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花束を、あげよう
しおりを挟むもし、あなたにまた会えるなら、私が口にする一言は決まっている。愛しているでも、待っているよ、でもない。ただずっと言いたかった言葉を告げよう。ただもう一度、あなたに、あなたたちに会えたなら。
◆
「次のニュースです。国際科学技術連盟は今朝、新たな科学技術の先駆けとして――」
「これも全部あなたのせいよ! あなたが家庭をちっともかえりみなかったから」
「俺のせいなのか! そういうお前だって」
ああ、うるさい。
私は白いベッドから起き上がって、消していたテレビを再度つけて、嘆息してチャンネルを変えた。この騒ぎは今朝からずっと続いている。どうも国際科学技術連盟とかいう有名らしい組織が、まったく新しい発明をしたとか。その発明が、世界を救うとか。全人類の、夢がかなうとか。
ああ、そっちじゃなくて、うちの父と母の話なら、私はしたくない。いつもあの二人は口を開くと互いに罵りあっている。それだけ。その原因がほとんど、というか全部、私のせい。ただそれだけ。一人きりの白い病室に、彼らの声が騒がしく反響する。
ここは都でも知られた大きな病院、その一室で、私は人生のほとんどを過ごしている。
私は重い難病を背負って生まれてきた。テレビがもてはやす、最新の科学でも医学でも、治療にちっとも役に立たない、難病。今はこうして生きていられるけれど、次の瞬間には激しいせき込みとともに、世界が真っ黒に塗り潰れているかもしれない、最悪な病気。ああ、まだ口論はやまない。遺伝は関係ないらしいのに。あの二人はいつも私のせいで揉めている。
――いっそ死んでしまおうか、とも思う。生きていても仕方ないし。今まで十二年生きてきたけれど、いいことなんてなかった。こんな病気を持っていたらこの先もこの世の幸福をちっとも感じないまま生涯を終えるかもしれないし。......お父さんとお母さんを、悲しませるだけかもしれないし。
テレビでは、相変わらず新発明のニュースばかり流している。どれも趣向は違うが、言っていることは同じだ。ニュースを取り上げて意見を好き放題述べる番組。ひな壇で大声でげらげら笑う芸能人を見ていると虫唾が走る。
「いやー本当にね、こういう発明を世のため人のために役に立てて欲しい訳ですよ」
ああ、うるさい!! そう言うのなら、その最先端の科学技術とやらで、私の病気を治してよ!
「さくらちゃん? 具合、大丈夫?」
そこで、私はかつて学友だった幼馴染の美夕が病室に入ってきたことを知った。夫婦喧嘩がおさまり、二人がへこへことナースに頭を下げている様が見てとれたから。ナースさんが来るのは来客が来たあかし。そして私を訪う来客は、心優しい美夕だけだった。
「さくらちゃん、今日は顔色いいみたいね」
ナースさんが何の気なしに話しかけてくる。ああ、煩わしい! 私がいつも不機嫌だからって、機嫌を取ろうとしないで。
私がにこりともしないので、ナースさんはバツが悪そうにして病室を出ていく。
「さくらちゃん、美夕ちゃんと仲良くね」
そんなこと言わないで。私はそんなこと注意されるほど子供じゃないの。どうしてみんな私の前では本当のことを何も言わないの?
