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婚約者に鞭で躾けられていた俺を、公爵令嬢が拾ってくれました
「アーサー、シャツを脱ぎなさい」
キャロル・ダーシー——俺の婚約者の声は、いつものように冷たかった。
「……はい」
侍女たちが部屋から退出させられ、俺とキャロル様だけが残された部屋の中、震える手でシャツのボタンを外していく。
「あなた、また論文なんか書いていたそうね」
「も、申し訳ございません……」
「何度言えば分かるの? 男は肉体労働をしていればいいのよ。学問は女の領分。あなたみたいな小賢しい男には、本当に虫唾が走るわ」
彼女の手には、細い鞭が握られている。
俺はいつものように、彼女に背を向けてひざまずいた。
空気を裂く鋭い音とともに、鋭い痛みが背中を走る。
「うっ……!」
「黙りなさい。これはあなたのためよ、アーサー。男らしくない行いを、私が正してあげているの」
二度、三度と容赦なく与えられる鞭。
痛みに耐えながら、俺は歯を食いしばった。
「分かった? もう二度と研究なんてしないって約束しなさい」
「……はい、約束します」
嘘だ。
俺は絶対に諦めない。
◇◇◇
——男が書いた論文など無価値だ。
何度そう言われただろう。
それでも、俺は諦められなかった。
そして、ついに俺の研究の集大成ともいえる論文が完成した。
でも、どこに送っても門前払い。
学会は男性の論文など受け付けないし、学者に対する援助を積極的に行っている貴族たちも、鼻で笑うだけだった。
それでも——最後の望みとして、俺はその論文をある方に送った。
アリシア・シンクレア公爵令嬢。
彼女は、この王国で唯一、男女や身分を問わず、才能ある者を支援していることで有名だった。
芸術の分野はもちろんのこと、学問の分野でも、優れた論文を書いた平民の学者に資金を提供したり、研究環境を整えたりしている。
その先見の明のおかげで公爵家は大きく発展し、今や王国で最も裕福で影響力のある家になっていた。
もしかしたら、アリシア様なら……
そんな淡い期待を胸に、俺は論文を送った。
——でも、二ヶ月経っても返事は来なかった。
「……やっぱり、駄目だったか」
俺が書いた論文など、アリシア様の目にも留まらなかったのだろう。
それでも、送ったという事実だけで、俺は少しだけ救われた気がした。
せめて、彼女の視界に一瞬でも入ったのなら——それだけで、俺の論文には価値があったと思えるから。
◇◇◇
「アーサー様との婚約は破棄させていただきますわ!」
婚約者同伴でのパーティーに参加したその夜、キャロル様の高らかな宣言が、静かな庭園に響いた。
彼女の隣には、侯爵家のクリス様が立っている。
金髪碧眼の美青年。この国で最も美しいとされる男性の一人だ。
そして、最近キャロル様が随分と執心していた男性でもある。
「……承知いたしました」
俺は静かに頭を下げた。
(これで……終わった)
少しだけ、安堵していた。
これで、あの鞭から解放される。
でも同時に、絶望もあった。
婚約破棄された男など、もう誰も相手にしてくれない。
俺の人生は、ここで終わったも同然だ。
(いっそ……)
ふと、暗い考えが頭をよぎる。
(この世から、消えてしまおうか)
どうせ誰も、俺のことなど気にしない。
キャロル様は新しい婚約者と幸せになるだろう。
両親だって、こんな出来の悪い息子はいなくなった方が、せいせいするはずだ。
(……ああ、そうだな)
幸い、この屋敷の近くには湖がある。
深い、深い湖が。
「あ、じゃあ私がもらいます」
その声に、俺は顔を上げた。
そこにいたのは——
(アリシア様……!?)
俺が論文を送った、あのアリシア・シンクレア様だった。
噂に聞いていた美貌は、近くで見ると想像以上だった。
銀色の髪、琥珀色の瞳、凛とした佇まい。
まるで女神のような方。
「……え?」
キャロル様が固まっている。
俺だって、信じられなかった。
何かの間違いではないのか。
(でも……)
もしこれが本当なら。
もし、この方が本当に俺の存在を望むのなら……
(生きていても、いいのか?)
