというよりも、本気でまだ眠いだけなのかもしれなかった。
一つのベッドの上で向かい合っているという状況が恥ずかしいけれど、自分だけが意識しているように思えて迂闊には動けず、洸が覚醒してくれるのをひたすら待つしかない。
「最初に言っとくけど、何もなかったから心配すんな」
「それはしてないですけど…あの、昨日の記憶があんまりなくて」
美味しいマルゲリータピザを食べたことは覚えている。生ハムと季節の野菜がのった菜園風サラダも美味しかったし、パスタやお肉も。
そんなことをぽつぽつ呟くと、食い物の記憶だけかよ、と呆れたようにぼやかれる。
「あのあと喋りながらソファーで寝たんだよ。しばらくしたら起きるかと思って、風呂入って戻ってきても爆睡してたからベッドに運んだ。そしたら、」
「そしたら?」
「バスローブ掴んで離さなかったんだよ。意外と力強いのな?だからどうしようもなかったわけ」
聞けば聞くほど、なかなかの失態だ。
記憶にはなくともその光景を脳裏に思い浮かべるだけで、穴があったら埋もれたいくらいに恥ずかしい。
「重ね重ね、すみません…」
「何だよ急にしおらしくなって」
洸は体を起こして清流の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「時差もあるし、トラブルもあって疲れたんだろ。気にすんな」
洸はそれだけ言ってベッドから降りると、顔洗って支度しろよと声を掛けてから部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送って一人ベッドの上に残される。頭に残る大きな手の感触に、あとからじわじわと顔が熱くなった。
顔を洗って歯を磨いて、服を着替えて髪を整える。
どれも普段より少しだけ丁寧に。それで昨夜の失態が取り消されるわけではないけれど、恥の上塗りだけは避けたい。
部屋から出ると洸もスーツに着替え終わっていた。
何か食べるかと聞かれたけれど、昨夜食べ過ぎたせいかあまりお腹が空いていない。
「だよな、俺もまだ腹いっぱいだわ。飲み物なら冷蔵庫にあるから好きなの取っていい」
「ありがとうございます」
清流はお礼を言ってから冷蔵庫を覗いて、オレンジジュースをもらうことにした。冷たいジュースがお酒の残った体に染みていく。
「加賀城さんは今日日本に帰るんですよね?」
「そう。そっちは?」
「3泊4日の予定だったので明後日帰る予定です」
今日は雲一つない快晴で、窓の外ではすでに多くの人たちが道を行き交っているのが見える。
「やっぱり観光客が多いんですね」
「今日この辺りは名所も多いからな。オペラ座が目と鼻の先だし、少し行けばトレビの泉とスペイン広場がある」
「え、そんなに近いんですか?」
どちらもローマに来たら行きたいと思っていた場所だった。
「ここからなら歩いて15分くらいで行ける。行くか?」
「え?」
「昨日はホテル探しでどこも行けてないんだろ。俺も昼に迎えに来るまで暇だし、それに」
「それに?」
「あの辺りはとにかくスリが多い。一人でぼーっと歩いてたら財布の一つや二つすぐスられるぞ」
確かにガイドブックにもスリが多いとは書かれていた。
どうしようかと悩むも、仕事で来慣れていて現地の言葉が話せる洸がいてくれるのは心強い。
「えっと、お願いします」
そうと決まってからの、洸の行動は早かった。
クリーニングに出していた服を届けてもらい、それと同時にレセプションにスーツケースを預ける手筈を整えてくれる。観光の間、両手が空くのはとてもありがたい。
荷物を受け取りにもう一度ホテルに戻ってくることになるので、先にスペイン広場に向かい、トレビの泉を訪れるルートになった。
そしてホテルを出てからは、イタリアの街歩きの心得、ならぬ防犯対策を教わりながら歩く。
