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永遠の美
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彼女の周りに純白の羽が舞い落ちる。はらはらと、まるで聖女の涙のように、天国に咲く白薔薇の花びらのように。
その中で彼女は笑んでいる。おそらくこれがこの世での最後の別れとなるであろう。そんな時にも彼女は残酷なまでに美しかった。天界からの使いとは、このような姿だと昔死んだ父に彼は教えられたことを思い出した。彼女は変わらず笑んでいる。
その唇が、密やかに何か言葉を紡いだ。それは彼女との最後の会話であり、最後の愛の言葉であろうことは、彼とて解せた。
◆
「どうして……」
それから遡ること一年前、イタリアにあるさる高級ホテルで、彼女は叫んだ。お得意の、少し腹に力を入れたら出てくる、幼き日に鍛えられたドラマティック・ソプラノで。
「どうしてなの……」
彼女は許されるなら絶叫したかった。しかし、出来なかった。すればたちまち、ホテルのベルマンたちがやってきて騒ぎになるであろう。これ以上、余計なことでマスコミと聴衆の耳を楽しませることは避けたかった。しかし。
「どうしてなのよおおおおお」
やはり彼女は叫んだ。我慢ならなかった。気が付けば、さして知らぬ男の隣で裸で眠っている。この異常事態を初めて迎える女は、だれしも同じ反応を示すかもわからない。
彼女はその大きなとび色の瞳をしばたいた。やはり、隣で男が半裸で眠っている。獅子のような髪、ギリシアの神々に愛されたような整えられた顔、筋肉のほどよくついた、褐色の海賊王のような体つき。間違いない。この男は先日パーティーで会った、世界的な海運王だ――。
(落ち着け、落ち着くのよ、私)
マリアは記憶をよろよろと遡ってみた。確かこの男はアリ、とみなに呼ばれていた。世界の海運王にして、ずば抜けた美貌とたくましい身体つきの持ち主。それゆえ、出会った女はみな彼の胸に転ぶ、とまで言われていたのを思い出し、
(やってしまった……)
と心底悔悟した。前の夫で、歌劇団の監督を務めるヴィスからも、
「気をつけろよ。あいつは女を煙草や食後のブランデーとしか思っていない男だぞ」
と念入りに言われていたのに。
王族の招待で貴顕の集まるパーティーに歌姫として呼ばれ、男の前に立った時、何かこう、びびっときてしまったんだろう。手の甲にキスを落とされ、夢中で話しているうちに、ホテルにともに入り、こんなことになってしまった。
「なんでこんなことにいいいいいい」
ヴィスからも常々言われていた。
「お前、酒癖、尋常でなく悪いよ。絶対いつかそれで失敗する気がする」
案の定である。見事に失敗して、今は独身だが、女遊びの悪評が絶たぬ男とこんなことになってしまったのだ。どうして調子に乗ってしまったのだろう、と今更ながら自分の阿呆らしさが厭になる。
(どうしよう。こんなことになってしまって。こんな時、どんな顔したらいいのか誰かに聞いておけばよかったわ)
いや、誰もいないけど、そんな人。と自分で子供みたいなことを思って、ちょっと苦笑して、そんなことしている場合じゃないとはっとした。逃げたい。今、ホテルのトイレにこもったら逃げられるなら、間違いなく何時間もそうしている。たとえこの男が何を言ってきても、だ。
(それにしても……)
マリアはふと、男のあまりに美々しい顔を覗き見た。それは確かに、神々に愛されたように美しく、整えられていた。年は確か三十五、と聞いていたが、それにしては若々しさに溢れていた。自分が二十七、にしてはその、ちょっとたまに四十二に見える、と言われているのは置いといて、だ。
ふいに、男の碧眼がゆるゆると見開かれた。その後で男が微笑を湛え、こちらを見やった。
「おおマリア、お前の媚態や舞台を降りた顔も、なかなかに悪くなかったってぎゃあああ」
その一言にマリアが鼻血を盛大に吹き出し、返り血を浴びたアリが悲鳴を上げる。それをぬぐいぬぐい、アリがまた一言。
「お前、もしかして、その、巷にはまだいるという」
「……そうよ」
アリの苦笑を浮かべる顔を睨みつつ、マリアが絶叫した。
「私はまだこういうことしたことなかったのよっするなら夢のように美しい男と夢のようなベッドでと思ってたのにっこんなカスとこんなところでえええええ」
「わかった。絶叫するな」
マリアの若干ヒステリックなところを垣間見て、可愛いと、思ってしまったのがアリの人生を変えることになる。そうして、マリアのをも。
◆
「どうしてくれんのよおおまたマスコミや持てない男どもに書きたてられるじゃないっあいつは変なところから声出してんだって」
