王女の微笑み、たがために

みや いちう

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王女はもう二度と笑わない

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【王女の微笑み、たが為に】

――その男はいつの頃から現れて、瞬きする間に消えていて、私は彼に微笑む暇さえ神に与えられなかった。愛する人への心からの微笑みを、生涯終ぞ捧げられなかった。あの人が、このこころを奪い去って、いなくなってからずっと――。

◆Ⅰ

 ここはディアーヌ王国、王都ウィールからやや離れたあたりに位置するヴェルジェットの地。この地は風光明美な土地として知られ、ひと昔前は王侯貴族の別邸があまたあったものだ。オレンジの家の上に煉瓦がずっしりと並んで、それが果てのドナイ川まで続く程だった。
  そのうちの一棟、さる古い修道院を思わせる舘の一室の前にて、その男は悩んでいた。黄金の床に照り映えるは碧の軍服。ブロンドの髪が太陽の光を集めたようで、その端正な顔とあいまってそうはお目にかけれぬ美男子の様相であった。しかしそのあだ名は人呼んで役立たずの少尉ブランディス。彼はその美しい顔と、ある一芸しか秀でていなかったためにそう呼ばれた。それは――。
 「よし、決めたぞ!」
  そう言って彼は、白いチョコレート板のようなドアに向かって、思い切り体当たりをしかけた。ズドーンという音と共に、ドアが無残に打ち倒された。それをまるで絨毯のように踏みつけながら、彼は華麗に、彼女の前にあらわれた。
 「どうもードアを壁ドンしすぎていっそ押し倒した、役立たずのブランディスでーす!」
……。何の反応もない。
 「どうもー! ブランディスでえーす」
ブランディスの前で、玉座を思わせる、豪奢なしつらえの椅子に腰かけた少女が目を背けた。これまた美しい少女であった。金髪碧眼はブランディスと同じだが、そのつんとした紅い唇、高い鼻梁、何もかも諦めきったような静かな碧眼は、さすが元王族の気品をうかがわせる。この十七になる少女に向けて、十つといくつか年かさのブランディスがうへえとしょぼくれて、自分が倒したドアの上に座った。
 「ああ、やっぱり笑ってくれないかなあ。今のは渾身のギャグだったんだよ? 三日三晩考えたんだよ」
とブランディスが言うも、姫はまるで取り合わない。その静かな瞳にそっと瞼をかける。
 「今度は笑ってくれると思ったんだけどなあ」
ブランディスが大きく嘆息して、外を見やる。金糸で縫われたカーテンの外は爛漫の春に満ちていた。この古びた屋敷の元のあるじが植えていったであろう、色鮮やかな実をつける果樹や花々が、今一斉に咲き初めんとしていた。
ブランディスをはじめ、皇帝トラジャ・ボナポルトから【ある指令】が来ている軍部の人間は、少なからずいた。その指令とは、
 【皇帝の将来の妻になるであろう、元ディアーヌ王女マリアンヌ・テレーズを笑わせること】であった。彼女を笑わせることが出来た者に、恩賞も出る。その話はびらとしてまかれ、薄給の軍部の一部が飛びついた。無論ブランディスもその一人、ということになっていた。
(ぐぬぬ、毎日顔芸、オタ芸、水芸に変顔でご挨拶もこなしているというのに、この少女のギャグセンスはどうなっているんだ! それとも僕のギャグが崇高すぎる? はっ、だからついていけないのか! もっと低次元な、お前でーべそ、とかお前んち、超豪華住宅~とかにした方がかえっていいだろうか? なんにせよ、憂うべき事態だ! 僕の体をはったギャグにちっとも反応を示さないなんて! このままじゃ、ちっとも仲良く出来ないじゃないか!)
 言葉に出さずとも、ブランデイスがこう思うであろうことは容易に察せる。
 「……」
この宮殿にいついて二週間、ちっとも笑わないし言葉もくれない王女に、ブランディスががっくりきていたのは事実である。二人に落ちる沈黙、それを裂くようにやってきたのは、マリアンヌ付きのばあやであった。
 「もう、諦めたらいかがです」
ばあやは不思議に、この笑わせようと必死な三十路に目をかけてやっていた。
 「まだねばっていたんですか? 往生際の悪い男ですねえ、あなたも」
  白髪をくるりと結わえたばあやが、苦笑を浮かべる。
 「そりゃ、あなたが今まで来た軍部の方より面白いのは認めます。けれど、あなたがいかにしようと、姫様は決して笑われません」
  そうして手慣れた手つきで紅茶を人数分入れて飴色のテーブルに並べると、
 「にしてもあの究極の策士にして冷酷な皇帝のこと、こんなくだらない(遊び)をして、何か裏があるのではありますまいか」
 「――うーん。それが、僕も下っ端だから何も訊いてないんだよ」
ぐでーっと、床に眠るドアに寝ころびのびをするブランディスを、ばあやがあきれたような目つきで見ていた。
ディアーヌ王国は今より五百年の昔に誕生し、絶対王政のもと、国王は神から冠を授けられると言われて悪政も善政も敷いた。それが交互にくれば歴史も変わったかもしれないが、末路は結局悪政に偏った。貧しい民による、王侯貴族のみが甘い汁をすすれる世の中に革命の嵐が吹き荒れ、王都ウィールにいた王族貴族はほとんどギロチンにかけられみせものの首とされた。
この、人形のように美しく、冷たい瞳のマリアンヌもまた同じ悲劇に遭った。父、母にあたる国王、王妃ともにギロチンにかけられ、弟は塔に押し込められて餓死させられた。彼女だけはまだ幼いのと、政治的価値があるということで、革命のあと皇帝にのぼりつめたボナポルトによって、命を今日までつないでいる。ボナポルトは常々こう言っていた。
(かの王女を、懐柔しなくてはならない)
 それも道理だ、とブランディスは思う。マリアンヌの殺された母親は強国オースティアン帝国の皇女の出であり、かの国はこたびの革命のことで、王族が殺されたことにあからさまに不信感を示している。貧民の激情のままに殺された貴族の中にも、他の強国とむすびつきが強かった者が多く、この革命、そしてそれを利用してなりあがった皇帝を悪しく思う者は多い。彼はそのためにどうしてもマリアンヌ・テレーズを懐柔し、自分の善き妻になってくれることを願った。彼女がボナポルトの貞淑な妻となれば、他の国々も、国内に未だ残る王党派も、文句は出まい、と踏んでいたのである。
(そのためにはなんとしてもこちらに気を許させなければならない)
それゆえこのような手段で、氷の女王と呼ばれる姫の笑いを買っているのである。