「ここはスリも多いけど押し売りも多い。話しかけられても無視しろ。目を合わせるな、何か押しつけられても絶対に受け取るな。受け取ったら最後、ぼったくりのような金額を要求される。
相手が子どもでも油断はするな。あと相手が何か落としても拾うな。その隙に何か盗られるから」
そんな大げさな…と思ったけれど、本当だった。
しばらくはビジネスマンのような人も多かったけれど、観光名所が近づくにつれてそういった人たちに遭遇する確率がぐんと上がっていく。
自然ににこやかに、世間話をするみたいに話しかけてくるからうっかり相手をしてしまいそうになる。
洸が防波堤のように清流の一歩先を歩いてくれているものの、それを搔いくぐって次から次へと何かを押し付けるように手が伸びてくる。
特に花や鳩のエサ、ミサンガ、何だかよく分からないお守りのようなもの…
その勢いに清流は圧倒されつつ、どうにかスペイン広場を抜けて、目的のトレビの泉に到着した。
「うわぁ、すごいですねえ!」
一度は訪れてみたかった場所を目の前にして、清流は辿り着くまでの大変さも吹き飛んだ。
想像以上の大きさと彫刻の細かさ、そして泉の透き通った青さに感嘆の声が出る。
ぶつからないように噴水の周辺へと進むと、写真を撮る団体客や、おしゃべりや自撮りをする人など、とにかく多くの人がひしめいていた。
外で財布は出すなという洸の忠告で、事前にポケットに用意しておいた小銭を1枚取り出すのを、洸が不思議そうに見やる。
「何に使うんだ?」
「え、知りませんか?噴水にコインを投げ入れるジンクスです。ここに来たらやってみたくて!」
確かに聞いたことはある。
背中を向けて後ろ向きにコインを投げ入れたら、もう一度ローマに戻って来ることができる、だったか。
「やったことはないんですか?」
「無いな。そもそも仕事で来ていて観光に来ているわけじゃないし」
「それならせっかくですしやりましょうよ!」
憧れの場所に来られたせいか清流のテンションが高い。
洸はまさかの提案に面食らいつつ、はい、と手渡された硬貨を受け取る。
この場所は、前の道を車で通ったことなら何度もあった。
初めて見たのがいつだったか忘れたが、ここがあの有名な場所かと思った記憶はある。けれど何度も訪れるたびに、その感動は当然ながら薄れてしまった。
そのせいか、自分とは対照的に目を輝かせて感動している清流の姿を見ると、乗っかってやってもいいか、という気になってくる。
噴水に気を取られて、あまり周りが見えていない清流の代わりに周囲に目を配りつつ、洸は受け取ったコインを軽く指で弾いた。
弾かれたコインは綺麗な放物線を描いて、噴水の中に落ちていく。
「あ、ちゃんと落ちましたよ!よかったですね」
「まあ、こんなことしなくてもまた出張で来るんだけどな」
「そういうことじゃないですってば!」
そう言って、清流は少しむくれる。
想像した通りのリアクションを返すのがおかしくて、洸は微かに口角を上げた。
「今度は自分がやれば?ほら」
「あっ、そうですね」
傍らの清流にそう声を掛ければ、顔を上げてポケットに手を入れた。写真を撮るのに夢中になって一瞬忘れていたらしい。
噴水を背にすると、洸のやり方を真似するように指で弾く。が、コインは高く上がることなく、後ろではなく前に飛んで地面へと転がった。
「あ、あれ?」
「……くっ、下手くそだな」
「笑わないでくださいっ、今のってカウントされちゃいますかね?」
「さあ、もう一回やれば大丈夫じゃねえの?」
何の根拠もないのだが、言ってしまえばそもそもこのジンクスにも根拠はないわけで。
足元に転がったコインを拾って渡すと、少し恥ずかしそうに受け取る。