――アリは三十五歳にして世界の海運王に上り詰めた、破格の男である。天才的な経営手腕に、冷酷無慈悲なことこの上なし、顔までいいという、最低にして最高の男を絵に描いたような男である。その男は今、世界の歌姫とベッドを共にし、なぜか枕を投げつけられている。歌姫マリアは枕を破きながら投げつけるので、羽毛が飛び違ってあたりは天使様の光臨のような惨状になった。
このディーヴァとは王侯貴族主催の舞踏会で知り合った。最初見た時は四十二歳かと一瞬目を疑ったが、夜のように黒いうねった髪や、とび色の瞳が時折見開かれるのが、官能的と言えばいえるかとも思った。彼女の表現力と、そして高音のソプラノは全世界に無比と謳われ、その才能は世界史に残る、刻まれるとまで言われた、世界最高の歌姫である。どんな島国であろうと彼女の名を出せばホテルのスイートを用意してくれる、そうまで讃えられた至上の歌姫。
多少、顔はよくなくても、ボディーが豊満すぎても、教養が足りなくても、要するに自分のこよなく嗜好するギリシア的美人でなくても、むらりときてしまった。それが運のつき。今はその彼女に高音でまくしたてられ、枕を投げつけられている。
アリはそうは言っても、女は好きだが、オペラなど大っ嫌いだった。あの金切り声で騒がれるのも、観客のやたらに知識人ぶるのも、
男の遊びを悲劇と言い切る可笑しさも、なにもかもが嫌いだった。ただ上流階級の女たちを誑すのに使える、ただそれだけで嗜んでいたつもりだった。
マリアのこともだから重々しく考えなかった。最初見て、ややふくよかすぎる、そしてこいつは絶対四十二歳、そう思ったのちに、
悪癖で
「やあ、美しい女神さま?」
と彼女を呼んだ。彼女は前の夫と来ていて、はじめは自分を警戒していたらしかったが、酒がすすむと自分にまとわりつくようになった。だからいいのかと思って、ホテルに連れ込んだらこの騒ぎだ。
(俺はそんなに女運悪いつもりはないんだがなあ)
彼は苦笑しながら、枕を投げつける歌姫の両手をとり、キスをしようとして、また抵抗された。
「どうした。俺の美しい歌姫」
「どうしたもこうしたもないわよおっあんたのせいで私、またマスコミに言われるっもう手で彼らを制す動きも飽きられてきたわ」
「でも、君には夫がいたよなあ?」
なのになぜヴァージン?
不思議に思って尋ねると、マリアは紅顔のまま叫んだ。
「あの男は、ヴィスはホモだったのよおっそのカモフラージュに私は使われたってわけっ男嫌いの理由、お分かりになった? このチャラ男めっ」
ははあ、わかったとアリが頷いた。確かに、そういう理由で男嫌いになるのは理解できる。ヴァージンなのもそれゆえ、なのだろう。
「まあ、その、なんだ。泣くな。何が欲しい?金でも、男でも、何でもやるぞ」
そう言いながらアリが煙草に火をつけようとすると、マリアがまた高音で喚いた。
「煙草吸わないでっ歌姫の敵よ! あああ、どうしてこんなことにいい」
「すまない。俺には女神そのものに思えたからな」
「へっ」
アリが平謝りすると、マリアの顔がまた真っ赤に染め上げられた。面白くてついつい言葉を連ねる。
「君は俺にとって世界の誰より美しい」
とか、
「君は無二のディーヴァだ」
など。その言葉を連ねるのは、アリにとって食後のシガレットと同じくらいたやすいことだった。
(騒がれてまたマスコミに書きたてられるのも飽きたしな)
そんな思いも去来するのが、アリの残酷にして女を惹きつける要因だったことだろう。次第にマリアの抵抗がやんできた。
そして彼女は潤んだ瞳を向け、アリにこう言った。
「ねえ、じゃああんた」
「はい」
「責任とって、私の恋人になりなさい」
「はい?」
アリが美々しい顔をしたまま首をひねると、マリアはいつもの決然とした顔と調子を取り戻していた。
「聞こえなかったの? 責任とって、私の恋人になりなさいと言ったのよ。ならなかったら、あんたの性癖あることないことマスコミに話し出すわよ」
アリはしばし言葉を失した後に、
「ぷっ」
と吹き出した。マリアが再び激する。
「何がおかしいのよおっ」
「いや、いまどき、素直に付き合ってくださいも言えない女もいるものかと思ったからね」
「なっ」
マリアが叫びださんとして、その唇をアリが覆った。
「ではなってやろう。俺は君の芸術の源泉となろうではないか」
二人はこうして恋人同士になった。
◆
そうは言っても、このマリア、なかなかに面白い人物だった。
イタリアの高級ブテイック街を歩く時、マリアは執拗にアリの腕に腕を絡めてくる。やめろと言ってもきかない。四六時中キスも求めてくる。
(俺は、何か獰猛な獣を呼び出してしまったのかもしれん)
「なあ、マリア」
サテンの朱のドレスを纏ったマリアへ、アリが微笑を向ける。
「そんなに俺といて、飽きないのか?」
というかレッスンは?
