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あなたは誰のもの?
しおりを挟む【その顔は、月光に恍惚に染まって】
――それは考えてみれば妙な話だった。この塔に来る時は、決まって青白い死人の顔のような月が、闇夜におぼめいていた。黒雲が夜の空を優雅に闊歩する。ああ、また月が食まれていく。見えなくなりそうになる。
途端に、姫の女らしい媚態も、喜びに泣き叫ぶ声もいよよ絶える。
(終わったか……)
姫付きの女騎士ヴェル・ナイトをつとめるトゥエラは大きく息をついた。その上背のある端正な身のこなしが、今日の装いに不思議なほど似つかわしく、また悲壮な感じを強める。青地に金糸で縫い取られた軍服は、上のジャケットはただの騎士と変わりないが、その下は膝上のタイトなスカートになっており、王属の騎士団の一部より
「さすが王女付きの騎士気取りのヴェル・ナイト、スカートは忘れてこなかったようだな」と揶揄されたのを、トゥエラが一刀のもとに斬り捨てようとしたこともある。その後で決闘という形を取られたが、さしたる時間もかからず、トゥエラの圧勝で終わった。剣戟は二太刀ほどで済み、彼女は大した労力も払わず、その無礼な騎士の首を刎ねた。本来、騎士を女騎士が殺めるのはいかがなものだと取りざたされるのが常だが、このフィッツランドでは違った。何の呪いか、王家の跡継ぎに王女しか生まれなかったこの国では、老いた国王を差し置いても王女の臣が一等偉いと目されていた。それらを率いるトゥエラこそが、姫の御心に一番添いその願いを叶えることを託された人物と言えた。
(しかし、まさかこんなことになるとは……)
銀の長髪を風になびかせ、古びて灰の色に朽ちた塔の一室の前をうろつきながら、トゥエラは途方に暮れた。
(ああ、きっとこの部屋での逢瀬が露見したら、私はもちろん、姫とて無論ただではすむまい。なのに私はどうして……)
「もし。ヴェル・ナイト様、どうぞ、こちらにてお待ちくださいませ」
突然の老女のしおれた声に、トゥエラは少し驚いた風を見せて、振り返った。
「今、姫君様の身繕いをいたしますゆえ」
そう言って、年を重ねた白髪頭の老女は、姫君の、散々乱されたであろうドレスを直しに部屋へ入った。男はまだ出てこない。
この姫君の秘密の逢瀬は、もうじき終焉を迎える。もう間もなく、姫君はフィッツランド第五王女として、政略の為の結婚を強いられるのだ。姫君は母方の出自が低く、いつもドア近くの席に座らせられ、ドレスもお下がりの、流行から外れたものがあてがわれた。一応は王女であり、それなりの名誉、環境は与えられたうえ、トゥエラもついていたが、所詮は籠の中の鳥だった。そのような生活が十八年と続き、やがては二十五歳年上の王家昵懇の侯爵がもとへ嫁ぐ。
(両陛下は今まで姫へまるで見向きもしなかったうえ、最後まで道具のように使われるとは……姫様があまりに不憫でかなわぬ)
その意を察したか、姫の身の上に同情した侍女たちは、護衛ゆえに常にそばに立つトゥエラに懇願して、姫とお忍びで街を歩くことがあった。このフィッツランド特有の、オレンジ屋根のどこまでも続く様を、丘の上より見下ろして、姫も姫付きの侍女も感嘆の声をあげた。夕闇が迫れば、ひとつ、ひとつ、と家々にランプがともり、それはやがて宝石をちりばめたように光を放った。自由を知らぬ姫は泣いていた。
そんな中でいつしか、その男と姫君は出会っていた。
「侍女と町中を歩いていたら、偶然出会ったのよ。いえ、運命かしらね」
と、波打った腰までの栗毛の髪をそよがせ、姫がくすぐったそうに微笑む様は、同じ女としてトゥエラが微笑を返すには、あまりにも美しかった。一抹の悔しささえ感じた。
(この出会いは、悲恋になることが決まっている。それは哀れにも無念にも思うけれど)
「おお、今日もご苦労だったな、ナイト様」
いきなり、降ってきた声に、トゥエラが振り返った。目をこすると、見るも躊躇われるような、妖艶な美男子が、月を背負ってこちらへ近づいてくるのが分かった。トゥエラの顔は見る間に歪んで。
「……うるさい。私はあんな下卑た騎士などではない。ヴェル・ナイトだ」
と、不快もあらわに吐き捨てた。しかしこころは素直だった。
(……正直、今はこの男への恐れが勝る)
姫君が男付の老いた下女により、宮中にてばれぬように身じまいしている間、トゥエラはこの男の相手を任される。無論、伽の相手などではない。
(ただの話し相手、だ)
男はそんなトゥエラの心情などまるで気にも留めないように、こちらへ話しかける。
「今日は月が格別綺麗だ。そう思わないかトゥエラよ」
「……知る訳ないだろう」
その相手はひどく億劫でやるせなく、時として歯がゆい思いさえ抱いてしまう己が、トゥエラは怖かった。
黒煙のようにけぶった黒い髪、金に光る瞳、通った鼻筋、紅い唇。アラン・ディユラン・ドゥ・サルエタン、いずこかの王家の傍流に生を受けたという、この上なく美しい男は、またこの上なく美しく典雅にしとやかに成長した姫君マリアンヌを、夜ごと汚している。
「姫がお帰り遊ばします」
姫と一緒に帰りの馬車で揺られながら、トゥエラは考えていた。自分はなぜ敬愛する主人のこのようなふるまいを許しているのだろう。本来ならば自分が先陣を切って王に密告し、何らかの手立てを講じてもらうはず。
けれどそれは出来ない――。きっと一つには、この悲恋を哀れに思う気持ちが強いから。そしてもう一つは。
(気づきたくない! あの男と語らうわずかな時間さえも、恋しくてならない、などと!!)