気を取り直して噴水の淵に座ると、指で弾くなんて慣れないやり方ではなく肩越しに投げることにした。きっとその方が確実だ。
(またいつか、この場所に来られますように)
右手に握ったコインを、肩越しに投げ入れる。
周りの喧騒に掻き消されそうになりながらも、今度は泉の中へ落ちる音が耳に届いた。
「できた、今入りましたよね加賀城さん!」
成功して、思わず自然と笑みがこぼれる。
少し身を乗り出して泉の中を覗いてから、同意を求めるように洸を見るとーーこちらを見たまま固まっていた。
「あの加賀城さん、どうかしましたか?」
清流が首を傾げると、洸は弾かれたようにこちらを見てようやく目が合った。
「いや、別に…よかったな。混んできたしそろそろ行くか」
清流の頭をぽんっと叩くと踵を返したので、清流も慌ててその後について行く。少し早歩きで洸の隣りに並ぶと、洸の顔を盗み見た。
「何?」
「あ、いえ、何でもないです」
さっきのは自分の気のせいか。
そう思い直して、清流はホテルに戻るまでの道を歩いた。
◇◇◇◇
ちょうどホテルに戻ってきたとき、洸のスマートフォンが鳴った。
「今?エントランスにいる。はいはい、じゃあよろしく」
おそらく迎えの車が来たのだろう。
自分もそろそろ今日と明日の泊まる場所を探さないといけない。電話を切った洸に向き直ると頭を下げた。
「あの、本当にいろいろご迷惑をおかけしてすみません。でも、ありがとうございました」
「ん、いいよ。けど街歩くときは気をつけるのと帰国するまで油断すんな。家に着くまでが旅行だからな」
「そんな遠足みたいな…」
冗談ぽく笑う洸の表情に、やっぱり綺麗な人だなと思う。
何だか少し寂しいような名残惜しいようなーーそんな気持ちが湧き上がってきて、清流はそれを振り払うようにもう一度深くお辞儀をした。
預けたスーツケースを取りに行くためにレセプションへ向かおうとしたとき、
「清流」
と呼び止められた。
(……え、、)
初めて、名前を呼ばれた。
「えっ、急に、何で名前…」
「昨日言っただろ、ここでは恋人同士だって」
「その設定まだ続いてたんですか…!?」
「そう、ここ出るまで忘れんなよ?」
にやりと笑った洸から、一つの封筒を渡される。
「これは?」
「レセプションで見せたら分かる。じゃあそろそろ行くわ」
「ちょっと待ってください…っ、」
洸はそれだけを言うと、じゃあなと軽く手を上げてエントランスを出て行ってしまった。
清流は手元の封筒を見つめる。
何だろう、預けた荷物を受け取るための控えとかだろうか。
レセプションへ向かう途中で、昨日と同じコンシェルジュの男性が声を掛けてくれた。
手渡した封筒を開けて確認すると、にこりと頷くと、信じられない言葉が続いた。
『今日から2泊でお泊まりの、Seiru Kudoh様ですね』
ゆっくりと、こちらでも聞き取れるくらいの速度の英語で伝えられた内容に、清流は唖然としてしまう。
『あの、何かの間違いではないですか?私、予約なんて、』
そんなのしていない。
不思議そうな表情のコンシェルジュの男性が、カウンターでキーボードを打ち込んでいる。
『確かにご予約が入っておりますよ、Takeru Kagashiro様という方からです』
(嘘っ……!?)
反射的にエントランスホールの方へと振り返るけれど、すでに出て行った洸の姿があるはずもなく。
聞けば、預けていた荷物もすでに部屋に運ばれているのだという。
『ご予約をいただいた時点でお支払いもすでに済まされているのですが、何か不都合な点がございますか?』
気遣わしげな様子の男性に、清流ははっとする。
『昨日言っただろ、ここでは恋人同士だって』
『その設定まだ続いてたんですか…!?』
『そう、ここ出るまで忘れんなよ?』
(さっきのは、このことを言っていたの?)
