この恋だけは、想定外

青砥アヲ

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昼なのに暗い

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 気づくと、オフィスの窓に雨がパラパラと当たる音がした。

 朝のニュースでは夕方から降り出す予報だった。
 だいぶ早まったな、と洸はガラスを伝う雨粒を見るともなく見ていると、部長?と声を掛けられて我に返る。

「あぁ、どうした?」
「いえ、どうしたはこっちの台詞なんですけど。現状の問題点と改善提案をまとめた俺の力作、どうですか?」

 洸は手元のEC事業刷新の提案書に目を落とす。元情報システム部の舞原にとっては得意分野だろうと今回任せたものだ。

「よくまとまってる。現場の意見も反映されてるし、チャネル拡大時の汎用性も高そうで悪くない。ただベンダー選定時のキーが分かりづらいな。機能要件はどこもほぼ満たしてるだろうから、コスト以外で経営陣に刺さるポイントがほしい」
「分かりました、そこはもう少し練ってみます」
「頼んだ」

 頭の中でメモを取りながら、舞原は自分の資料はきっちりチェックされていたことを知る。上の空のように見えたのは気のせいか、と資料を受け取りながら洸を見た。

「そういえば清流ちゃん、今日は体調不良でしたっけ?入社してから初めてですよね、休むの」
「あぁ、そうだな」
「なんか先週からずっと元気なかったし、心配っすね」
「先週から?」

 頬杖をついたままノートパソコンを見ていた洸が、顔を上げる。

「部長は何か聞いてないんですか?」
「…何も」

 それがぼんやりしている原因か、と舞原は理解する。

 洸の下について分かったことは、洸は自分が信頼する相手に遠慮されるのを嫌うということだ。
 持って生まれたリーダー気質か上に立つ立場がそうさせるのか、洸にとって遠慮されるのは信頼されていないことと同義で、見過ごせない性格なのだろうと舞原は理解していた。

「考え事してるっていうか、心ここに在らずみたいな。でも仕事は全然ミスしないし、むしろ普段より気合入ってる感じだったんで、気のせいかもしれないんすけど」

『すみません、ちょっと考え事をしていて』

 この前の日曜日、確かに清流はそう言っていた。
 目の前にいるのは清流本人で、リビングから外を眺める背中も見慣れているはずなのだが、まるで透明の膜を張っているかのように何度呼んでも反応がなかった。掴みどころがなく、それ以上話しかけることも憚られるような、妙な違和感。

 冗談めかして額をはじけば、話題が逸れて安心したように小さく息をついたのが分かった。それが、自分には言えない何か抱えていることを示しているようで、胸の奥がざわついた。

 ―――このとき、嫌な顔をされようと問いただしておけばよかったのだと、後から振り返ったときに思う。

 言いようのない空気を変えたくて、出かけようと誘った。
 自分が運転する車に乗りたいと言われたときは驚いたが、初めの頃した会話を覚えていたのだろうかと思うと、違うほうに心が揺さぶられたのを覚えている。

 どこかぎこちなかった車内での会話も次第にいつも通りになって、あれこれと言い合いながら買い物をして、時間が過ぎるのを忘れた。
 出掛ける前に覚えた違和感は自分の杞憂だったのかもしれない。
 車に戻って、助手席で安心したように眠る姿に少し距離が近づいた気がして―――また、遠ざかった。

『……ごめんなさい、私、受け取れません』

 傷ついた、というほど大げさなものでもない。
 が、何かが喉の奥に引っ掛かったように、常にあの表情が頭から離れない。

(清流の方が、よっぽど傷ついたような顔をしていた)

 初めて買ったマグカップのように、最初は遠慮して断られるのは想定していた。
 清流がどこか遠慮がちなのは、初めて会ったときからずっと変わらない。だから、そうなれば強引に押し切るように渡してしまうつもりだったのだが、なぜかできなかった。

 いっぱいに溜まった涙が今にも零れ落ちそうな瞳に、手を伸ばすこともできず、ただ戸惑っている間に、清流の姿は部屋へと消えた。

「…なぁ舞原」
「なんですか?」
「お前なら、どうしたら笑う?」

 脈絡のない問いに、舞原は虚をつかれた。

「……部長、仕事のし過ぎでおかしくなったんですか?それかこの間の時差ボケが残ってるとか?」
「残ってねえよ」

 そもそもシンガポールとは大した時差もない。

「なにで笑うか?んーそうっすねぇ、お笑いの動画見たときとか?…って、人に聞いておいて期待外れって顔しないでくださいよ」

 ぽろっと零れるような問いに、立ち入るつもりのなかった思考が働いていることに気づいて洸は無意識に頭を振るが、少し遅かった。

(……あぁ、やっと分かった)

 たった一度拒絶されたくらいで、何故こんなにも引きずるのか。
 そもそもどうして、服をプレゼントしようなんて思ったのか。

『できた、今入りましたよね加賀城さん!』

 思い出すのは、トレビの泉で握ったコインを投げ入れてはしゃいでいたときの、屈託のない笑顔。

 あの笑顔が、もう一度見たかった。

 直感的に理解すると同時に、
 そろそろ認めたらどうだと頭の中で声がする。

 窓の外は雨が本降りになり、窓に強く叩きつけるように降っていた。
 まだ昼なのに、まるで日が落ちる時間かと思うほどに暗い。

 洸は不意に、あのイタリアでの雨の瞬間と、一人濡れている清流の姿がよぎった。

 ――何だか、胸騒ぎがする。

「……悪い、今日は帰る」
「え、どうしたんすか?つーかこの後の打ち合わせは!?」
「唯崎か榊木に代わりに出てもらってくれ。電話には出る」

 そう言って洸は鞄をひったくるようにしてオフィスを飛び出した。


 槙野が別件でつかまらず、洸はタクシーを飛ばしてマンションに戻った。
 長いアトリウムも広いエントランスホールも今日ばかりは煩わしく、普段なら走ることのない場所を駆け足で走り抜ける。
 乗り込んだエレベーターが7階に着き、部屋の鍵を開けてドアを開けた。

「……清流?」

 清流は体調を崩して部屋で寝ているはずだ。だから今日は家の電気は付けて出たはずなのに、部屋の中はすべての電気が消えて真っ暗だった。

 センサーが付き、玄関だけが明るくなる。

 洸は靴を脱ぎ廊下を通って、リビングドアを開けるも当然真っ暗で、人影はない。


 おはようございます、と毎朝出迎えてくれたキッチン。
 向き合って座ったダイニングテーブル。
 酔っ払って眠りこけていたソファー。

 日常の切れ端のような出来事が、次から次へと思い起こされる。

 利用している関係性である限り境界線は超えないつもりだった。
 それが、部屋のどこにも清流がいて消えないどころかもう切り離せないほどなのに、肝心の本人がいない。

 すべての部屋を開け放った後、最後に清流が使っていた部屋の前に立ち、そっとドアを開けた。

 本当は、初めから気づいている。
 目の端で確認した玄関先に、清流の靴がなかったこと。

 ただ、理解することを頭が拒否している。


「なんでだ……?」


 清流と暮らした5ヶ月は何もかもが想定外で、

 何もかもが遅すぎた。

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