そうまで踏み込んで訊いても、マリアは首を振って自分に顔を押し付けてくる。
「平気よ! 私、初めて人をこんなにまで愛したのよ。だから何もいらないの。世界で一番幸福なのよって、人に言いふらしたいくらい」
こいつ、よっぽど男運なかったんだな……哀れにも思ったが、アリは続けてこう試練を課した。
「へえ、じゃあ俺がどこへ行こうと、一緒に行ってくれるね」
「ええ、もちろんよ」
マリアが快諾したので、アリがタクシーを止めて、ある場所へマリアを連れ出した。
◆
「アリ、ここは?」
マリアはその場所へ連れ出されて、不思議そうな顔をアリに向けた。そこは場末の飲み屋だった。粗末な木製のテーブルに椅子、そこにぎっしりと貧しい男、おんなが詰め込まれている。常に大理石の床を歩んできたマリアには珍しくてならなかった。けれど毛皮を身に着けた格のあるマリアには、この場所はいかにも不釣り合いとみえた。マリアも思わず疑問を呈する。
「アリ、ここは一体どんなところなの? どうして、私をここへ……」
アリが心底嬉しそうに呟いた。
「ここに来ると俺は俺に戻れるんだよ」
「よお、アリ!」
マリアが困惑している合間にも、鬚をたくわえた男たちの輪に混じり、アリはすぐさま溶け込んでいってしまった。
マリアは全く……と思いながら、彼の横に立ち尽くす。出ていったりしなかったのは、アリが心底楽しそうに男たちと会話していたからだった。彼の素顔なんて初めて見る。本当に子どもっぽくて、無邪気な笑顔をみなに見せていた。そして彼の気持ちが少しわかった。常に上流階級に包まれている時の、そこにいる人の顔は、笑顔を貼りつけたような、上品なうすっぺらいものだった。しかしここにいる男たちは、炭鉱夫らしく、煤まみれの顔で一生懸命働いてきたような感じを与える。その男たちがまったく打算なく、楽しそうに笑っているのが、常にメリットデメリットで近づいてくる者たちに囲まれたアリには新鮮に映るのだろう。
「おい、そこの金持ちそうなねーちゃん!」
「え、あ、はい」
その時、突然アリと酒を酌み交わしていた男の一人が、マリアを手招いた。何ごとかと寄っていく。
「あんた、アリによれば歌姫らしいな。どうだ。何か歌う気はないか」
「えっ」
「いいじゃねえか! 歌え歌えっ」
鬚のもじゃもじゃした男たちにわめかれ、アリからも頼むよ、と目くばせされ、マリアは仕方なく粗野なステージに立った。そこから本当に楽しくて仕方ない、といった風のアリを見つめ、マリアは歌いだした。椿姫の一節、高級娼婦ヴィオレッタが、アルフレードに恋されて、愛を告白されるシーンの二重唱【ある幸せな日に】。最初は笑いながら手拍子を叩いていた観客たちだったが、そのちに圧倒され、聞き入って、最後にはみなが揃って泣き出した。みなの歔欷によってマリアは役目を終えたことを知った。マリアが歌をやめると、みなが集まって泣きながら握手を求めた。嬉しそうなアリの周りに男たちが集う。
「にーちゃん、すごいの連れてるなあ」
「だろう? 俺の自慢なんだ」
それを聞くとマリアは、小さく笑みがこぼれてしまって、慌ててそれをかき消した。それから始まる飲み会は実に楽しい時間だった。
◆
それからも二人の睦まじい仲は続いていた。それに不協和音が混じり始めたのは、ある国の大統領元夫人が主催した、舞踏会での日のことだった。
それには客の一人としてアリが、場を盛り上げる歌劇団の歌姫としてマリアが呼ばれていた。二人の仲はそんな公になっていなかったから、二人は百は超える招待客のなか、眼が合うと微笑みあい、また眼を離した。
それでもマリアの瞳はアリから離せそうになかった。タキシードを纏った長身のアリはなんて美しいのだろう! 女たちがみなアリを見つめて頬を染める。どんな女であろうと、である。
(またあの男の悪い癖が出なければいいわ)
マリアがそう願うまでもなく、アリの悪癖は最近なりを潜めていた。愛しているがゆえに、不安になるのだ。
「ごきげんよう、アリ。楽しんでいる?」
そこへ、金色の床を歩いて、一人の美しい、ギリシア風美人がアリの傍に寄った。元大統領夫人、ジャクリーン、通称ジャッキーであった。
(まあ、ジャッキーだわ)
ブロンド碧眼のジャッキーはその美貌と知性で、みなの人気者だった。名誉もあった。ジャッキーの死んだ夫は大国の元の大統領であったから。
美しく、スタイルもよく、話もうまい。
(しかも未亡人……彼の好みだわ。アリは大丈夫かしら)
案の定であった。悪癖をおさえていたアリも、さすがにこの美女相手にはお世辞の一つも言うらしく、二人は実に仲睦まじく話していた。そんな時にも自分は、客の注文で大広間で歌うことしか出来ない。
いたたまれなくなって、マリアは歌の途中で庭へ駆けだしてしまった。
◆
「うっ……ひっく、ひっく」
マリアが一人、薔薇の咲く庭で肩を震わせ泣いていると、そのそばに煙草と酒の匂いが近づいた。
「おい、歌の途中で逃げ出す馬鹿があるか」
マリアが涙で濡れた顔をアリにもたげる。アリはまたいつもの苦笑を浮かべていた。腕を組みながら。