「どっこいしょー!!」
  さて、またあくる日もあくる日も、ブランディスは誰の為やら姫の歓心を買おうとした。ある日は鼻からスパゲッテイを食べようとして倒れ、ある日は母乳を出そうとして倒れ――。その努力は涙ぐましいものだった。
  しかし姫は決して笑わなかった。ある日ついにブランディスは音を上げた。
 「はあーダメだ、降参だわー」
  そう叫んで姫の部屋の絨毯に寝っ転がった。それをちらと一瞥し、姫が久方ぶりに口を開いた。
 「早めにそうすべきだったわね。だって、あなたてんで面白くなかったもの」
  ありゃ、とブランディスが顔をあげる。
 「それにしてもボナポルトもおかしな男、力づくでも笑わせてみせればよいものを。あなたがあおった大衆のように、けたたましく笑うかもしれなくてよ」
  そう、か。ブランディスは姫のこの発言に、一抹の悲しみを覚えた。確かにボナポルトは、貧しい大衆をあおって利用し王政を打破した。いわば扇動したのである。
 「それであたくしの家族を奪い去ったものね。あの男は卑劣だわ、人間じゃない! 悪魔よ。……って、何を笑っているの?」
 「いや」
  ブランディスはにっこりとして歯を見せる。
 「やっと口きいてくれた、と思ったら嬉しくてさー」
 「ま」
  とマリアンヌが少々困惑気味に問うた。
 「だってあなた、話したと言っても、あたくしはあなたの上官の悪口を聴いてほしかっただけだわ」
 「それでもいいさ」
  ブランディスの笑顔は花咲き誇るようだった。
 「嬉しいよ。君、ずっと僕のギャグ中もお人形さんみたいに固まっててさ。ひょっとしたら、この子、蝋人形にされちゃったんじゃないかって、不安だったんだよ」
 「ま、馬鹿なことを」
  くす、と姫が微笑んでみせたので、ブランディスはおやと思って、また一層嬉しくなった。
 「でも、あたくしが本当に笑える日はまだ来ないわ。あの男が死する日、その日にやっと恥も忘れて大声で笑える気がするの」
  その瞳は夢見るようで、美しく、ブランディスの胸に淡いときめきと、痛みを同時に及ぼした。

