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1章 出会いのクッキー

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「……19世紀のイギリスで生まれた『ヴィクトリアケーキ』を知っているか」

表情を暗くする久志に、唐突に投げかけられた問い。突然なんなんだと驚いていた久志だが、まっすぐとこちらを見つめる薫に、「はい」と小さく返した。

「……ラズベリージャムを2枚のスポンジでサンドしたケーキ、ですよね」
「そう。そのケーキは、ヴィクトリア女王が最愛の夫であるアルバート公を亡くし、塞ぎ込んでいたときに振る舞われ、その御心を慰めたことからその名が名付けられたというエピソードがあるスイーツだ」

また一歩、薫が久志に近づいた。

「美味しいスイーツは人を幸せにする。そして、君のスイーツを食べた僕は……君のおかげで幸せになった人間の一人だ」

薫が目を逸らさぬままこちらを見るので、久志は思わず下を向いた。そんなことをまっすぐ見つめて言わないでほしいと思った。

「君の部屋の本棚には、スイーツに関する本がたくさんあった。その中にはパティシエの本も、少なくはなかったな」
「それは……」

ゆっくり顔をあげると、不敵に微笑む薄茶色の瞳と目が合った。

「人は嫌な思い出があるものから距離を置こうと遠ざけることが多い。それが、例え自分が好きだったものだとしても、だ。だが、君は今もスイーツが大好きで、お菓子作りが大好きなままじゃないか」

その言葉に、どくりと音を立てる胸。

「……本当は、まだその道を諦めていないんじゃないのか」

そう尋ねられ、胸の奥にずっと閉まっておいた気持ちが溢れ出そうになる。久志は、手のひらをギュッと握りしめると下を向いた。すると、「ならば、こうしよう」と続ける薫。

「お菓子作りのための場所と食材は提供するから、たまに僕の家に来てお菓子を作ってくれないか」

その言葉に、顔をあげる久志。

「場所と食材を……」
「まあ急に働くといっても、君の都合もあるだろうしな」

腕組みをしたまま、ふと笑ってそう言った薫。そう提案され、久志は自分の中に迷う自分がいることに気がついた。そして、どうすればいいかと頭を巡らせていると

『このお守りには、久志にいいご縁がありますようにって願いを込めておいたからね』
『お守りは願いが叶ったときに紐が切れる、という話もございますから何か思いが通じたのかもしれませんね』

と、ふと思い出した祖母と加賀美の言葉。

新しいことにチャレンジするときは、いつだって怖さがある。不安がある。

けれど、その怖さや不安を飛び越えなければ、今は今のまま。変わり映えのない日常が過ぎていくだけだ。自分は、それでいいのだろうか、と考える。このまま夢から逃げたままで、ずっと目を背けて生きていくのだろうかと。

いいや、変わりたい。夢だったパティシエの道を、やっぱり自分は諦めたくない。

浮かび上がったは、とてもシンプルな思いだった。
 
「……俺でよければ、よろしくお願いします」

気づけば差し出された手を取り、強く握りしめている久志がいた。その答えに、にやりと麗しい笑みを返す目の前の人。

「交渉成立だな」

ひょんなことから始まったこの出会いが、どんな未来を見せてくれるのか。久志に何を与えてくれるのか。果たしてこの決断が正しかったのかは分からない。だが、あのときの決意が良かったと思える未来になれば嬉しいと、久志はただ何となくそんなことを思ったのだった。
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