小さな希望が、胸の奥で灯る。
「アリシア様、本当に……よろしいのですか?」
震える声で尋ねる。
夢なら、覚めないでほしい。
「実は以前、あなたが提案された農地改革の計画書を、読ませていただいたことがあるの。四輪作で休耕地をなくすという発想、素晴らしかったわ」
「……!?」
言葉が出ない。
涙が、溢れそうになった。
読んでくださっていた。
それどころか——
「あれだけのアイディアが誰にも評価されないなんて、馬鹿げている」
評価、してくださった。
俺の論文を。
俺の研究を。
今まで誰も——誰一人として、認めてくれなかったのに。
「私と来て。あなたの才能、私が証明してみせる」
「……はい。喜んでっ!」
俺の声は、震えていた。
そんな情けない俺に、アリシア様が微笑む。
その笑顔が、俺には眩しすぎた。
背後でキャロルが何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。
俺の世界は、この瞬間から変わった。
アリシア様が、俺の全てになったのだ。
◇◇◇
こうしてアリシア様と正式に婚約し、俺の人生は一変した。
「まず最初に説明しておくと、公爵領では、性別は関係ありません。優れた能力を持つものが、正当に評価される。それが、我が家の方針です」
「すごい……」
俺は心の底から、そう思った。
「だって、たかがY染色体があるくらいで差別されるなんて、おかしいじゃない……」
「Y染色体……?」
アリシア様が小さく呟いた言葉に、耳慣れない単語があった。
不思議に思って聞き返すと、アリシア様は少し慌てた様子で「なんでもない」とだけおっしゃった。
「と、とにかく。あなたも遠慮なく研究を続けてください。私が、全面的に支援します」
「アリシア様……」
この方は、本当に——
「それと」
アリシア様が少し申し訳なさそうに言った。
「せっかく論文を送ってくれたのに、返事が出来なくてごめんなさい」
「いえ、そんな! 読んでくださっていただけで俺は……」
「ちょっと準備に時間がかかっちゃって……」
「準備?」
「もちろん、実証実験の準備よ。まさかあの計画、机上の空論で終わらせる気じゃないでしょう?」
返事が来なかったのは、無視されたからではなく——実行に移すための段取りをしてくださっていたから。
アリシア様は俺の論文を、こんなにも高く評価してくださっていたのか。
「これからは、色々と忙しくなるわよ」
アリシア様が楽しげに笑う。
それは、計画が失敗するなどとは、微塵も考えていない顔だった。
◇◇◇
アリシア様の支援のおかげで、四輪作計画は公爵領で実施され、大成功を収めた。
冬の間も家畜の飼育が可能となり、食糧不足が解決されたのだ。
その成果は王宮にも報告され——気が付けば、誰もが俺の研究を認めざるを得なくなっていた。
そして、アリシア様は計画の実行と同時に、俺の外見も整えてくださった。
「姿勢は真っ直ぐ! 猫背にならない!」
「は、はい!」
「堂々としていればいいの。あなたにはそれだけの価値があるのだから」
髪を整え、体格に合った服を仕立て、眼鏡を洗練されたデザインに変えてくださった。
鏡の前に立った時、俺は呆然とした。
「……これが、俺?」
「ええ。これが本来のあなたよ」
鏡の中には、見知らぬ男が立っていた。
自信に満ちた立ち姿に、洗練された服装。
これが、本来の俺?