「何泣いているんだ。なんだ、すねているのか」
「ど、どうせ」
英国庭園風の庭園に咲く白薔薇のなか、マリアが迸るように叫んだ。
「どうせ私は教養もなくて、ふくよかなただの歌姫よっ! あんたなんてあの綺麗なジャッキーと遊んでいたらいいんだわ」
「俺にはお前はジャクリーンより綺麗に見えるがね」
この一言に、マリアが泣きじゃくるのをやめて、また顔を赤らめた。それから、
「もうっあんたなんて大っ嫌いよ!」
そう喚いてまた舞台に戻った。アリは一人残されて苦笑している。
「ほんと、馬鹿な女……」
「ええ、そうでしょうとも」
そのアリに話しかけてきた男がある。
「あんたは……」
「マリアの前の夫、ですよ」
その男はヴィスであった。ヴィスは白いひげを揺らして語りだす。
「あなたには言いましょう。あの女は今幸福でいっぱいいっぱいになっているんです。だから歌声に深みがなくなってしまった。あのままいけば世紀の歌姫になれるはずだったのに」
「……」
ヴィスの独白に似た台詞は続いた。
「このままではただの歌姫にも成り下がる……あの女は不幸を糧に歌っていたのに」
それをアリは、言いようのない感情で聞いていた。
◆
その日、二人はまたホテルにいた。ベッドの中に隣り合いながら、アリが呟くように問うた。
「なあ、マリア」
「なによ」
「俺が別れたいって言ったらどうする」
これにマリアが身を半ば起こし、隣のアリの頬に手をやった。
「殺すわ」
それからひっそりと囁くように。
「そして私も死ぬの」
「そんなに俺が好きか。芸術よりも、歌姫としての栄誉よりも?」
これにマリアがしばし、黙った。歌姫としての栄誉。ステージで歌声を響かせる愉楽。カーテンコールで自分だけが呼び出され、いつまでも舞台袖にひっこめられない言いようのない喜び。それらは至上のものである。しかし、マリアは言い切った。
「ええ、最初はあんたを、とんでもない男だと思ったわ。けれど今は、あなたが、世界で唯一の男だもの」
マリアの声はレッスンを休んで舞台に出るせいか、少しかすれていた。アリが煙草を吸うと、それをもぎとって自分も吸うようになった。そのせいか声はますます荒れた。それでもマリアは何度だってアリに囁いた。
「私は世界で一番幸福なのよ」
と。
◆
気が付けばアリはジャッキーと隠れて付き合うようになっていた。マリアの重たい愛情を厭になった訳ではない。まして、ジャッキーの元大統領夫人という肩書に惚れた訳でもない。ただの気まぐれ、だった。だからジャッキーがある日ベッドで、
「ねえ、アリ、結婚して頂戴よ」
と願ったとき、頷いた己の心の動きには、自分さえ驚いたほどだった。ジャッキーの顔に恍惚が浮かんだ。あるいは自分の顔にも、それは張り付いていると思った。
ジャッキーが微笑を浮かべる。
「私は世界で一番幸福ね」
と。
◆
マリアはうすうす感付いていた。自分の愛した男が冷たくなって、他の女に心奪われていることを。それを歌姫として見つめているしかなかったマリアの苦悩は、果てしがなかった。彼女は荒れた。荒れて荒れて、酒を飲み、熱にうかされるようにレッスンを続けた。最後には歌に戻ってきたのだ。自分には歌しかない。男と金と名誉は自分を裏切るが、歌は、努力は自分を裏切らない。それからの彼女の歌には皮肉なことに深みが増した。カーテンコールで、足を踏み鳴らす音とともに自分の名が呼ばれたとき、マリアの心は、かつてあの男と体感したことのない快楽と喜びが兆していることに、気が付いた。それはアリを失って入り込んできたものである。あるいは天命と呼ぶべきものである。唯一無二の、ものである。
そしてついに、その日はやってきた。
過酷なレッスンを終え、マリアがふらふらしながら城のような劇場から出てくると、前の夫であるヴィスが、まろぶような勢いで駆けてきた。
「マリア、ついにこの日が来てしまったよ」
「ええ、なあに?」
「アリとジャッキーが、結婚するんだそうだ。もう披露宴の会場もモナコにとってある。お前さんはその席で歌うだろうね。元の恋人の船出だ、もちろんだろうね」
――マリアはしばし黙していた。何を考えていたのかは分からない。一瞬、ヴィスは彼女が凍ってしまったのかと思った。氷上の彫像のように。けれど、彼女はややあって息を吹き返した、かのように思えた。
「ええ、もちろんよ」
それからこの上なく優雅に、微笑んだ。
「もちろん、歌うわ。私にはそれしかないもの」
◆
マリアがモナコへ立つ直前、イタリアでの最後の舞台があった。マリアが黒のサテンドレスに身を包み、控室で出番を待っていると。突然、ヴィスのせわしい声が聞こえてきた。
「ちょっと困りますよ! あなたはもう結婚が決まったじゃないか」
それでも男は構わず、マリアの元に駆け付けた。控室のドアを開けたのはアリだった。アリは常に似ず、冷たい美貌を熱に上気させ、急いた声音で言った。
「マリア、お前は俺を許してくれないだろうね」
「結婚おめでとう。それで、なんのことかしら」
「俺が結婚するとなったら、お前は俺にすがって泣いてくれると思っていた」
「そんなこと、いたしませんわ」