 その日、ブランディスが館を出、軍部の本拠地が置かれた町まで、マロニエ咲く大通りを歩いていると、下っ端の軍人らしき男たちが口々に言い交しているのが聴こえた。
 「なあ、でも、皇帝の意に反していまだに姫は笑わないんだろう。大丈夫なのかねえ」
  どうやら後ろを歩く自分の存在に気が付いていないようだ。貴族が追われたこの町で、ほとんど道を往くのは軍人ばかりである。
 「どうも、革命派の過激な連中が、あの姫の命を狙っているらしいぜ。そんな噂が耳に入っちゃあ、な。ましてや守ってくれるのは自分の身内を殺した連中ってわけだろ? 実際今は皇帝陛下の温情と政略によって命を長らえている訳だし」
 「そんな状況、俺なら笑えねえな。生涯笑えないよ」
  男二人は下士官の恰好をしたブランディスをさして気にも留めずにその前を歩んでいく。
ブランディスの顔は暗く沈んでいった。
◆◆Ⅱ
 その日の夜。古びた館の一室には、金の燭台のみがともっている。黒で統一された調度にその影が映りこむ。
  姫は天蓋付きの白いベッドで眠りについていた。浅くて黒くて、恐ろしい夢。いつぞや革命軍から逃れようとして、見つかり、捕えられ、見世物にされたあの日のことを、今でもありありと覚えている。津波のようにあふれて家族を馬車から引きずり出していった民衆の手。
その力強さ。言葉が喉にはりついて悲鳴も上げられない恐ろしさ。
(お母様っお父様っシャルル!! ああ!!)
 やがて黒き波は家族をさらって自分へと伸びてくる。無数の無骨な手。鎌を携えた手。ああ、迫ってくる!!
「いやああああ!!」
  マリアンヌが甲高い悲鳴をあげ、思わず燭台の灯りにそれと知れた人の影に抱き着いた。
 「マ、マリアンヌ姫……?」
  そこにいたのは軍服に黒いコートを羽織ったブランディスであった。どうやら、人目をはばかってこの部屋を訪ったらしい。それは無論、ボナポルトの未来の妻たる姫君の部屋を、夜中に訪うなど最上の禁を冒すといっても過言ではない。どんな処罰が下るかもわからない。だが、彼は来た。そして微笑んだ。
 「大丈夫かい? 怖い夢でも見たかい?」
  その微笑みはまるで太陽の如く、あたたかで優しかった。マリアンヌの両眸から滴がこぼれ落ちていく。彼女の両腕はいまだブランディスにしがみついていた。
 「あなた……どうしてここに……」
 「いや、どうも嫌な噂を耳にしたものだから、警備にといって特別にばあやさんに入れてもらったんだよ」
 「そ……う」
 「だいぶ、怖い夢を見たんだね。うなされていたよ」
 「……いいえ」
  マリアンヌは気丈にも、次には凛としたまなざしをして答えた。
 「あたくしから家族を奪った血塗られた皇帝が、首を刎ねられる素晴らしい夢を見ていたのよ。うなされるなんて、そんなはずある訳ないわ」
  これにブランディスはちょっと寂しそうに笑った。いまだ彼女は復讐にとらわれているのか、と哀れに思ったのかもしれない。
 「とにかく、あたくしは一人で平気よ。さ、出ていって頂戴」
  ブランディスの広い背中を、マリアンヌがぐいぐい押して部屋から出そうとする。その時であった。鋭い、けたたましい音が響いて、二人が振り返ると、窓ガラスが割れ、それを踏みつけながらこちらへ剣を抜く男たちの姿があった。
 「革命軍か!」
 「ふふ。俺たちが殺してあげたはずの王族が、いまだ生き残っていると聞いてね。これは捨て置けぬとやってきたのよ」
  そうして男たちが、次々剣を抜いてこちらへ一目散に駆けてくる。恐ろしい、血に飢えた悪魔のような形相で。マリアンヌの脳裏に再び、あの恐ろしい夢が蘇る。手が震える。その手をしっかりと握り、
 「君は早く逃げるんだ」
とドアの方へ押しやったのはブランディスであった。
 「ブランディス!! でもっ」
 「いいから早く行け!」
  常に似ず荒々しい声音に、マリアンヌはどうも出来ずドアより押し出された。ドアが再び閉まる。
 「ブランディス! ブランディス!」
  姫の叫びがこだまするのが、男たちの奇声、悲鳴雄叫びにかき消される。つうーっと、ドアの隙間を伝い廊下まで何者かの血が流れ出た時、マリアンヌは失神しそうになった。あの、いつも優しかったブランディス。あたたかで、穏やかなブランディス……!! 
 「ブランディス!」 
  マリアンヌが思い切り力を込めてドアに体当たりすると、ドアがぐら、と軋んで、倒れていった。その先には、血まみれのブランディスが、まるで血を吸った彫像のように、剣を片手に立ち尽くしていた。
 「マリアンヌ、来てはダメだ」
  その足元に、ずいぶん小さくなった男たちの四肢が散乱しているのもかまわず、マリアンヌはブランディスの胸に飛び込んだ。彼女の眼からは涙があふれている。
 「よかった。よかったご無事で……! あなたを失うとなったら、あたくし……」
 「マリアンヌ……ありがとう」
  よしよし、とブランディスが頭をなでると、マリアンヌの頬を伝う滴はますますこぼれてとめどなくなるのだった。