◆
生を受けてより十九年、物心つくかつかぬかのうちに、剣を握らされ、厳しい修行を積まされた。馬術剣術語学社交、すべてに秀でていなくてはならなかった。ある時、銀の燭台を盗んだ下男の処刑を十二歳になんなんとしていたトゥエラが命じられた。下男はトゥエラに優しかったが、貧しかった。病気の妹もいた。――剣を手渡してきたのは実の父親だった。すぐに手をあげる、古い頭の固い軍人気質の父であった。常は抵抗を示さないトゥエラも、この時ばかりは恐怖を押し殺して抗弁した。
「しかしお父様、人のものを盗んだとて、こころとは違います。こころは盗まれては終わりですが、燭台は物であり、現に今こうして無事に戻ってきたではありませんか。どうかそれに免じて、この者にお許しを……」
パアンっ
ひどい音がして、祖母も、ばあやもみんな中庭へ飛んできた。トゥエラの頬は真っ赤に腫れていた。こぶしを震わせ、当主たる父が喚く。
「愚かな返答をするな! ゆくゆくはこの王国の王女をお守りすべきお前が、そのような甘い戯言を吐いてどうする! この国の法は、貴族から貧乏人が何か一つ、パン一つ盗んだとて死罪! この偉大なる国の法を、お前なぞが汚すつもりか! よい、お前はそこで見ていなさい! この、役立たずのくずが!」
うつむいて芝生にへたりこむトゥエラの腿が、下男の血で湿っていった。
この過酷な環境に身を置き続けていれば、恋らしい恋など生まれるはずなどなかった。恋は出来ない。真実の恋など、まして。生まれながらに、どんな男よりも高貴な女人近くに侍る、女騎士であるのだから。それこそが、自分の運命だと思っていた。あの男に会うまでは。
◆
「なあ、聴いているのか。男おんな」
トゥエラははっとして我に返った。気づくとまた塔の一室の前に自分はいた。そうだ、今宵も逢瀬であった。そして自分は、姫の着替えのその見張りとして、男の相手をつとめていたのだ。――無論伽ではない。トゥエラはふうと息をついた。
「……聴いていない。そのいらだつ冠詞を抜いたら声を出してやろう」
すると、アランがくくと笑みをかみ殺して、囁くように言った。
「なあ、聴いているんだろう。おとこ勝り」
「姫様の思い人でなかったら、すぐさまたたッ斬ってやるところだ。何か用か」
繰り返すが、トゥエラは無論、恋をしたことがこれまでさしてなかった。それゆえこういう時、どんな風に答えれば媚態となり、あるいは婉曲なる拒否につながるかを知らなかった。ただ素直に答えるほかなかった。
「で、私に何を言いかけた」
「今宵も月が綺麗だと言ったのだ。ほら、見えるだろう。よく研いだような三日月だ」
「ふうん、で?」
この愛想のなさに、トゥエラは我ながら、よくも無関心を装っていられると、袖口で隠
して苦笑していた。そうと知ってか知らずか、アランは金の瞳を眇めた。
「……さてもまあ、どうしてお前はそんなに愛想が悪いのだろうね。大切な姫様を俺に奪われたから? それとも逆かな?」
「何を言う!」
声を出してから、トゥエラは思わずはっとして、頬を染めた。それが分からぬよう、顔を下げて石造りの塔の床に目を転ずる。足下の森に、月光がものものしく冴えわたっていた。風の音さえしない。月光に誘われて、ふいにトゥエラは顔をもたげた。
「綺麗な、月だ。本当に」
そう言ってから、トゥエラは、いつか君は冷たい月に似ていると言ってきたある貴公子のことを思い出した。アランには比すべくもないが、赤髪のなかなかに美しい男で、上背がトゥエラよりあった。その男に散々口説かれて、ほんの少しだけ、心を寄せた折、王の寵姫との密通が知れて、男は死刑となった。その処刑はトゥエラが買って出た。初めて恋した男が最後に見たものは、自分の冷たい瞳であったろうと思うと、トゥエラの心は虚しさを強く感じるのであった。その時から、だろうか。自分を裏切るすべての男に、報復を、と考えたのは。――人の命を奪うことに、抵抗がなくなったのは。