「だが俺は、お前だけを愛しているよ。これから先も、ずっと、ずっとだ。誓いの言葉もほら、書いてきたんだ」
アリの名前が記された愛の手紙と、そして小切手を、マリアは半ば無理やり手渡された。じっと見た後に、マリアはそれを持つ手に力を込めた。
「私は、無情なまでに歌姫なのよ」
手紙は引き裂かれ、白い天使の羽のようにあたりに飛び違った。その中で微笑む彼女は、アリには天使のように見えた。いつか父が言っていた、天使そのものだった。
「愛していたわ。さようなら、アリ」
それから彼女は、ドレスの裾を引き連れて優雅な足取りで舞台へ出ていった。
◆
それから間もなく、マリアは日本での公演を終えてパリで死んだ。心臓発作とも、毒殺ともいわれているが、詳しい死の真相は分かっていない。アリは、長生きをした。ある夜、あの貧しい酒場でこう問われたことがある。
「あの、あんたの歌姫はどこへ行ってしまったんだい」
アリは微笑して答えた。
「ああ、あの女は神にささげちまったよ」
その中で彼女は笑んでいる。おそらくこれがこの世での最後の別れとなるであろう。そんな時にも彼女は残酷なまでに美しかった。天界からの使いとは、このような姿だと昔死んだ父に彼は教えられたことを思い出した。彼女は変わらず笑んでいる。
その唇が、密やかに何か言葉を紡いだ。それは彼女との最後の会話であり、最後の愛の言葉であろうことは、彼とて解せた。
◆
「どうして……」
それから遡ること一年前、イタリアにあるさる高級ホテルで、彼女は叫んだ。お得意の、少し腹に力を入れたら出てくる、幼き日に鍛えられたドラマティック・ソプラノで。
「どうしてなの……」
彼女は許されるなら絶叫したかった。しかし、出来なかった。すればたちまち、ホテルのベルマンたちがやってきて騒ぎになるであろう。これ以上、余計なことでマスコミと聴衆の耳を楽しませることは避けたかった。しかし。
「どうしてなのよおおおおお」
やはり彼女は叫んだ。我慢ならなかった。気が付けば、さして知らぬ男の隣で裸で眠っている。この異常事態を初めて迎える女は、だれしも同じ反応を示すかもわからない。
彼女はその大きなとび色の瞳をしばたいた。やはり、隣で男が半裸で眠っている。獅子のような髪、ギリシアの神々に愛されたような整えられた顔、筋肉のほどよくついた、褐色の海賊王のような体つき。間違いない。この男は先日パーティーで会った、世界的な海運王だ――。
(落ち着け、落ち着くのよ、私)
マリアは記憶をよろよろと遡ってみた。確かこの男はアリ、とみなに呼ばれていた。世界の海運王にして、ずば抜けた美貌とたくましい身体つきの持ち主。それゆえ、出会った女はみな彼の胸に転ぶ、とまで言われていたのを思い出し、
(やってしまった……)
と心底悔悟した。前の夫で、歌劇団の監督を務めるヴィスからも、
「気をつけろよ。あいつは女を煙草や食後のブランデーとしか思っていない男だぞ」
と念入りに言われていたのに。
王族の招待で貴顕の集まるパーティーに歌姫として呼ばれ、男の前に立った時、何かこう、びびっときてしまったんだろう。手の甲にキスを落とされ、夢中で話しているうちに、ホテルにともに入り、こんなことになってしまった。
「なんでこんなことにいいいいいい」
ヴィスからも常々言われていた。
「お前、酒癖、尋常でなく悪いよ。絶対いつかそれで失敗する気がする」
案の定である。見事に失敗して、今は独身だが、女遊びの悪評が絶たぬ男とこんなことになってしまったのだ。どうして調子に乗ってしまったのだろう、と今更ながら自分の阿呆らしさが厭になる。
(どうしよう。こんなことになってしまって。こんな時、どんな顔したらいいのか誰かに聞いておけばよかったわ)
いや、誰もいないけど、そんな人。と自分で子供みたいなことを思って、ちょっと苦笑して、そんなことしている場合じゃないとはっとした。逃げたい。今、ホテルのトイレにこもったら逃げられるなら、間違いなく何時間もそうしている。たとえこの男が何を言ってきても、だ。
(それにしても……)
マリアはふと、男のあまりに美々しい顔を覗き見た。それは確かに、神々に愛されたように美しく、整えられていた。年は確か三十五、と聞いていたが、それにしては若々しさに溢れていた。自分が二十七、にしてはその、ちょっとたまに四十二に見える、と言われているのは置いといて、だ。
ふいに、男の碧眼がゆるゆると見開かれた。その後で男が微笑を湛え、こちらを見やった。
「おおマリア、お前の媚態や舞台を降りた顔も、なかなかに悪くなかったってぎゃあああ」
その一言にマリアが鼻血を盛大に吹き出し、返り血を浴びたアリが悲鳴を上げる。それをぬぐいぬぐい、アリがまた一言。
「お前、もしかして、その、巷にはまだいるという」
「……そうよ」
アリの苦笑を浮かべる顔を睨みつつ、マリアが絶叫した。
「私はまだこういうことしたことなかったのよっするなら夢のように美しい男と夢のようなベッドでと思ってたのにっこんなカスとこんなところでえええええ」
「わかった。絶叫するな」