言えばいいじゃない。最新の医学で新薬を開発しているが、それがなかったら、手術もしなかったら、病状が進んであと十年持たないとか。本当にあの子はいつも人形みたいで笑ったところを見たことないとか。ナースさん達が言い交しているの、聞こえちゃったもの。どうせ、そうなの。私は青白くていつも顔色も悪いの。
どうせもうすぐ、死ぬの。
うつむいて、ベッドの背にもたれかかる私を心配そうに眺めて、美夕が口を開いた。
「さくらちゃん、リンゴもってきたの。うちでとれた奴。美味しいよ」
美夕の家は農家だった、と思い出して、私はリンゴを切り分けようとする美夕から果物ナイフを取り上げて、自分で剥く。リンゴが帯状に床について、たたまれていく。そこで美夕がにっこりして、言った。
「すごいね、さくらちゃん。いい御嫁さんになれるね」
私はこの一言に、怒りのあまり寒気を覚えた。なんで、どうして。その可愛らしい純な瞳で、少しふっくらした頬をゆるめて、どうしてそんな風に笑ってしまうの。何かおかしかった? 美夕は困ったように笑っている。
私が怒っている理由も、どうしてこの子には分からないのか。
「美夕、ごめん、一つだけ言わせて」
「うん」
「もうそういうこと言わないで」
え? と美夕がきょとんとして小首をかしげる。失言したことに気付いていないらしい。
「私には、先なんてないんだから、未来の話とか、しないで」
なぜだか自分でこう言いながら、涙がこっそり瞳に沁みてきて、私は余計に美夕へといら立った。
「ご、ごめんね。でも、もしかしたらよくなるかもしれないじゃない......」
「この体を見て言ってよ!!」
思わず私の語気は強まっていった。この、白いアスパラガスのような足も、細くて細くて、幸福と名のつくものを取りこぼし続けてきた、手も。頬だってこんなにこけてしまって、誰が見たって私は長く生きられない。そんなの、わかっていたんじゃないの......。
私がとうとう泣き出してしまったので、美夕もごめん、ごめんねとしゃくりあげながら私に詫びた。
「だけど、私、さくらちゃんに、何か希望が出る話、したくて、ごめんなさい。本当にごめん......」
美夕は本当に優しい女の子だ。優しくて、純粋で、あたたかで。そして健康な体を持っている。私が追いかけてもとらえられない、逃げ切れられてしまう未来への希望も、夢も、恋も、何でも手に入れることが出来る。私には生涯手に入らないものを、彼女はずっと安穏と暮らすだけで、手に、入ってしまう。
「さ、さくらちゃん」
「もういいよ。出ていって」
「だけど、私、さくらちゃんが心配で」
「出ていってよ!! 美夕みたいに幸福な人には、この苦しみは分からないの!! 」
私が絶叫したところで、ナースさんが病室に駆け込んできて、美夕は泣きながら部屋を出ていった。
私は独りぼっちになってしまった。
(神様、私、あなたを恨みます)
私は憎んだ。私をこの地獄に落とし込んだ、神様をひたすらに呪った。
日も暮れて、冷たい病院食が出て、それを少しずつ食べていたら、何だかむしょうに死にたくなってきた。もう毎日のように病室の前で父母が喧嘩するので、彼らがいてもいなくても言いあう声が聞こえる気がする。苛まれる。他に誰もいないこんな寂しい病室で、一人で、冷たい食事。あたたかな食事に憧れた。だけれど、私にはこれしかない。いや。
私には、何もない。
そう思うと、私はついふらふらと立ち上がって、階段をのぼり、屋上に出た。誰もいない。
空を仰ぐ。空の風景は鮮やかだった。夕焼けが空を赤々と染め上げて、炎色に点じられた雲が夕の光詰まった空を泳いでいく。
「綺麗な景色......」
自然、そう呟いていた。――って、そんなこと考えている場合じゃない。私は死ぬんだ。生きていても、何も楽しいことなんてないんだもの。ここから飛び降りて、すべてを捨てよう。この病に侵された体と、疲れたこころと、それから、微かに抱いていた、夢と一緒に、すべてを。
「どうして、なの......神様」
私だって、平凡無事に生きていたかった。ふつうの女の子みたいに学校へ行って、勉強して。初恋にも、落ちてみたかった。とびきり素敵な人と、会ってみたかった、のに。でも、ダメだった。こんな病気のせいで、すべての希望はどんどん崩されて、なくなっていく。
意を決してフェンスに手をかける。
そこで。突然、背後に気配を感じた。
(見つかった?)