「……普段のお前は血なまぐさくてかなわんが、そうやって美しいものに目を奪われるお前は、綺麗だよ」
「ふん、そんな馬鹿なことがあるものか」
「本当だというに、なぜ信じられないのか」
ふいに、トゥエラはアランが近づいてくるのを感じた。軍人であるゆえ、背後に人の気配がすると振り向く癖があるが、それをどうしてだか押しとどめていたのはトゥエラの微かな女心だった。アランは一つに結わえていたトゥエラの銀髪をほどき、手に捲いた。それは月光を浴び銀の川を思わせた。
「この柔らかな髪、細い首。やはりお前は女だな。それも一等もろい、愚かな女だ」
「なっ!」
トゥエラはようやっと体ごと振り向いて、アランを睨み据えた。すると自分の体がすっぽりアランの腕の中におさまってしまうことなど、気づきもせずに。
「なっくっ離せっ」
これにアランはにやりと口の端をあげて、すぐさまトゥエラの身を離した。
「なんだつまらん。頬を張るか、キスをするくらいはするものだと思っていた」
「そんなことをして姫の不興を買ってはかなわん! これが王侯貴族の遊びなのかは知らんが、もう、どうか戯れはよしてくれ……!」
睨み据えながら、紅い顔で懇願するトゥエラに、アランがくく、と笑みを漏らす。
「今まで女は千とみてきたが、面白い女だ。嫌いじゃない」
「なっ何を言う!」
トゥエラは思い切りアランの頬を張ってやろうとしたが、その折、下女が姫の身支度を終えたと言ってきたので、その場はそれきりになった。帰りの馬車の中で、姫に
「トゥエラは何かいいことがあったようね。口元がほころんでいるわ」
と指摘された時、トゥエラの顔は火照り、
「な……何も、あるはずがございません」
とだけ呟くので精いっぱいだった。
◆
その夜は無事王宮に戻り、月日は何事もなく過ぎていった。姫君付のヴェル・ナイトとして姫の寝室周りを廻っていたある夜、ふと侍女たちの囁く声が聞こえた。角を曲がると侍女たち用の小部屋があり、そこで皆飴色の椅子に腰かけ絹糸をかがり、刺繍をこらしながら語り合っていた。ドアの隙から侍女たちの声が漏れだす。
「いよいよ間近ね。姫様とスペイーニャ侯爵フランシス様とのご結婚」
「でも政略とはいえ二十五も離れた、しかも愛人を三人も抱える殿方に嫁ぐなど、あわれなこと。性格もひねくれてお悪いと聞いているわ」
「王家は怖いんですよ。またいにしえのあの事件が起こるのが」
「姫様もおっとりして見えてあれはかなりの情熱家ですよ。きっとご成婚に不満を持っていらっしゃるわ」
「その性格が災いをもたらさなければいいけれど」
災い……。トゥエラが思わず耳を奪われていると、その背後から、
「トゥエラ、行くわよ」
と姫の声が響いた。
◆
「僭越ながら、姫様は、あの男のどこをお好きになられたのですか?」
黒塗りの馬車のなか、隣り合う姫に、トゥエラが囁くようにして問うた。外はオレンジの屋根が闇の色になだめられて、ランプの色合いに窓が点じられている。姫はハシバミ色の眼を少し瞬きさせ、それからふっと、笑った。
「そりゃあ、この上なく美しい容姿に、甘い声かしら。それに、それにね」
姫がぽつりと、言の葉を継いだ。
「あの人は優しい人よ。そして同じくらい、悪い人よ」
びくりっ。この発言に、トゥエラの身が震えた。姫は前だけを見据えて微笑んでいる。
(まさか、私の気持ちをも、見抜いていらっしゃる……)
そうはよぎったが、気のせいだと、自分に何度も言い聞かせた。
◆
そうして月光さんざめく恋人たちの夜が始まる。トゥエラは軍人である。あらゆる痛みにも屈辱にも耐えうるように育てられてきたが、最近はこの時間が苦痛に思えてならなかった。この上なく美しい姫の媚態、愛らしい嬌声、喜びの悲鳴。すべてが長らくその身に持つべからず、と言われてきたものだ。
(私、は……)
姫の嗚咽を聴きながら、トゥエラは己の考えにぞっと寒気を覚えた。
(姫様が早く嫁に行けばいいと思っている?そしてその後で起こる悲劇など、まるで関知せずにこの塔に……)