マリアの若干ヒステリックなところを垣間見て、可愛いと、思ってしまったのがアリの人生を変えることになる。そうして、マリアのをも。
◆
「どうしてくれんのよおおまたマスコミや持てない男どもに書きたてられるじゃないっあいつは変なところから声出してんだって」
――アリは三十五歳にして世界の海運王に上り詰めた、破格の男である。天才的な経営手腕に、冷酷無慈悲なことこの上なし、顔までいいという、最低にして最高の男を絵に描いたような男である。その男は今、世界の歌姫とベッドを共にし、なぜか枕を投げつけられている。歌姫マリアは枕を破きながら投げつけるので、羽毛が飛び違ってあたりは天使様の光臨のような惨状になった。
このディーヴァとは王侯貴族主催の舞踏会で知り合った。最初見た時は四十二歳かと一瞬目を疑ったが、夜のように黒いうねった髪や、とび色の瞳が時折見開かれるのが、官能的と言えばいえるかとも思った。彼女の表現力と、そして高音のソプラノは全世界に無比と謳われ、その才能は世界史に残る、刻まれるとまで言われた、世界最高の歌姫である。どんな島国であろうと彼女の名を出せばホテルのスイートを用意してくれる、そうまで讃えられた至上の歌姫。
多少、顔はよくなくても、ボディーが豊満すぎても、教養が足りなくても、要するに自分のこよなく嗜好するギリシア的美人でなくても、むらりときてしまった。それが運のつき。今はその彼女に高音でまくしたてられ、枕を投げつけられている。
アリはそうは言っても、女は好きだが、オペラなど大っ嫌いだった。あの金切り声で騒がれるのも、観客のやたらに知識人ぶるのも、
男の遊びを悲劇と言い切る可笑しさも、なにもかもが嫌いだった。ただ上流階級の女たちを誑すのに使える、ただそれだけで嗜んでいたつもりだった。
マリアのこともだから重々しく考えなかった。最初見て、ややふくよかすぎる、そしてこいつは絶対四十二歳、そう思ったのちに、
悪癖で
「やあ、美しい女神さま?」
と彼女を呼んだ。彼女は前の夫と来ていて、はじめは自分を警戒していたらしかったが、酒がすすむと自分にまとわりつくようになった。だからいいのかと思って、ホテルに連れ込んだらこの騒ぎだ。
(俺はそんなに女運悪いつもりはないんだがなあ)
彼は苦笑しながら、枕を投げつける歌姫の両手をとり、キスをしようとして、また抵抗された。
「どうした。俺の美しい歌姫」
「どうしたもこうしたもないわよおっあんたのせいで私、またマスコミに言われるっもう手で彼らを制す動きも飽きられてきたわ」
「でも、君には夫がいたよなあ?」
なのになぜヴァージン?
不思議に思って尋ねると、マリアは紅顔のまま叫んだ。
「あの男は、ヴィスはホモだったのよおっそのカモフラージュに私は使われたってわけっ男嫌いの理由、お分かりになった? このチャラ男めっ」
ははあ、わかったとアリが頷いた。確かに、そういう理由で男嫌いになるのは理解できる。ヴァージンなのもそれゆえ、なのだろう。
「まあ、その、なんだ。泣くな。何が欲しい?金でも、男でも、何でもやるぞ」
そう言いながらアリが煙草に火をつけようとすると、マリアがまた高音で喚いた。
「煙草吸わないでっ歌姫の敵よ! あああ、どうしてこんなことにいい」
「すまない。俺には女神そのものに思えたからな」
「へっ」
アリが平謝りすると、マリアの顔がまた真っ赤に染め上げられた。面白くてついつい言葉を連ねる。
「君は俺にとって世界の誰より美しい」
とか、
「君は無二のディーヴァだ」
など。その言葉を連ねるのは、アリにとって食後のシガレットと同じくらいたやすいことだった。
(騒がれてまたマスコミに書きたてられるのも飽きたしな)
そんな思いも去来するのが、アリの残酷にして女を惹きつける要因だったことだろう。次第にマリアの抵抗がやんできた。
そして彼女は潤んだ瞳を向け、アリにこう言った。
「ねえ、じゃああんた」
「はい」
「責任とって、私の恋人になりなさい」
「はい?」
アリが美々しい顔をしたまま首をひねると、マリアはいつもの決然とした顔と調子を取り戻していた。
「聞こえなかったの? 責任とって、私の恋人になりなさいと言ったのよ。ならなかったら、あんたの性癖あることないことマスコミに話し出すわよ」
アリはしばし言葉を失した後に、
「ぷっ」
と吹き出した。マリアが再び激する。
「何がおかしいのよおっ」
「いや、いまどき、素直に付き合ってくださいも言えない女もいるものかと思ったからね」
「なっ」
マリアが叫びださんとして、その唇をアリが覆った。
「ではなってやろう。俺は君の芸術の源泉となろうではないか」
二人はこうして恋人同士になった。
◆
そうは言っても、このマリア、なかなかに面白い人物だった。
イタリアの高級ブテイック街を歩く時、マリアは執拗にアリの腕に腕を絡めてくる。やめろと言ってもきかない。四六時中キスも求めてくる。
(俺は、何か獰猛な獣を呼び出してしまったのかもしれん)
「なあ、マリア」
サテンの朱のドレスを纏ったマリアへ、アリが微笑を向ける。
「そんなに俺といて、飽きないのか?」
というかレッスンは?