「俺は……ずっと、自分のことが嫌いでした」
思わず、口から本音がこぼれ出る。
「でも、アリシア様は、そんな俺にも価値があると言ってくださった……俺の人生を、変えてくださった」
アリシア様はいつだって俺の目を見て、真剣に話を聞いてくださる。
そんなことをしてくれる人など、誰もいなかったのに。
「全て、あなたのおかげです」
愛しいアリシア様の手にキスをしながら、俺は誓った。
この命、俺のすべてを、アリシア様に捧げると。
——彼女を守るためなら、俺は悪魔にだってなれる。
◇◇◇
アリシア様との結婚生活は、幸せだった。
彼女は俺を対等なパートナーとして扱ってくださる。
研究の相談にも乗ってくださるし、領地経営の意見も求めてくださる。
そしてなにより——俺を一人の男として、愛してくださっている。
時には意見が対立することもあるけれど、アリシア様は決して俺の意見を否定しない。
「なるほど、そういう考え方もあるのね」
そうやって、いつも俺のことを受け止めてくださるのだ。
(この人は、本当に素晴らしい)
俺は毎日、そう思う。
そして同時に——
(この人を、守らなければ)
アリシア様は、優しすぎた。
彼女のあまりにも時代の先を行く考え方を許容できない凡人というものは、どうしても存在する。
一歩領地から外へ出ると、嫉妬からくる陰口など、しょっちゅうだ。
彼女はまったく気にしていないようだが、それを見るたびに、俺の胸に暗い感情が湧き上がる。
(アリシア様を傷つける者は……許さない)
◇◇◇
夜会でキャロルが俺を返せとアリシア様に喚いて、一蹴された後。
異常な目つきをしていたあの女に、嫌な予感がよぎった。
歪んだ心根の女だ。
ろくなことを考えていないとは思ったが、その予想は的中した。
こともあろうに、あの女はアリシア様を陥れる計画を立てていたのだ。
彼女の評判を落とすための嘘に、領地経営の妨害工作。
そして、最終的に——アリシア様をゆっくりと衰弱させ、病死を装った毒殺。
どうやら、アリシア様の成功を妬んだ一部の貴族も、計画に加担しているらしい。
(……まとめて、潰してやる)
まずは、買収したキャロルの侍女から得た情報をもとに、毒薬の売買記録、やりとりされた手紙、不正な金の流れ——できうる限りの証拠を押さえた。
だが、これでは足りない。
キャロルと共謀した貴族たちの分の、決定的証拠が必要だ。
そして、ある日の午後。
俺は一人で、ダーシー伯爵家を訪れた。
「まあ、アーサー! わざわざ私に会いに来てくれたの?」
応接室に通されると、キャロルは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「やっぱり、あなたも私のことが……」
「キャロル様」
俺は彼女の言葉を遮って、手にしていた封筒から書類を取り出した。
「これを」
キャロルが書類を受け取り、目を通す。
その顔色が、みるみる変わっていった。
「こ、これは……」
「ダーシー伯爵家の不正会計の記録の写しです。三代に渡って、ずいぶんと大胆に脱税をしていますね」
キャロルの手が、震えている。
「な、何を言って……これは、ただの……」
「証拠はすべて揃っています。これを王宮に提出すれば、伯爵家は確実に爵位剥奪。最悪の場合、一族全員が投獄されるでしょう」
「そ、そんな……」
キャロルは書類を握りしめると、俺を睨みつけた。
「どうして、こんなことを……!」
「アリシア様を守るためです」
込み上げてくる怒りをなんとか抑え、俺は入手していた毒薬の売買に関する書類を取り出した。
「あなたが、アリシア様を陥れる計画を立てていることは知っています」
「っ!」
机の上に置かれた書類に、キャロルの顔が蒼白になる。
「誰から、聞いたの?」
「それは関係ありません。——重要なのは、俺がその計画のすべてを知っているということです」
沈黙が部屋を支配する。
完全に冷静さを失っているキャロルは、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「……で、どうするつもり? まさか、私を見逃してくれるとでも?」
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「あなたは、必ず罰を受けるべきです」
「だったら……!」
「ただし——もし、あなたが自ら共謀者全員の名前と証拠を提出してくれるなら、この計画に関するあなたの罪は問いません」
キャロルが、小さな希望を見出したような顔をした。
「つまり……」
「この書類の原本はあなたに渡し、不正会計の罪だけで済ませる、ということです」
脱税の悪質性から爵位剥奪は免れないだろうが、斬首刑よりは遥かにマシなはずだ。
「共謀者たちを売れば、私は助かると?」
