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臆病な俺と主人公

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 翌日、六月十七日(木曜日)

 今日は朝から天気が良く、絶好の洗濯日和だ。

 俺は毎朝早く起きて洗濯をし、自分と妹の分の朝食と弁当を作っている。もちろん、今日も例外ではない。そしてそんな俺を、誰も褒めてはくれない。

 因みに母は昨日も帰って来なかった。メールでいつ帰ってくるのか聞いてみると、早くて明日帰ってくるという返事があった。


 学校へ行き、教室に入り、席に着く。一年生の教室の場所は覚えていたので迷いはしなかったものの、入る時には少し抵抗があった。

 俺の席は窓際から二列目の、後ろから三番目。美琴の席は窓際から三列目の、一番前の席だ。俺の席からそう遠くは無い距離に、美琴が座っている。

 一年生が始まって三ヶ月経ったということもあり、周りでは複数のグループができていた。グループは通常、男女に分かれてできるものだが、一軍のグループだけは違う。例のヤンキーが中心となって、男女六人が教室の真ん中で集まり、大きな声で話している。

 話を聞いていてわかったが、ヤンキーの名前は京也(きょうや)と言うらしい。苗字は分からない。

 先生が入ってきて、ホームルームが始まる。一限目、二限目と、何事もなく過ぎていった。

 昼休み。クラスの半数は購買へ行き、半数は弁当を食べている。俺と美琴は自分の席で一人、黙々と弁当を食べていた。

 今日の俺の弁当は唐揚げと野菜と白ご飯という、これぞ男の弁当と言った感じだ。弁当から唐揚げが二つ無くなった頃。ふと教卓を見ると、名前は忘れたが見たことのある、内気で、悪く言うと陰気臭い雰囲気の男子が、涙目で立っていた。

 弁当を食べながらなんとなく視線を彼に向けた。すると彼は、震えた拳を抑えながら、震えた声で、唐突に、

「ぼ、僕はっ! おっぱいが大好きです! 」

 と叫んだ。

 騒がしかった教室が静まり返る。みんなの視線は教卓にいる彼に向けられ、憐れんだような悲しい顔をした後、心の中で目を瞑る。

「ぶっ! 」

 不意に、京也が笑った。

「ははっ何言ってんだお前! 」

「え、だって京也君が……」

「はぁ? 何言ってんだお前? 」

 これは、俺も何度も見たことがある光景。昼休みになると時々、京也は言うことを聞きそうなクラスメイトを事前に呼び出し、教卓で恥ずかしいセリフを叫ばせるという、胸糞の悪い遊びを始めるのだ。

「なぁ、こいつ頭おかしいよな? 美琴」

「……」

 京也が美琴に目線を向ける。美琴は、何事もなかったかのように弁当を食べ続けている。教卓の彼は涙目のまま、走って廊下へ飛び出して行った。

「ちっ、無視かよ。まぁいいや、美琴もこっち来て一緒に飯食おうぜ」

 尚も無視をし続ける美琴。そんな光景をただ見ることしか出来ない、情けない俺。

 怖いのだから仕方ない。だって今なにかすると、美琴にも被害があるかもしれないじゃないか。そう自分に言い聞かせて、いつもこの時間をやり過ごす。

 本当にそれでいいのか? 三年前に戻ってきて、本当にこのままでいいのか? 俺は、変わるんじゃ無いのか?

 そんなことを考えながら食べる弁当が、やけに重苦しくて全く箸が進まない。

 気がつくと、京也が美琴の机に無理やり弁当を広げていた。

「何をしているの? 」

「いいじゃねぇか。一緒に食べようぜ」

 心底嫌そうな顔をする美琴を他所に、チャラついた笑顔を向ける京也。

「ひゅーひゅー! 京也、やるねぇ」と京也グループの馬鹿な男がヤジを飛ばす。同じグループの女は嫉妬したような顔で美琴を睨んでいる。

 美琴は半目で京也を睨みつけた後、食べかけの弁当を置いて席を立つ。

「どこ行くんだ? 」

「……」

 特に理由など無いのだろう。理由が見つからなかった美琴は、京也の質問が聞こえなかったかのように早足で教室を出ようとするが、

「なんだ、そんなに俺と食べるのが嫌なのか? 」

 京也が美琴の腕を掴んで、呼び止める。美琴は出入り口を見つめながら「飲み物を買うのよ」 と、ぼそっと呟くように言った。

「飲み物? 水筒は? 」

 そう言って京也が美琴の机の上にある水筒を持ち上げる。

「空なのか。あ、じゃあ」

 京也が周りを見渡す。そこで、先程から美琴と京也のやりとりを腹立たしく見つめていた俺と、目が合ってしまった。

「おいお前、名前なんだっけ」

「赤井だろ? 」と京也の友達

「そう赤井! お前飲み物買ってこい! 」

「え……」

 緊張して、心臓が強く脈を打つ。怒りが溶け、恐怖心が込み上げてくる。

 俺は、臆病だ。好きな女の子を何も考えずに助け出せるような、かっこいい主人公じゃない。人に対する恐怖心が他人よりも強く、繊細なんだ。だから、昔だったら恐怖心を早く取り払う為に、京也の言う通りに従っていたことだろう。