そうまで踏み込んで訊いても、マリアは首を振って自分に顔を押し付けてくる。
「平気よ! 私、初めて人をこんなにまで愛したのよ。だから何もいらないの。世界で一番幸福なのよって、人に言いふらしたいくらい」
こいつ、よっぽど男運なかったんだな……哀れにも思ったが、アリは続けてこう試練を課した。
「へえ、じゃあ俺がどこへ行こうと、一緒に行ってくれるね」
「ええ、もちろんよ」
マリアが快諾したので、アリがタクシーを止めて、ある場所へマリアを連れ出した。
◆
「アリ、ここは?」
マリアはその場所へ連れ出されて、不思議そうな顔をアリに向けた。そこは場末の飲み屋だった。粗末な木製のテーブルに椅子、そこにぎっしりと貧しい男、おんなが詰め込まれている。常に大理石の床を歩んできたマリアには珍しくてならなかった。けれど毛皮を身に着けた格のあるマリアには、この場所はいかにも不釣り合いとみえた。マリアも思わず疑問を呈する。
「アリ、ここは一体どんなところなの? どうして、私をここへ……」
アリが心底嬉しそうに呟いた。
「ここに来ると俺は俺に戻れるんだよ」
「よお、アリ!」
マリアが困惑している合間にも、鬚をたくわえた男たちの輪に混じり、アリはすぐさま溶け込んでいってしまった。
マリアは全く……と思いながら、彼の横に立ち尽くす。出ていったりしなかったのは、アリが心底楽しそうに男たちと会話していたからだった。彼の素顔なんて初めて見る。本当に子どもっぽくて、無邪気な笑顔をみなに見せていた。そして彼の気持ちが少しわかった。常に上流階級に包まれている時の、そこにいる人の顔は、笑顔を貼りつけたような、上品なうすっぺらいものだった。しかしここにいる男たちは、炭鉱夫らしく、煤まみれの顔で一生懸命働いてきたような感じを与える。その男たちがまったく打算なく、楽しそうに笑っているのが、常にメリットデメリットで近づいてくる者たちに囲まれたアリには新鮮に映るのだろう。
「おい、そこの金持ちそうなねーちゃん!」
「え、あ、はい」
その時、突然アリと酒を酌み交わしていた男の一人が、マリアを手招いた。何ごとかと寄っていく。
「あんた、アリによれば歌姫らしいな。どうだ。何か歌う気はないか」
「えっ」
「いいじゃねえか! 歌え歌えっ」
鬚のもじゃもじゃした男たちにわめかれ、アリからも頼むよ、と目くばせされ、マリアは仕方なく粗野なステージに立った。そこから本当に楽しくて仕方ない、といった風のアリを見つめ、マリアは歌いだした。椿姫の一節、高級娼婦ヴィオレッタが、アルフレードに恋されて、愛を告白されるシーンの二重唱【ある幸せな日に】。最初は笑いながら手拍子を叩いていた観客たちだったが、そのちに圧倒され、聞き入って、最後にはみなが揃って泣き出した。みなの歔欷によってマリアは役目を終えたことを知った。マリアが歌をやめると、みなが集まって泣きながら握手を求めた。嬉しそうなアリの周りに男たちが集う。
「にーちゃん、すごいの連れてるなあ」
「だろう? 俺の自慢なんだ」
それを聞くとマリアは、小さく笑みがこぼれてしまって、慌ててそれをかき消した。それから始まる飲み会は実に楽しい時間だった。
◆
それからも二人の睦まじい仲は続いていた。それに不協和音が混じり始めたのは、ある国の大統領元夫人が主催した、舞踏会での日のことだった。
それには客の一人としてアリが、場を盛り上げる歌劇団の歌姫としてマリアが呼ばれていた。二人の仲はそんな公になっていなかったから、二人は百は超える招待客のなか、眼が合うと微笑みあい、また眼を離した。
それでもマリアの瞳はアリから離せそうになかった。タキシードを纏った長身のアリはなんて美しいのだろう! 女たちがみなアリを見つめて頬を染める。どんな女であろうと、である。
(またあの男の悪い癖が出なければいいわ)
マリアがそう願うまでもなく、アリの悪癖は最近なりを潜めていた。愛しているがゆえに、不安になるのだ。
「ごきげんよう、アリ。楽しんでいる?」
そこへ、金色の床を歩いて、一人の美しい、ギリシア風美人がアリの傍に寄った。元大統領夫人、ジャクリーン、通称ジャッキーであった。
(まあ、ジャッキーだわ)
ブロンド碧眼のジャッキーはその美貌と知性で、みなの人気者だった。名誉もあった。ジャッキーの死んだ夫は大国の元の大統領であったから。
美しく、スタイルもよく、話もうまい。
(しかも未亡人……彼の好みだわ。アリは大丈夫かしら)
案の定であった。悪癖をおさえていたアリも、さすがにこの美女相手にはお世辞の一つも言うらしく、二人は実に仲睦まじく話していた。そんな時にも自分は、客の注文で大広間で歌うことしか出来ない。
いたたまれなくなって、マリアは歌の途中で庭へ駆けだしてしまった。
◆
「うっ……ひっく、ひっく」
マリアが一人、薔薇の咲く庭で肩を震わせ泣いていると、そのそばに煙草と酒の匂いが近づいた。
「おい、歌の途中で逃げ出す馬鹿があるか」
マリアが涙で濡れた顔をアリにもたげる。アリはまたいつもの苦笑を浮かべていた。腕を組みながら。
「何泣いているんだ。なんだ、すねているのか」
「ど、どうせ」
英国庭園風の庭園に咲く白薔薇のなか、マリアが迸るように叫んだ。
「どうせ私は教養もなくて、ふくよかなただの歌姫よっ! あんたなんてあの綺麗なジャッキーと遊んでいたらいいんだわ」
「俺にはお前はジャクリーンより綺麗に見えるがね」
この一言に、マリアが泣きじゃくるのをやめて、また顔を赤らめた。それから、
「もうっあんたなんて大っ嫌いよ!」
そう喚いてまた舞台に戻った。アリは一人残されて苦笑している。
「ほんと、馬鹿な女……」