「ええ、少なくとも、頭と胴体はくっついたままでいられるでしょうね」
俺の言葉に、キャロルは悔しげに唇を噛んだ。
「……この悪魔っ」
「悪魔で結構」
キャロルはしばらく考え込むように口を閉じてから、大きなため息をついた。
「……分かった。私が持っている証拠はすべて渡すわ」
◇◇◇
それから一週間後。
キャロルから得た証拠を元に、共謀者たちは次々と逮捕された。
アリシア様の成功を妬み、彼女を毒殺しようと企んだ貴族たち。
彼らはすべて、王宮の牢獄に収監された。
そしてそれは、キャロルも例外ではなかった。
三代に渡る悪質な脱税。
そしてなにより——女王陛下も目をかけているアリシア様への毒殺を首謀。
この二つの罪で、伯爵家は爵位剥奪の上、キャロルの処刑が確定した。
俺が彼女に渡した証拠はただの写しで、原本はとっくに王宮に提出していたのだ。
ふと、伯爵家へと嫁がれたクリス様の顔が脳裏をよぎる。
美しいだけで中身のない男だったが、悪人ではなかった。
彼は、キャロルの企みなど何も知らなかっただろう。
(……アリシア様はこんな俺のやり方を知ったら、軽蔑するだろうか)
アリシア様が就寝された後、俺は書斎に篭ってそんなことを考えた。
机の上には、キャロルの陰謀に関する全ての証拠書類が積まれている。
これらは全て、王宮に提出したものの写しだ。
俺はそれらを一枚ずつ、暖炉の炎に投げ込んでいった。
「アリシア様の目を、あんな汚物の話で汚すわけにはいかない……」
炎が、書類を灰に変えていく。
キャロルがどれほど卑劣な手段を使おうとしていたか。
どれほど醜い言葉でアリシア様を貶めようとしていたか。
そんなこと、アリシア様は知らなくていい。
「あなたは何も知らず、ただ幸せでいてくれればいい」
最後の書類が灰になる。
証拠は全て消えた。
もうこれで、キャロルが具体的に何を企んでいたのか、彼女が詳細を知ることはできない。
「あなたを傷つけようとする者は——全て、消す」
俺は窓の外、満月を見上げた。
「俺の世界には、アリシア様以外はいらない」
月明かりが、書斎を照らす。
アリシア様は、永遠に何も知らないまま幸せに、俺に愛されて生きていく。
——そのためなら、俺はよろこんで地獄に堕ちよう。
キャロル・ダーシー——俺の婚約者の声は、いつものように冷たかった。
「……はい」
侍女たちが部屋から退出させられ、俺とキャロル様だけが残された部屋の中、震える手でシャツのボタンを外していく。
「あなた、また論文なんか書いていたそうね」
「も、申し訳ございません……」
「何度言えば分かるの? 男は肉体労働をしていればいいのよ。学問は女の領分。あなたみたいな小賢しい男には、本当に虫唾が走るわ」
彼女の手には、細い鞭が握られている。
俺はいつものように、彼女に背を向けてひざまずいた。
空気を裂く鋭い音とともに、鋭い痛みが背中を走る。
「うっ……!」
「黙りなさい。これはあなたのためよ、アーサー。男らしくない行いを、私が正してあげているの」
二度、三度と容赦なく与えられる鞭。
痛みに耐えながら、俺は歯を食いしばった。
「分かった? もう二度と研究なんてしないって約束しなさい」
「……はい、約束します」
嘘だ。
俺は絶対に諦めない。
◇◇◇
——男が書いた論文など無価値だ。
何度そう言われただろう。
それでも、俺は諦められなかった。
そして、ついに俺の研究の集大成ともいえる論文が完成した。
でも、どこに送っても門前払い。
学会は男性の論文など受け付けないし、学者に対する援助を積極的に行っている貴族たちも、鼻で笑うだけだった。
それでも——最後の望みとして、俺はその論文をある方に送った。
アリシア・シンクレア公爵令嬢。
彼女は、この王国で唯一、男女や身分を問わず、才能ある者を支援していることで有名だった。
芸術の分野はもちろんのこと、学問の分野でも、優れた論文を書いた平民の学者に資金を提供したり、研究環境を整えたりしている。
その先見の明のおかげで公爵家は大きく発展し、今や王国で最も裕福で影響力のある家になっていた。
もしかしたら、アリシア様なら……
そんな淡い期待を胸に、俺は論文を送った。
——でも、二ヶ月経っても返事は来なかった。
「……やっぱり、駄目だったか」
俺が書いた論文など、アリシア様の目にも留まらなかったのだろう。
それでも、送ったという事実だけで、俺は少しだけ救われた気がした。
せめて、彼女の視界に一瞬でも入ったのなら——それだけで、俺の論文には価値があったと思えるから。
◇◇◇
「アーサー様との婚約は破棄させていただきますわ!」
婚約者同伴でのパーティーに参加したその夜、キャロル様の高らかな宣言が、静かな庭園に響いた。
彼女の隣には、侯爵家のクリス様が立っている。