 夜の襲撃からひと月。いまだ部屋にて打ち臥すことが多いマリアンヌを、ある晴れた日にブランディスが外へと誘いだした。
 「皇帝陛下からお許しが出たんだよ。この屋敷の領内、花畑に君を連れ出していい、ってさ」
 「まあ……」
  常は険しい姫の顔に、光が射したようだった。ブランディスは白馬にまたがり、自分の前にマリアンヌを乗せ、ベルトで固定して、花園へと向かった。
 「行っていらっしゃいまし」
それを屋敷で見送るばあやの顔も朗らかだった。
  マリアンヌは自分を支えるブランディスの手に触れながら、鼓動を抑えかねていた。初めてだった。こんな風に遠乗りに出たり、花園を見に行くなんて。ましてブランディスは黙っていれば美しい男である。自分をあの地獄から、救い出してくれた男である。それが時折大して面白くないギャグや、姫を案じる言葉をかけてくれる。それだけで、いくらか心の深い傷も癒されてくるような気がした。そして枯渇していた心の泉がよみがえる気がした。
  花園は湖に面する、眺めのよい場所にあった。あたりには春の花が、色とりどりに散りばめられている。
 「素敵、素敵ね……」
 「喜んでもらえたかい?」
 「もちろんよ!」
  そう叫んで、マリアンヌはブランディスに微笑みかけた。それは高貴な薔薇が咲き初めるような、匂い立つ美しさがあり、ブランディスは姫を抱き寄せんとする衝動を必死にこらえた。――だけれど、その努力もむなしかった。まるで迷える小鳩のように、姫から彼の胸のうちに飛び込んできたのだ。
 「好きよ、好きよブランディス。愛しているわ……」
  そう囁きながら、姫はブランディスの白いシャツに顔を押し付けた。
 「だっ」
ブランディスは一瞬姫の背に腕を回したが。
 「ダメだマリアンヌ! 」
と彼女を押し返した。
 「こんな僕に惚れてはいけない、僕を、愛しては、ならない……!」
 「なぜ? ボナポルトがいるから?」
 「……」 
 姫の悩ましいような顔に、ブランディスが額に手をあてうなだれる。
 「でも、私、あなたを愛してしまったの。ねえ、なら、どこかへ一緒に逃げましょう。そうしたら、そうしたらきっと……」
  マリアンヌは自分で夢物語を紡ぎながら、それが絶望的に不可能なことを知っていた。そうすればきっとすぐに捕らえられ、ブランディスは殺され、自分は少しの自由も許されず、すぐさま皇帝の妻の座に据えられ、傀儡となるであろう。
 「いっそ。私たち、一緒に……」
  マリアンヌの瞳はまっすぐ湖を見ていた。いつも侍ってくる、ボナポルト直属の手下は今は姿が見えない。
 「ダメだ!」
  死を考えた姫へ、ブランディスが強い声を発する。
 「頼む、マリアンヌ。僕に何があっても君は生き残ってくれ! 生きてくれ! そして笑っていてくれ! 僕は、君の笑顔が、好きなんだ。だから、僕がたとい死んでも、笑って、いてくれ……お願いだ」
 涙まじりに紡ぎだすこの愛の告白に、マリアンヌも悲哀に打ちひしがれる。
 「それが、愛のあかしだとでもいうの……?」
 「そうだ」
  今度はマリアンヌをじっと見つめて答えるブランディスへ、この美しき姫君は涙を流して呟いた。
 「馬鹿な人ね、本当、あなたは馬鹿な人よ……そして、私も……」
  ◆