 だけど、

 このままでいい、わけがない

「嫌だ」

「は? 」

 京也の表情が急変する。自分より下の奴に歯向かわれてイライラしている、というのが見て取れる。

「いや、買ってこいよ」

「嫌だ! 」

「なんだと? 」

 京也が近づいてくる。俺は震えた足で何とか立ち上がり、後ろに下がろうとするが、すぐに胸ぐらを掴まれる。

「調子に乗るなよ……? 」

「は、はなせ! 」

「はぁ? 」

 虎の如く威圧感のある眼光で俺を睨みつける京也。そして、怒りに任せて拳を振り上げた、その瞬間ーー

「何やってんだ、お前」

 京也の腕を、誰かが掴んだ。

 その人物は俺のよく知る、この世で一番主人公に相応しい人物だ。

「は、白先輩……」

「空、下がってろ」

 俺は指示に従って後ろに下がることにした。周りを見渡すと、クラスのみんなは廊下側に避難していることがわかった。

「離せよ」

「それは無理だな」

「離せっつってんだろ! 」

 京也が掴まれた右腕を強引に振り解き、白先輩を殴りかかった。だが、それを簡単に避けた白先輩は、ふらついた京也の髪を鷲掴みにした。二人の身長差はあまり無い為、頭を掴まれた京也は、前屈みになる。

「空に謝れ」

「はぁ? 何で俺が謝んだよ」

「……」

 頭に血を上らせ、今にも京也を殴ろうとしている白先輩が、血眼になって俺の方を向き、


「こいつ、殴ってもいいか? 」


「良く、無いですね」


「だよな」


 殴ってしまうとまた、前みたいに無期停学になってしまう。白先輩は無期停学処分がどれだけ辛いかをよく知っており、また、美羽先輩がどれだけ心配するかを知っている。だから殴らなかった。

 白先輩は、そのまま京也を後ろに押し飛ばすかのように頭を突き離した。京也はふらついて机にもたれかかった後、もう一度白先輩を殴ろうとした。だが、白先輩はその拳を右手でキャッチし、強く握りしめる。

「もういいだろ、その辺にしとけ」

 白先輩の鬼の如く威圧感のある眼光に、京也は勝ち目が無い事を悟った。周りにいる友達にこれ以上、こんな無様な姿を見せるのも恥ずかしい。そう考えた京也は 「ちっ、もういい」 と言って、地団駄を踏みながら教室から出て行った。

 教室が静まり返る。弁当を食べている最中だったにも関わらず机に弁当を置いたまま教室の廊下側に避難したクラスメイト数名が、強張った面持ちで席に戻り、昼食を再開する。幸い、誰かの机がひっくり返されたりすることもなかったので、弁当は無事のようだ。

「ふぅ」

 白先輩が安堵した様子でため息をついた。

「大丈夫か? 」

「はい、お陰様で」

「そうか」

 さっきまでの鬼の形相とは打って変わり、柔らかな表情で窓の外を見ていた。

「美琴は? 」

「え? 」

 さっきまでそこに居たはずの美琴は、教室から姿を消していた。

 そしてその日の放課後、初めて美琴は部活を休んだのだった。


☆*°


「美琴、なんで今日部活来なかったのよ」

 美羽が美琴に問いただす。

 ここは、美琴と美羽の家。空達の家とは逆方向だが、高校から徒歩10分の場所にある、マンションの7階に、二人だけで住んでいる。間取りは2LDK。両親の事はまだ言えないが、父が毎月美羽の通帳に多額のお金を振り込んでいる為、生活には困っていない。

 今はリビングでご飯を食べている最中だ。美琴は少し押し黙った後、

「ごめんなさい姉さん」

「いや、怒っては無いのよ? なんでかなって、気になっただけで」

「その、言いにくいんだけど……」

それから美琴は、今日教室であった出来事を美羽に全て話した。

「全然知らなかったわ……。というか何で白は何も言わないのよ」

 後半拗ねた様子で、ぼそっと呟くように言う美羽。

「だから部活に顔を出しにくかったってこと? 」

「そうよ。だって気まずいじゃない。赤井くんと白先輩には迷惑かけちゃったわけだし……」

「美琴のせいじゃ無いでしょ!? 」

「でも私がもっとちゃんとしていれば、あんなことには……! 」

 美琴が涙目で、感情をぶつけるように叫んだ。少しの間が空いた後

「私があの時、あのクソ男とご飯を食べていれば、あんなことにはならなかったのよ」

「違うわ美琴。そんなの間違ってる」

「でも! 私は、赤井くんや白先輩には迷惑をかけたく無いの! 傷ついて、ほしく無いの」

 大粒の涙が美琴の頬を伝う。それを見た美羽が席を立って美琴の側に行き、細い腕で優しく包み込む。

「そっか。もういいよ、美琴。ごめんね、偉いね」

 美羽が美琴の頭を優しく撫でる。

 鼻水を啜る音と同時に、小さな嗚咽を漏らしながら、美琴は姉の胸の中で泣いていた。

 美琴は責任感の強さがとても強い子だ。そして、誰よりも優しい。

 素直になれず、不器用な一面もある。だから作品発表会の時、白にだけわかるように、遠回しにあんな事を言ってしまったのだろう。

 この不器用で可愛い妹のために、私は何ができるのだろうか。

 妹を胸に抱きながら、姉は頭を悩ませるのであった。
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