金髪碧眼の美青年。この国で最も美しいとされる男性の一人だ。
そして、最近キャロル様が随分と執心していた男性でもある。
「……承知いたしました」
俺は静かに頭を下げた。
(これで……終わった)
少しだけ、安堵していた。
これで、あの鞭から解放される。
でも同時に、絶望もあった。
婚約破棄された男など、もう誰も相手にしてくれない。
俺の人生は、ここで終わったも同然だ。
(いっそ……)
ふと、暗い考えが頭をよぎる。
(この世から、消えてしまおうか)
どうせ誰も、俺のことなど気にしない。
キャロル様は新しい婚約者と幸せになるだろう。
両親だって、こんな出来の悪い息子はいなくなった方が、せいせいするはずだ。
(……ああ、そうだな)
幸い、この屋敷の近くには湖がある。
深い、深い湖が。
「あ、じゃあ私がもらいます」
その声に、俺は顔を上げた。
そこにいたのは——
(アリシア様……!?)
俺が論文を送った、あのアリシア・シンクレア様だった。
噂に聞いていた美貌は、近くで見ると想像以上だった。
銀色の髪、琥珀色の瞳、凛とした佇まい。
まるで女神のような方。
「……え?」
キャロル様が固まっている。
俺だって、信じられなかった。
何かの間違いではないのか。
(でも……)
もしこれが本当なら。
もし、この方が本当に俺の存在を望むのなら……
(生きていても、いいのか?)
小さな希望が、胸の奥で灯る。
「アリシア様、本当に……よろしいのですか?」
震える声で尋ねる。
夢なら、覚めないでほしい。
「実は以前、あなたが提案された農地改革の計画書を、読ませていただいたことがあるの。四輪作で休耕地をなくすという発想、素晴らしかったわ」
「……!?」
言葉が出ない。
涙が、溢れそうになった。
読んでくださっていた。
それどころか——
「あれだけのアイディアが誰にも評価されないなんて、馬鹿げている」
評価、してくださった。
俺の論文を。
俺の研究を。
今まで誰も——誰一人として、認めてくれなかったのに。
「私と来て。あなたの才能、私が証明してみせる」
「……はい。喜んでっ!」
俺の声は、震えていた。
そんな情けない俺に、アリシア様が微笑む。
その笑顔が、俺には眩しすぎた。
背後でキャロルが何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。
俺の世界は、この瞬間から変わった。
アリシア様が、俺の全てになったのだ。
◇◇◇
こうしてアリシア様と正式に婚約し、俺の人生は一変した。
「まず最初に説明しておくと、公爵領では、性別は関係ありません。優れた能力を持つものが、正当に評価される。それが、我が家の方針です」
「すごい……」
俺は心の底から、そう思った。
「だって、たかがY染色体があるくらいで差別されるなんて、おかしいじゃない……」
「Y染色体……?」
アリシア様が小さく呟いた言葉に、耳慣れない単語があった。
不思議に思って聞き返すと、アリシア様は少し慌てた様子で「なんでもない」とだけおっしゃった。
「と、とにかく。あなたも遠慮なく研究を続けてください。私が、全面的に支援します」
「アリシア様……」
この方は、本当に——
「それと」
アリシア様が少し申し訳なさそうに言った。
「せっかく論文を送ってくれたのに、返事が出来なくてごめんなさい」
「いえ、そんな! 読んでくださっていただけで俺は……」
「ちょっと準備に時間がかかっちゃって……」
「準備?」
「もちろん、実証実験の準備よ。まさかあの計画、机上の空論で終わらせる気じゃないでしょう?」
返事が来なかったのは、無視されたからではなく——実行に移すための段取りをしてくださっていたから。
アリシア様は俺の論文を、こんなにも高く評価してくださっていたのか。
「これからは、色々と忙しくなるわよ」
アリシア様が楽しげに笑う。
それは、計画が失敗するなどとは、微塵も考えていない顔だった。
◇◇◇
アリシア様の支援のおかげで、四輪作計画は公爵領で実施され、大成功を収めた。
冬の間も家畜の飼育が可能となり、食糧不足が解決されたのだ。
その成果は王宮にも報告され——気が付けば、誰もが俺の研究を認めざるを得なくなっていた。
そして、アリシア様は計画の実行と同時に、俺の外見も整えてくださった。
「姿勢は真っ直ぐ! 猫背にならない!」
「は、はい!」
「堂々としていればいいの。あなたにはそれだけの価値があるのだから」
髪を整え、体格に合った服を仕立て、眼鏡を洗練されたデザインに変えてくださった。
鏡の前に立った時、俺は呆然とした。
「……これが、俺?」
「ええ。これが本来のあなたよ」
鏡の中には、見知らぬ男が立っていた。
自信に満ちた立ち姿に、洗練された服装。
これが、本来の俺?