『……いえ、大丈夫です。チェックインをお願いできますか?』
そうして案内された部屋は、一人で泊まるには広すぎるほどの部屋で。
「いくらするの、この部屋…?」
清流はこの旅行で何度目かの、声を失うことになったのだった。
清流は何度か瞬きを繰り返すと、目の前の光景に文字通り飛び起きた。
ありえない人影を前に、寝起きでまともに働かない頭であやふやな記憶を手繰るも、何も思い出せない。
「……寝起きに叫ぶなって」
この状況で叫ばない人がいるなら教えてほしい。
叫んだ瞬間に頭の奥が鈍く痛む。
それが二日酔いの痛みだと分かったが構ってなどいられない。
一方の洸は、薄目を開けるもまだ視点がぼんやりとしていた。
窓の外から差し込む光が色素の薄い瞳に反射して、少し眩しそうに眇めると乱れた髪を鬱陶しそうにかき上げている。
その仕草は、寝起きの悪さを霞ませるくらいには色気を含んでいて、清流の心拍数を跳ね上がらせるには十分だった。
「…おはよ」
「お、おはようございます…じゃなくてっ、服着てください!」
「着てるけど」
「バスローブ1枚じゃないですか…っ」
起き上がることもなく、寝た状態のまま一つ大きなあくびをする。
落ち着き払っているというよりも、本気でまだ眠いだけなのかもしれなかった。
一つのベッドの上で向かい合っているという状況が恥ずかしいけれど、自分だけが意識しているように思えて迂闊には動けず、洸が覚醒してくれるのをひたすら待つしかない。
「最初に言っとくけど、何もなかったから心配すんな」
「それはしてないですけど…あの、昨日の記憶があんまりなくて」
美味しいマルゲリータピザを食べたことは覚えている。生ハムと季節の野菜がのった菜園風サラダも美味しかったし、パスタやお肉も。
そんなことをぽつぽつ呟くと、食い物の記憶だけかよ、と呆れたようにぼやかれる。
「あのあと喋りながらソファーで寝たんだよ。しばらくしたら起きるかと思って、風呂入って戻ってきても爆睡してたからベッドに運んだ。そしたら、」
「そしたら?」
「バスローブ掴んで離さなかったんだよ。意外と力強いのな?だからどうしようもなかったわけ」
聞けば聞くほど、なかなかの失態だ。
記憶にはなくともその光景を脳裏に思い浮かべるだけで、穴があったら埋もれたいくらいに恥ずかしい。
「重ね重ね、すみません…」
「何だよ急にしおらしくなって」
洸は体を起こして清流の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「時差もあるし、トラブルもあって疲れたんだろ。気にすんな」
洸はそれだけ言ってベッドから降りると、顔洗って支度しろよと声を掛けてから部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送って一人ベッドの上に残される。頭に残る大きな手の感触に、あとからじわじわと顔が熱くなった。
顔を洗って歯を磨いて、服を着替えて髪を整える。
どれも普段より少しだけ丁寧に。それで昨夜の失態が取り消されるわけではないけれど、恥の上塗りだけは避けたい。
部屋から出ると洸もスーツに着替え終わっていた。
何か食べるかと聞かれたけれど、昨夜食べ過ぎたせいかあまりお腹が空いていない。
「だよな、俺もまだ腹いっぱいだわ。飲み物なら冷蔵庫にあるから好きなの取っていい」
「ありがとうございます」
清流はお礼を言ってから冷蔵庫を覗いて、オレンジジュースをもらうことにした。冷たいジュースがお酒の残った体に染みていく。
「加賀城さんは今日日本に帰るんですよね?」
「そう。そっちは?」
「3泊4日の予定だったので明後日帰る予定です」
今日は雲一つない快晴で、窓の外ではすでに多くの人たちが道を行き交っているのが見える。
「やっぱり観光客が多いんですね」
「今日この辺りは名所も多いからな。オペラ座が目と鼻の先だし、少し行けばトレビの泉とスペイン広場がある」
「え、そんなに近いんですか?」
どちらもローマに来たら行きたいと思っていた場所だった。
「ここからなら歩いて15分くらいで行ける。行くか?」
「え?」
「昨日はホテル探しでどこも行けてないんだろ。俺も昼に迎えに来るまで暇だし、それに」
「それに?」