ただ一人で来たいと思っている? 何の為に? それはあの男に会い、自分もまた――。
「厭だ厭だ! 私はなぜそんな恐ろしいことを……」
思わず声に出して己をしかりつける。そのトゥエラもようやっと異常に気が付いた。姫は嗚咽を漏らしながら、ドアを開けいずこへか走り去ってしまった。
「姫っ」
「姫様っ!!」
物思いに沈んでいたトゥエラより早く、下女が姫の後を追いかけ、その肩を抱いてなだめた。トゥエラの怒りは勿論アランへと向かう。
「貴様っ我が姫に何をしたっ!」
急ぎ部屋に押し入り、ベッドで白いシャツをしどけなく纏う男を怒鳴りつける。
「まさか何か無体をっ!!」
「いや? ただもう会えなくなると言っただけだ」
この発言に、トゥエラの怒りが爆発した。男の襟首をつかみ、詰め寄って喚きたてる。
「貴様は言い方とかもっと考えなかったのか!! この、女ったらしめが!!」
この一喝を聴くと、アランはにたりと笑って、トゥエラの顎を優しくすくった。
「ふうん、まるでたらされた女がいるような口ぶりだな。トゥエラ」
「な、な……」
アランの甘いと息が耳にかかり、真紅の唇が近づいてくる。
「一体誰がたらされたのか、言ってごらんトゥエラ」
「やっ」
やめろ!!
その言葉の代わりに、トゥエラは男の横面を思い切り叩いていた。アランは頬を抑えて、なおもにやと口角をあげている。
「ひっ姫様の代わりなど、もっとごめんだ!!」
それから塔を走って駆け下りた。熱い涙が止まらなかった。あらゆる男から、拒絶され忌まれてきた自分に、このようなことが起こるなど――!! この涙は、塔のふもとで待つ姫君の御前に出るまでに拭い去らなくてはならない。なれど、なれど!!
「私とて、女だ。女なのだ……!!」
なのになぜ、すべてを押し殺して男たらねばならないのか。
「神よ……」
そう呟いた時、彼女の涙は止まっていた。
◆
王宮に戻ってからの姫君は様子が打って変わってしまった。常もおとなしく、乗馬より部屋にこもって読書をたしなむような人柄だったが、それが昨今は本も読まず、かといって遠乗りもせず、一人で部屋を歩き回り何かをぼそぼそ囁いている。ひどく落ち込んでいるかと思えば笑い出し、笑っているかと思えば突然狂気のように泣き叫ぶ。その様子を一向に案じもせずにいるのは国王夫妻であった。彼らはただ間近に迫った侯爵との結婚が無事滞りなく済むことだけを祈っているらしかった。
しかし、さすがに良心の咎めもあったのだろう。いや、あるいは侯爵に取り入り、金を落とす手立てなどを直接伝える為だったのだろうか。式が間近に迫ったある夜、姫君を夫婦の寝室に招いた。国王付の下女が膝を折って姫と、トゥエラに申し伝える。
「今宵はご成婚を控えて、お父様、お義母様との謁見が許されました。寝室にお入りになるようにとのご命じです」
それは今まで政略のための道具とされ長じた姫にとって、破格の待遇であった。国王も王妃も、揃って祝いの意か白い礼服にドレスを纏って、姫を待っていた。そこへ姫がゆるりと歩みだす。
「ではわたくしも」
「よい」
と、トゥエラが続いて入室せんとすると、姫が突然口を開いた。
「今宵は私もお父様、お義母様に申し伝えたいことがあります。お父様、お義母様、最後でございますれば、すべての下女や従官を下がらすこと、お許し下さいませ」
その瞳は、月光を浴びて恐ろしい程輝いていた。それに不安と畏れを感じたトゥエラだったが、姫に逆らえる道理もない。
「……では、部屋の前にてお待ちしています」
もう時間は夜も更ける頃、姫君によってさがらせられた従官も侍女も、皆々ベッドへと帰っていった。トゥエラだけが何か血生臭い予感にかられて、その場を一人離れずにいた。
やがて月が山の端に姿を沈めんとした時、
「ぐわあああ」
という男女の悲鳴が走った。
「なっ姫様っご無事でございますかっ!!」
急いて無礼も承知でドアを開けると、そこには、床に血のあぶくを吐いて死んでいる国王夫妻の姿があった。