「俺は……ずっと、自分のことが嫌いでした」
思わず、口から本音がこぼれ出る。
「でも、アリシア様は、そんな俺にも価値があると言ってくださった……俺の人生を、変えてくださった」
アリシア様はいつだって俺の目を見て、真剣に話を聞いてくださる。
そんなことをしてくれる人など、誰もいなかったのに。
「全て、あなたのおかげです」
愛しいアリシア様の手にキスをしながら、俺は誓った。
この命、俺のすべてを、アリシア様に捧げると。
——彼女を守るためなら、俺は悪魔にだってなれる。
◇◇◇
アリシア様との結婚生活は、幸せだった。
彼女は俺を対等なパートナーとして扱ってくださる。
研究の相談にも乗ってくださるし、領地経営の意見も求めてくださる。
そしてなにより——俺を一人の男として、愛してくださっている。
時には意見が対立することもあるけれど、アリシア様は決して俺の意見を否定しない。
「なるほど、そういう考え方もあるのね」
そうやって、いつも俺のことを受け止めてくださるのだ。
(この人は、本当に素晴らしい)
俺は毎日、そう思う。
そして同時に——
(この人を、守らなければ)
アリシア様は、優しすぎた。
彼女のあまりにも時代の先を行く考え方を許容できない凡人というものは、どうしても存在する。
一歩領地から外へ出ると、嫉妬からくる陰口など、しょっちゅうだ。
彼女はまったく気にしていないようだが、それを見るたびに、俺の胸に暗い感情が湧き上がる。
(アリシア様を傷つける者は……許さない)
◇◇◇
夜会でキャロルが俺を返せとアリシア様に喚いて、一蹴された後。
異常な目つきをしていたあの女に、嫌な予感がよぎった。
歪んだ心根の女だ。
ろくなことを考えていないとは思ったが、その予想は的中した。
こともあろうに、あの女はアリシア様を陥れる計画を立てていたのだ。
彼女の評判を落とすための嘘に、領地経営の妨害工作。
そして、最終的に——アリシア様をゆっくりと衰弱させ、病死を装った毒殺。
どうやら、アリシア様の成功を妬んだ一部の貴族も、計画に加担しているらしい。
(……まとめて、潰してやる)
まずは、買収したキャロルの侍女から得た情報をもとに、毒薬の売買記録、やりとりされた手紙、不正な金の流れ——できうる限りの証拠を押さえた。
だが、これでは足りない。
キャロルと共謀した貴族たちの分の、決定的証拠が必要だ。
そして、ある日の午後。
俺は一人で、ダーシー伯爵家を訪れた。
「まあ、アーサー! わざわざ私に会いに来てくれたの?」
応接室に通されると、キャロルは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「やっぱり、あなたも私のことが……」
「キャロル様」
俺は彼女の言葉を遮って、手にしていた封筒から書類を取り出した。
「これを」
キャロルが書類を受け取り、目を通す。
その顔色が、みるみる変わっていった。
「こ、これは……」
「ダーシー伯爵家の不正会計の記録の写しです。三代に渡って、ずいぶんと大胆に脱税をしていますね」
キャロルの手が、震えている。
「な、何を言って……これは、ただの……」
「証拠はすべて揃っています。これを王宮に提出すれば、伯爵家は確実に爵位剥奪。最悪の場合、一族全員が投獄されるでしょう」
「そ、そんな……」
キャロルは書類を握りしめると、俺を睨みつけた。
「どうして、こんなことを……!」
「アリシア様を守るためです」
込み上げてくる怒りをなんとか抑え、俺は入手していた毒薬の売買に関する書類を取り出した。
「あなたが、アリシア様を陥れる計画を立てていることは知っています」
「っ!」
机の上に置かれた書類に、キャロルの顔が蒼白になる。
「誰から、聞いたの?」