私は慌てて振り返る。そこには、一人の男の人が立っていた。背の高い、精悍な顔つきの、少し、ハンサムな男の人。二十歳過ぎくらい、だろうか。私をじっと見て、ふいに眼がしらをぬぐう仕草をした。あんまりこちらを見つめてくるので、私も面はゆくなって、つい口をきいてしまった。
「あの、あなたは......どなたでしたっけ」
私が夏の終わりの風に黒髪を遊ばれながら問うた。彼は何も言わない。ちょっとだけ、近づいてみる。ああ、やはりまるで知らない人だ。なのに、何か言いたそうにこちらを見つめてくる。不思議な気持ちだった。どこか遠い昔に彼に出会った気もするし、そうじゃない気もする。どこか他人じゃない気もするのに、かといってどこかで知り合った顔とは思われない。私は病室に閉じ込められた十二歳の女の子で、二十歳くらいのこのたくましい青年と知り合う機会なんて、ないに等しい。
「あのー」
私が沈黙に耐えきれず、言葉を発してしまう。
「どこかで、会いましたっけ」
私がそう疑問を呈すると、彼はまた眼がしらをぬぐう仕草をして、一言だけ、呟いた。
「君を、待っているよ」
え? と私が声をあげた時には、もう彼の姿はあっという間に掻き消えていた。屋上はドアのはめこまれた部分以外は打ちっぱなしのコンクリート床、見通しはいいはずだ。隠れるところとてない。だが、あの青年は消え去った。どうして。まさか、ここ、病院だし......。
「あれ、幽霊......?」
そう思うと私は背筋に寒気を覚えた。とんでもないものに声をかけられてしまった。寒気を覚える。そこで、
「探したわよ、さくらちゃん」
ナース長のおばさんが、ふくよかな体型ながら機敏な動きで、私の近くに駆け寄り、手を引いていった。
「まったく、屋上にはあんまり行かないでって、言っているでしょう。心配したんですよ」
ごめんなさい。
そう謝罪したところで、私ははたと気づいて、ナース長に尋ねてみた。
「あの、さっき屋上に続く階段で、男の人を見ませんでしたか」
「男の人? 誰も通りやしなかったわよ」
ナース長にそうはっきりと断じられ、私の背筋はますます冷えていくのだった。それと同時に思った。やっぱり、怖い。幽霊を見るのも、死ぬのも、怖い、と。
◆
それから三年後。病状が奇跡的に落ち着いた私は、家に帰されなんとか高校生になった。美夕と同じ、県下でも少しだけ有名な、進学校に通うのだ。ドキドキする。四月は体調が悪くてなかなか学校へ行けなくて、今日五月一日からクラスに入る。大丈夫かな、溶け込めるかな。ひと月の差というのは、大きいものだ。勉強ももちろん遅れてしまったし、何より女の子たちもグループを作っているだろう。いくら美夕と同じクラスだといえど、うまく、溶け込めるだろうか。
意地悪な人、いないといいなあ。
ブレザーの青リボンをしめながら、私は校門を過ぎた新緑の美しい桜の木の下を歩んでいく。
職員室に入って担任の男の先生に挨拶をして、一緒に一年B組の教室前に立った。先生が教室の白いドアを開けて、その後ろに私がついていく。教室には三十名くらいの男女が詰め込まれていた。私の心臓はもう口から跳ねて落ちて、どこかへ行きそうだった。
「では、山口さん、自己紹介を」
「え、あ、はい。山口さくらです。どうぞ仲良くしてください」
みんな、静まり返っている。時折出るのはまばらな拍手の音。それもその拍手は美夕からのものだった。ああ、早く消えたい。そう強く心から思った。――その思いがますます強くなる事件が起きたのは、それから二時間後のことだった。
「いいかーここはこの法則を使ってー、あ、っとすまない。ここの範囲のプリントを置いてきてしまった。少し静かに待っていてくれ」
数学担当の先生が、忘れ物をして教室を慌ただしく出ていった。教室は時折人の声が走り、また沈黙してはどこからか声が生まれてくる。
私はノートをとるのに必死だったから、その生徒の存在に気が付かなかった。浅黒い肌の、ちょっと怖そうな彼は私の机にドン、とジュースを置くと、にたにたと笑んだ。思わず彼を見上げる。
「......どうしたの」
「なあ、お前の病気、しんこー性のやばい難病なんだろお」
私の背筋に氷が駆けていくようだった。体の血という血が全部冷やされていくようだ。
私は頭が真っ白になって、喉だけが熱くて言葉も練られず何も言えなくなってしまった。
「ほんとさー頼むからうつすなよなあ。俺、この年で病気になるのやだからさー、なつみんなっ」
この少年はおちゃらけた様子から、クラスでも目立つお調子者だとは思っていた。けれど、これは悪ふざけですまない。私の頭は次には怒りと恥ずかしさで煮えあがりそうで、もはや何も言えなかった。
クラスメートたちのささやき笑いが聞こえてきて、私は頭を抱えて、教室を逃げ出した。あのおとなしい美夕の怒鳴り声が聞こえてきたけれど、それを背中で聞いて流して、私はまっすぐ家に走っていった。
それから私は、軽いひきこもりのようになってしまった。
学校の先生たちから、あのお調子者は散々怒鳴られて反省した、とは聞いたが、それでも、あの恐怖と羞恥は、忘れがたい。みんなの面前で、あんな風に、病気のことをからかわれて。私だって、好きでこういう病気に生まれてきた訳じゃない。 私だって、みんなみたいな、いつまで走っても疲れない、五十年も六十年も死なない体に、生まれたかったよ。だけど、そうじゃなかった。
(私は、そうじゃなかったの......)