「ひ、ひめ、さま……」
その傍らには、血塗られたナイフを持つ姫君が立っていた。心なしか笑っていた。
「姫……なんて、ことを……」
「わたくしには、こうするよりほかに、ありませんでした」
◆
二人はそのまま馬車に乗り込み、あの場所へと急いだ。あの男が待つ、灰色のおどろおどろしい塔へ。
「わたくしは朝になったら車裂き。逃げきれるものでもありますまい。そうなる前に一目、あの方に会いたい」
姫のレースの手袋に涙が静かに落ちる。
「姫……姫……」
その手を握りながら、ただただトゥエラも落涙した。
もうじき月が完全に山の端に隠れる。その間際に、二人は馬車を乗り捨て塔へと入った。
「姫様、主人がお待ちしておりました」
あの不愛想な年老いた下女が深々と頭を下げる。下女に姫を預け、トゥエラは塔のあたりを見回った。せめて、今宵の逢瀬が終わるまでは、姫の命を自分が守ってみせる。そんな悲壮な決意が彼女の胸を占めていた。姫が部屋に招き入れられてから、半刻が経った。おかしい。何の声も物音もしない。ドアを叩く。ドアを開く。中の光景にトゥエラは絶句した。
――そこには、あったはずの豪奢なベッドも、優雅なソファも、化粧台さえ、すべてがなくなっていた。いや、それどころか、冷えた風が悠々と通り抜ける、無人の廃墟と化していた。
「な、これは、どういうことだっ」
やっとのことでトゥエラが叫ぶと、月光が黒雲より射し出でてきた。ゆるりと、その闇から男が一人現れた。
「アラン、貴様、姫をどこへやった!!」
「ここだよ」
同じく闇の中から姿を見せたのは、死体と化した姫の姿であった。ずるりと、喉に穴の開いたその死体が、アランの腕のうちより床になだれる。ぐしゃり。もはや生の奪われた、柔らかな弛緩した音が響いた。
「なっ姫様っ貴様っ」
「自決したんだ。俺の正体を知ったらすぐに、喉へナイフを押し込んだ」
「な……」
思わず後ずさりをするトゥエラ。その彼女へ、姫の自決に使ったナイフを片手にアランが近づく。
「俺の一族はかつて、王位を狙う者どもと讒言され、現王室の命で一族全員、下女にいたるまで殺された。無論俺もその場に居合わせ、内密に殺された」
「なっ何だとっ! でも王宮で、そのような話は聞いたことなどなかったぞっ」
「ああ。それはもう、百年も前の話だからな」
「え……?」
トゥエラが言葉を失くす。アランは愉快そうに笑う。
「俺は幽霊と化して、この塔で、町で、姫を待ち続けた。無論、現王家に復讐するためだ。そしてやっと手繰り寄せた。その愛が絶頂に達した時、俺は言ったのだ。あなたが両親を殺さねば、二度とお会いすまい、と」
「だから姫は、両陛下……を……」
「月光を浴びた時だけ、俺たちは元の体に戻れる。復讐はなり、俺は満足だ。だがしかし……」
そう言ってアランは、まるで悪魔のように蠱惑的な笑みでトゥエラを一瞥した。
「ここで永遠に楽しく生きていくには、もう一人必要だ。俺はお前が気に入った。さあ、永久に俺のものになりなさい」
そう言って、ゆっくりとナイフを振り上げ迫ってくる影。
「ひ……厭だ、厭だ……」
だっと、トゥエラはその場から逃げ出した。まろびながら逃げ惑い、壁に押し戻されつつも出口を求める。塔の中はどこもかしこも月光に満たされ、幽霊の笑い声だけが背後に張り付いてくる。骨と肉がけたけたと笑っているのだ。
(厭だ厭だ厭だ厭だ……!! ああ、どうか月光よ途切れて……!!)
そこでようやく、外につながるドアの前にたどり着いた。やっと、逃れられる。ドアを開いた時、最後の月光が流れるように彼女を濡らした。
(月が、綺麗だと言ったんだ)
首にかかるレースの手触り。
蘇るアランの美しくも妖しい微笑に、惑わされる。ふいに、足が止まった。
振り返って、トゥエラは血の匂いに目を伏せた。
その顔は、月光に恍惚に染まって。
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