「ええ、そうでしょうとも」
そのアリに話しかけてきた男がある。
「あんたは……」
「マリアの前の夫、ですよ」
その男はヴィスであった。ヴィスは白いひげを揺らして語りだす。
「あなたには言いましょう。あの女は今幸福でいっぱいいっぱいになっているんです。だから歌声に深みがなくなってしまった。あのままいけば世紀の歌姫になれるはずだったのに」
「……」
ヴィスの独白に似た台詞は続いた。
「このままではただの歌姫にも成り下がる……あの女は不幸を糧に歌っていたのに」
それをアリは、言いようのない感情で聞いていた。
◆
その日、二人はまたホテルにいた。ベッドの中に隣り合いながら、アリが呟くように問うた。
「なあ、マリア」
「なによ」
「俺が別れたいって言ったらどうする」
これにマリアが身を半ば起こし、隣のアリの頬に手をやった。
「殺すわ」
それからひっそりと囁くように。
「そして私も死ぬの」
「そんなに俺が好きか。芸術よりも、歌姫としての栄誉よりも?」
これにマリアがしばし、黙った。歌姫としての栄誉。ステージで歌声を響かせる愉楽。カーテンコールで自分だけが呼び出され、いつまでも舞台袖にひっこめられない言いようのない喜び。それらは至上のものである。しかし、マリアは言い切った。
「ええ、最初はあんたを、とんでもない男だと思ったわ。けれど今は、あなたが、世界で唯一の男だもの」
マリアの声はレッスンを休んで舞台に出るせいか、少しかすれていた。アリが煙草を吸うと、それをもぎとって自分も吸うようになった。そのせいか声はますます荒れた。それでもマリアは何度だってアリに囁いた。
「私は世界で一番幸福なのよ」
と。
◆
気が付けばアリはジャッキーと隠れて付き合うようになっていた。マリアの重たい愛情を厭になった訳ではない。まして、ジャッキーの元大統領夫人という肩書に惚れた訳でもない。ただの気まぐれ、だった。だからジャッキーがある日ベッドで、
「ねえ、アリ、結婚して頂戴よ」
と願ったとき、頷いた己の心の動きには、自分さえ驚いたほどだった。ジャッキーの顔に恍惚が浮かんだ。あるいは自分の顔にも、それは張り付いていると思った。
ジャッキーが微笑を浮かべる。
「私は世界で一番幸福ね」
と。
◆
マリアはうすうす感付いていた。自分の愛した男が冷たくなって、他の女に心奪われていることを。それを歌姫として見つめているしかなかったマリアの苦悩は、果てしがなかった。彼女は荒れた。荒れて荒れて、酒を飲み、熱にうかされるようにレッスンを続けた。最後には歌に戻ってきたのだ。自分には歌しかない。男と金と名誉は自分を裏切るが、歌は、努力は自分を裏切らない。それからの彼女の歌には皮肉なことに深みが増した。カーテンコールで、足を踏み鳴らす音とともに自分の名が呼ばれたとき、マリアの心は、かつてあの男と体感したことのない快楽と喜びが兆していることに、気が付いた。それはアリを失って入り込んできたものである。あるいは天命と呼ぶべきものである。唯一無二の、ものである。
そしてついに、その日はやってきた。
過酷なレッスンを終え、マリアがふらふらしながら城のような劇場から出てくると、前の夫であるヴィスが、まろぶような勢いで駆けてきた。
「マリア、ついにこの日が来てしまったよ」
「ええ、なあに?」
「アリとジャッキーが、結婚するんだそうだ。もう披露宴の会場もモナコにとってある。お前さんはその席で歌うだろうね。元の恋人の船出だ、もちろんだろうね」
――マリアはしばし黙していた。何を考えていたのかは分からない。一瞬、ヴィスは彼女が凍ってしまったのかと思った。氷上の彫像のように。けれど、彼女はややあって息を吹き返した、かのように思えた。
「ええ、もちろんよ」
それからこの上なく優雅に、微笑んだ。
「もちろん、歌うわ。私にはそれしかないもの」
◆
マリアがモナコへ立つ直前、イタリアでの最後の舞台があった。マリアが黒のサテンドレスに身を包み、控室で出番を待っていると。突然、ヴィスのせわしい声が聞こえてきた。
「ちょっと困りますよ! あなたはもう結婚が決まったじゃないか」
それでも男は構わず、マリアの元に駆け付けた。控室のドアを開けたのはアリだった。アリは常に似ず、冷たい美貌を熱に上気させ、急いた声音で言った。
「マリア、お前は俺を許してくれないだろうね」
「結婚おめでとう。それで、なんのことかしら」
「俺が結婚するとなったら、お前は俺にすがって泣いてくれると思っていた」
「そんなこと、いたしませんわ」
「だが俺は、お前だけを愛しているよ。これから先も、ずっと、ずっとだ。誓いの言葉もほら、書いてきたんだ」
アリの名前が記された愛の手紙と、そして小切手を、マリアは半ば無理やり手渡された。じっと見た後に、マリアはそれを持つ手に力を込めた。
「私は、無情なまでに歌姫なのよ」
手紙は引き裂かれ、白い天使の羽のようにあたりに飛び違った。その中で微笑む彼女は、アリには天使のように見えた。いつか父が言っていた、天使そのものだった。
「愛していたわ。さようなら、アリ」
それから彼女は、ドレスの裾を引き連れて優雅な足取りで舞台へ出ていった。
◆
それから間もなく、マリアは日本での公演を終えてパリで死んだ。心臓発作とも、毒殺ともいわれているが、詳しい死の真相は分かっていない。アリは、長生きをした。ある夜、あの貧しい酒場でこう問われたことがある。
「あの、あんたの歌姫はどこへ行ってしまったんだい」
アリは微笑して答えた。
「ああ、あの女は神にささげちまったよ」
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