 それから幾日かが経った夜のことだった。ブランディスとマリアンヌが屋敷のバルコニーに出ていると、隣の部屋のあいたドアから、侍女たちの会話が聞こえてきた。
 「どうも、今度のブリテン帝国との戦争、敗色が濃いようね」
 「王族を殺したせいで、縁戚でつながりのあった周辺国からも援軍が頼めないって話よ。あの皇帝も、もう終わりかしらね」
  これを聴いたマリアンヌの顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。
 「では、もうすぐボナポルトは死ぬのね」
 「……うん、おそらくね」
  ブランディスの浮かない表情にも気が付かず、姫は縷々と夢物語を紡ぎだす。
 「ああ、なんて幸福な夜でしょう! そうしたらあたくし、やっと心から笑えるわ! あなたと手に手をとって一緒に逃げるのよ。そうしたら一緒に暮らしましょう! ああ、この上ないハッピーエンドだわ!」
  ふふ。嬉し気なマリアンヌへ、ブランディスが淡く笑いかける。
 「でも、貧乏貴族の小さな家に、君のような王族が慣れるかな」
 「大丈夫よ。頑張ってあたくし、いい奥さんになるわ。だって、愛するあなたの為だもの……」
 「マリアンヌ……」
  二人は月光射しこむバルコニーで、キスを交わした。そのバルコニーの下では、白い薔薇が誰かの死を悼むかのように咲きそろっていた。


 ある日、いつものように遠乗りの先で、花を摘んでいた二人へと、黒馬車をいくつも並べた軍隊の中から、一人の、身分重そうな男が歩んできた。
 「皇帝陛下がおよびである! 至急、我々に従ってもらおう!」
  有無を言わさぬ命令であった。ブランディスの手から色鮮やかな花たちがこぼれおちていく。その顔は真っ青だった。彼はそのまま連行された。途中、何度もマリアンヌを振り返っていた。
マリアンヌは涙をこらえた。
(ついに、あたくしたちの関係が、明らかになってしまったんだわ……終わりが、来たんだわ)
 そのまま軍部の本拠地、ウィールにある豪奢な宮殿の一室にマリアンヌは連れていかれた。そこは鹿の角が壁からはえた、金塗りの、甲冑をいくつも揃えた物々しい部屋であった。そこでマリアンヌは、まるで悪びれず言葉を発する。
 「何の御用かしら。あたくしの家族を殺した残忍で冷酷なる皇帝陛下」
  これに部屋の絵のように飾られた軍人たちが睨みをきかせる。その時、であった。
 「皇帝陛下、ご入来!」
  恭しくドアを開けられ、その部屋に入ってきた人物に、マリアンヌは言葉を失くした。
その、散々撫でたブロンド、たくさんのキスを落としたその高い鼻。何度もまじりあった唇。
そこにいたのは、黒マントに碧の軍服を纏った、王冠をかぶる威厳ある皇帝は、まぎれもないブランディスであったのである。
 「う、そ……」
  マリアンヌはしばし絶句したあと、悲鳴のように叫んだ。
 「うそようそよ、うそようそよ!! 何を、違う! 違うわ……あなたは、私の愛したブランディスじゃないの!」
  これに軍人たちが嘲笑を振りまいた。
 「はははは! さすがボナポルト様っ、演技の才能もおありとみえる! 」
  このあまりにむごい現実に、マリアンヌの喉はからからに乾いて、言葉もしたたり落ちる程しか出ない。
 「う、そ……では、私は、宿敵と、愛し合っていたと、いうの……」
  軍人たちの嘲笑はいまださめやらぬ。
 「はははは、さあ、仰って下さいよ姫君! 私の愛するブランディス! いえ皇帝陛下と!!」
 「最高のバッドエンドだ!」
ははははは! その笑いは、いつか家族を奪ったあの黒き腕のように自分を追いかけてくるような気がし、マリアンヌは床になだれた。