「あの辺りはとにかくスリが多い。一人でぼーっと歩いてたら財布の一つや二つすぐスられるぞ」
確かにガイドブックにもスリが多いとは書かれていた。
どうしようかと悩むも、仕事で来慣れていて現地の言葉が話せる洸がいてくれるのは心強い。
「えっと、お願いします」
そうと決まってからの、洸の行動は早かった。
クリーニングに出していた服を届けてもらい、それと同時にレセプションにスーツケースを預ける手筈を整えてくれる。観光の間、両手が空くのはとてもありがたい。
荷物を受け取りにもう一度ホテルに戻ってくることになるので、先にスペイン広場に向かい、トレビの泉を訪れるルートになった。
そしてホテルを出てからは、イタリアの街歩きの心得、ならぬ防犯対策を教わりながら歩く。
「ここはスリも多いけど押し売りも多い。話しかけられても無視しろ。目を合わせるな、何か押しつけられても絶対に受け取るな。受け取ったら最後、ぼったくりのような金額を要求される。
相手が子どもでも油断はするな。あと相手が何か落としても拾うな。その隙に何か盗られるから」
そんな大げさな…と思ったけれど、本当だった。
しばらくはビジネスマンのような人も多かったけれど、観光名所が近づくにつれてそういった人たちに遭遇する確率がぐんと上がっていく。
自然ににこやかに、世間話をするみたいに話しかけてくるからうっかり相手をしてしまいそうになる。
洸が防波堤のように清流の一歩先を歩いてくれているものの、それを搔いくぐって次から次へと何かを押し付けるように手が伸びてくる。
特に花や鳩のエサ、ミサンガ、何だかよく分からないお守りのようなもの…
その勢いに清流は圧倒されつつ、どうにかスペイン広場を抜けて、目的のトレビの泉に到着した。
「うわぁ、すごいですねえ!」
一度は訪れてみたかった場所を目の前にして、清流は辿り着くまでの大変さも吹き飛んだ。
想像以上の大きさと彫刻の細かさ、そして泉の透き通った青さに感嘆の声が出る。
ぶつからないように噴水の周辺へと進むと、写真を撮る団体客や、おしゃべりや自撮りをする人など、とにかく多くの人がひしめいていた。
外で財布は出すなという洸の忠告で、事前にポケットに用意しておいた小銭を1枚取り出すのを、洸が不思議そうに見やる。
「何に使うんだ?」
「え、知りませんか?噴水にコインを投げ入れるジンクスです。ここに来たらやってみたくて!」
確かに聞いたことはある。
背中を向けて後ろ向きにコインを投げ入れたら、もう一度ローマに戻って来ることができる、だったか。
「やったことはないんですか?」
「無いな。そもそも仕事で来ていて観光に来ているわけじゃないし」
「それならせっかくですしやりましょうよ!」
憧れの場所に来られたせいか清流のテンションが高い。
洸はまさかの提案に面食らいつつ、はい、と手渡された硬貨を受け取る。
この場所は、前の道を車で通ったことなら何度もあった。
初めて見たのがいつだったか忘れたが、ここがあの有名な場所かと思った記憶はある。けれど何度も訪れるたびに、その感動は当然ながら薄れてしまった。
そのせいか、自分とは対照的に目を輝かせて感動している清流の姿を見ると、乗っかってやってもいいか、という気になってくる。
噴水に気を取られて、あまり周りが見えていない清流の代わりに周囲に目を配りつつ、洸は受け取ったコインを軽く指で弾いた。
弾かれたコインは綺麗な放物線を描いて、噴水の中に落ちていく。
「あ、ちゃんと落ちましたよ!よかったですね」
「まあ、こんなことしなくてもまた出張で来るんだけどな」
「そういうことじゃないですってば!」
そう言って、清流は少しむくれる。
想像した通りのリアクションを返すのがおかしくて、洸は微かに口角を上げた。
「今度は自分がやれば?ほら」
「あっ、そうですね」
傍らの清流にそう声を掛ければ、顔を上げてポケットに手を入れた。写真を撮るのに夢中になって一瞬忘れていたらしい。
噴水を背にすると、洸のやり方を真似するように指で弾く。が、コインは高く上がることなく、後ろではなく前に飛んで地面へと転がった。
「あ、あれ?」
「……くっ、下手くそだな」
「笑わないでくださいっ、今のってカウントされちゃいますかね?」
「さあ、もう一回やれば大丈夫じゃねえの?」