「それは関係ありません。——重要なのは、俺がその計画のすべてを知っているということです」
沈黙が部屋を支配する。
完全に冷静さを失っているキャロルは、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「……で、どうするつもり? まさか、私を見逃してくれるとでも?」
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「あなたは、必ず罰を受けるべきです」
「だったら……!」
「ただし——もし、あなたが自ら共謀者全員の名前と証拠を提出してくれるなら、この計画に関するあなたの罪は問いません」
キャロルが、小さな希望を見出したような顔をした。
「つまり……」
「この書類の原本はあなたに渡し、不正会計の罪だけで済ませる、ということです」
脱税の悪質性から爵位剥奪は免れないだろうが、斬首刑よりは遥かにマシなはずだ。
「共謀者たちを売れば、私は助かると?」
「ええ、少なくとも、頭と胴体はくっついたままでいられるでしょうね」
俺の言葉に、キャロルは悔しげに唇を噛んだ。
「……この悪魔っ」
「悪魔で結構」
キャロルはしばらく考え込むように口を閉じてから、大きなため息をついた。
「……分かった。私が持っている証拠はすべて渡すわ」
◇◇◇
それから一週間後。
キャロルから得た証拠を元に、共謀者たちは次々と逮捕された。
アリシア様の成功を妬み、彼女を毒殺しようと企んだ貴族たち。
彼らはすべて、王宮の牢獄に収監された。
そしてそれは、キャロルも例外ではなかった。
三代に渡る悪質な脱税。
そしてなにより——女王陛下も目をかけているアリシア様への毒殺を首謀。
この二つの罪で、伯爵家は爵位剥奪の上、キャロルの処刑が確定した。
俺が彼女に渡した証拠はただの写しで、原本はとっくに王宮に提出していたのだ。
ふと、伯爵家へと嫁がれたクリス様の顔が脳裏をよぎる。
美しいだけで中身のない男だったが、悪人ではなかった。
彼は、キャロルの企みなど何も知らなかっただろう。
(……アリシア様はこんな俺のやり方を知ったら、軽蔑するだろうか)
アリシア様が就寝された後、俺は書斎に篭ってそんなことを考えた。
机の上には、キャロルの陰謀に関する全ての証拠書類が積まれている。
これらは全て、王宮に提出したものの写しだ。
俺はそれらを一枚ずつ、暖炉の炎に投げ込んでいった。
「アリシア様の目を、あんな汚物の話で汚すわけにはいかない……」
炎が、書類を灰に変えていく。
キャロルがどれほど卑劣な手段を使おうとしていたか。
どれほど醜い言葉でアリシア様を貶めようとしていたか。
そんなこと、アリシア様は知らなくていい。
「あなたは何も知らず、ただ幸せでいてくれればいい」
最後の書類が灰になる。
証拠は全て消えた。
もうこれで、キャロルが具体的に何を企んでいたのか、彼女が詳細を知ることはできない。
「あなたを傷つけようとする者は——全て、消す」
俺は窓の外、満月を見上げた。
「俺の世界には、アリシア様以外はいらない」
月明かりが、書斎を照らす。
アリシア様は、永遠に何も知らないまま幸せに、俺に愛されて生きていく。
——そのためなら、俺はよろこんで地獄に堕ちよう。
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「逃がさない。今度こそ、全部俺のものだ」
執着の果てに囲われた私は、もう誰も助けない。
裏切った婚約者と妹は、やがて自ら破滅していく。
これは、世界よりも私を選び続けた王子の、狂おしい愛の物語。
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