 夜。王宮の一室に軟禁された姫は、ひたすらに泣いていた。
(全部、全部嘘だったというの……あの皇帝が、憎っくき皇帝が、ブランディスであり、私を、懐柔するために、ずっと、身分を隠してだましていたと、言う、の……)
 壁にははめこまれた剣が刺さっていた。幸い、その切っ先は少し壁からはみ出ている。それへ喉を押し込もうと、立ち上がった時。コン コン
 誰かが、彼女を訪なった。ゆっくりと、ドアが開く。
 「あなた……!」 
そこに立っていたのはブランディスであった。黒いマントを翻し、粗末な身なりをしている。
 「馬車の手配をしておいた。逃走経路も全部確保してある。早くお逃げ」
 「ど、どういう……」
  マリアンヌが意味も分からず呟くと、その頬に手をあて、ブランディスが言った。
 「君には真実を話そう。トラジャ・ボナポルトは既に戦中に死んでいる。僕は周辺国にその死を秘すために選ばれた、顔だけそっくりの、軍部の傀儡人形、身代わりってことだ」
 「そう、な、の……?」
 「ああ」
  ブランディスは寂しそうな顔で頷く。
 「軍部は僕と、君を利用するつもりだろうが、それを認める訳にはいかない。君だけでも逃げるんだ。そして、幸せになってくれ。それだけを祈っている」
 「……その偽りの仮面を、脱ぎ去る訳にはいかないの?」
  ブランディスが瞳をやや伏せる。
 「……僕のこの仮面のもとに、何千、何万の人たちが傷つき、死んでいる。君も、君の家族も、だ」
 「では……」
  マリアンヌが潤んだ瞳を向ける。
 「あたくしたちは、結ばれない運命だったというの……?」
  ブランディスが小さく笑った。
 「大丈夫。もうすぐ君が笑える日がくる」
 「いやよ。離れたくない……」
  そう言うマリアンヌの腕をひき、ベランダから馬車に乗りこませるブランディス。彼は最後に彼女へ願った。
 「これで最後だ。マリアンヌ、どうか、笑って……」
 「ああ、あたくしのブランディス……」
 「さようなら、僕の愛する人……」
  二人の繋ぎあう手をほぐして、黒い馬車は夜道を切り裂いて走っていく。マリアンヌの瞳からは、滂沱の滴があふれていた。
  ああ、ああ短き日々よ。あたくしの永遠の日々よ。幸福よ微笑みよすべてよ……。

 永遠にさようなら……。私の愛する人よ……。


 それから半年後。軍部からも孤立していたトラジャ・ボナポルトは、帝国との戦に負け、民衆に罵声を浴びせられながら断頭台にのぼることになった。マリアンヌの叔父が国を治めるオースティアンにその報が届いた時、皇帝はワインをあけ乾杯を高らかに叫んだ。
 「やったぞ! あの男が死んだ!! 首を刎ねられて、民衆たちにさらし首になったそうだ!!」
  この隙にディアーヌの統治も……そうまでよぎった叔父へ、食事の席でマリアンヌが冷静な声音で告げた。
 「叔父様。お願いがございますの」
 「なんだい姫よ」
 「ディアーヌは、あたくしにも治めさせて頂きたいのです」
  今まで決して笑わず、常に唯々諾々としていた姫からの申し出。最初は怪訝そうな顔をしていたが、ふうむ、それも妙案かと、オースティアン皇帝は頷いた。
  マリアンヌの心中はいかばかりだったか、それは分からない。自分の愛し、憎んだ者たちを殺した民衆に対して、彼女は微笑んだかどうか。
 「叔父様、あたくしは、あの国民たちを、許そうと思うのです」
  それから、彼女は皇帝、王党派の配下を組み入れ治政を開始した。それは国の歴史書に残るほどの善政であったらしい。だがどの伝記を見ても、彼女が微笑んだ、という記録はない。
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