何の根拠もないのだが、言ってしまえばそもそもこのジンクスにも根拠はないわけで。
足元に転がったコインを拾って渡すと、少し恥ずかしそうに受け取る。
気を取り直して噴水の淵に座ると、指で弾くなんて慣れないやり方ではなく肩越しに投げることにした。きっとその方が確実だ。
(またいつか、この場所に来られますように)
右手に握ったコインを、肩越しに投げ入れる。
周りの喧騒に掻き消されそうになりながらも、今度は泉の中へ落ちる音が耳に届いた。
「できた、今入りましたよね加賀城さん!」
成功して、思わず自然と笑みがこぼれる。
少し身を乗り出して泉の中を覗いてから、同意を求めるように洸を見るとーーこちらを見たまま固まっていた。
「あの加賀城さん、どうかしましたか?」
清流が首を傾げると、洸は弾かれたようにこちらを見てようやく目が合った。
「いや、別に…よかったな。混んできたしそろそろ行くか」
清流の頭をぽんっと叩くと踵を返したので、清流も慌ててその後について行く。少し早歩きで洸の隣りに並ぶと、洸の顔を盗み見た。
「何?」
「あ、いえ、何でもないです」
さっきのは自分の気のせいか。
そう思い直して、清流はホテルに戻るまでの道を歩いた。
◇◇◇◇
ちょうどホテルに戻ってきたとき、洸のスマートフォンが鳴った。
「今?エントランスにいる。はいはい、じゃあよろしく」
おそらく迎えの車が来たのだろう。
自分もそろそろ今日と明日の泊まる場所を探さないといけない。電話を切った洸に向き直ると頭を下げた。
「あの、本当にいろいろご迷惑をおかけしてすみません。でも、ありがとうございました」
「ん、いいよ。けど街歩くときは気をつけるのと帰国するまで油断すんな。家に着くまでが旅行だからな」
「そんな遠足みたいな…」
冗談ぽく笑う洸の表情に、やっぱり綺麗な人だなと思う。
何だか少し寂しいような名残惜しいようなーーそんな気持ちが湧き上がってきて、清流はそれを振り払うようにもう一度深くお辞儀をした。
預けたスーツケースを取りに行くためにレセプションへ向かおうとしたとき、
「清流」
と呼び止められた。
(……え、、)
初めて、名前を呼ばれた。
「えっ、急に、何で名前…」
「昨日言っただろ、ここでは恋人同士だって」
「その設定まだ続いてたんですか…!?」
「そう、ここ出るまで忘れんなよ?」
にやりと笑った洸から、一つの封筒を渡される。
「これは?」
「レセプションで見せたら分かる。じゃあそろそろ行くわ」
「ちょっと待ってください…っ、」
洸はそれだけを言うと、じゃあなと軽く手を上げてエントランスを出て行ってしまった。
清流は手元の封筒を見つめる。
何だろう、預けた荷物を受け取るための控えとかだろうか。
レセプションへ向かう途中で、昨日と同じコンシェルジュの男性が声を掛けてくれた。
手渡した封筒を開けて確認すると、にこりと頷くと、信じられない言葉が続いた。
『今日から2泊でお泊まりの、Seiru Kudoh様ですね』
ゆっくりと、こちらでも聞き取れるくらいの速度の英語で伝えられた内容に、清流は唖然としてしまう。
『あの、何かの間違いではないですか?私、予約なんて、』
そんなのしていない。
不思議そうな表情のコンシェルジュの男性が、カウンターでキーボードを打ち込んでいる。
『確かにご予約が入っておりますよ、Takeru Kagashiro様という方からです』
(嘘っ……!?)
反射的にエントランスホールの方へと振り返るけれど、すでに出て行った洸の姿があるはずもなく。
聞けば、預けていた荷物もすでに部屋に運ばれているのだという。
『ご予約をいただいた時点でお支払いもすでに済まされているのですが、何か不都合な点がございますか?』
気遣わしげな様子の男性に、清流ははっとする。
『昨日言っただろ、ここでは恋人同士だって』
『その設定まだ続いてたんですか…!?』
『そう、ここ出るまで忘れんなよ?』
(さっきのは、このことを言っていたの?)
『……いえ、大丈夫です。チェックインをお願いできますか?』
そうして案内された部屋は、一人で泊まるには広すぎるほどの部屋で。
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