両親も私がこうなると不満も再び多くなり、諍いばかり起こしている。
ぬいぐるみばかり置かれた薄暗い部屋の中で、テレビの画面を見つめる。ニュース番組で、また何か国際科学技術連盟がすごい発明をして、科学の新たなるステージを迎えたのだと言われていた。どうして、科学も技術もみんな進歩しているのに、私一人助けられないんだろう。と、咳が喉から溢れた。しばらく苦しくて、うめきながらのたうちまわる。
「どうして」
私は泣きながら呻いた。
「どうして神様は私をこんな目に遭わせるの......?」
もう、死んだ方がいい、とその時思い至った。そうだ。死ねばいいんだ。そうしたらこんな風に悲しい思いをしなくて済む。こんな風に、肺が破れそうになるようなせき込みからも、逃れられる。そうだ、もっと早くそうすべきだった。
【海に行きます】
そうだけ書いた紙を置いて、私は歔欷しながら部屋を出ていく。その声が聞かれたか、父と母の口喧嘩がおさまった。
私は電車に揺られて、二三駅先にある、海の見える駅で降りた。ゆっくりと、浜辺に向かって歩き出す。
海はあんまり雄大で、果てしなくて、なんだか怖かった。だけれど、安堵もあった。これでもう、苦しまなくて済む。これで安らかになれる――。
だけど、まだしたいことも、たくさんあったな、そう思う。でも、もう仕方ないんだ。自分に言い聞かせて、無人の浜辺より足を一歩踏み出す。海が待っていた。海が私の足裏をくすぐり砂を抜き去っていく。その勢いに少し、恐怖を覚える。だけれど、行かなくちゃ。
そこで、私はまた、気配を感じた。振り返る。そこには、あの精悍な顔立ちの、いつか会った男の人が立っていた。
「あ、なた......」
さっきまでこの浜辺には私一人だったはずだ。なのに、この人はいつから、ここに。
青年らしき人は、私を悲し気に見つめながら、こう言った。
「さくらのこと、待ってるよ」
そうして彼は消え去っていった。私の眼前から、風に消えていく砂絵のように。
「え......」
あんまり驚いて、びっくりしてしまって、私はしばし呆然としてしまった。
「さくらー!!」
そのあいだに、母も父も、美夕まで浜辺を駆けて私のことを抱きしめた。
みんながみんな泣いている。
「よかった。よかった無事で......よかった。あなたが死んだらと思うと私、生きた心地もしなかった」
お母さんが泣いて、お父さんも目を潤ませている。美夕なんて鼻水をかみすぎて鼻が赤くなっている。
「みんな、そんなに、心配してくれたの?」
「当たり前でしょう!!」
お母さんが私の眼を見つめ怒鳴る。
「どれだけ心配したと思ってるの! あなたはね、私たちにとって何があっても大切な人なのよ。一生懸命育てて、これからも育っていってほしいって、それだけでいいって、いつもいつも、思ってるんだから!」
私はお母さんの言葉の激しい語気に押され、その後で泣いてしまった。そうか。私、気づいていなかただけで、ちゃんと愛されていたんだ。だから、生きていてもいいんだ。だって私は、誰かにとって大切な人なんだから。
◆
そうして私は二十歳になった。
「あの授業大変だよねえ。シラバスもっと読めばよかったわ」
春のよく晴れたうららかな日。私は美夕と一緒にキャンパス近くの裏通りを歩いていた。私たちは大学生になった。美夕は現役で、私は二年遅れて。同じ大学に通うことになったので、私たちはますます親しくなった。
「そういえばさー美夕、あの人はどうなったのよ」
「あの人?」
「例の、サークルのお友達。何かいいこと、あったみたいだけど」
「あっ」
私がこうからかうと、美夕が真っ赤になって怒り出す。
「こいつう、人の恋をからかう気だなあ」
「へへーん、いいでしょーたまにはこんな話も」
「もうっさくらちゃんにもいい人が出来たら散々からかってやるからっ」
くすくす、二人でシェイクを飲みながら笑いあう。こんなささやかな時間も、幸福だと思える。だけれど、ふと思う。来るだろうか? 私にも、いい人が、素敵な人が、来てくれるだろうか。何も、白馬の王子さまじゃなくていい。ただ、笑った顔が素敵で、優しそうな人が来てくれたらいい。こんな風に、生きる希望を考えられるようになっただけ、私は大人になったのかもしれない。そうだとしたらみんなのおかげだ。
その時だった。
「彼はそりゃあかっこよくて、優しくて......もう、さくらちゃん聞いてるのお?」
「ちょっと、待って」
今、猫の泣き叫ぶ声が聞こえた。私が慌てて走り出す。薬が効いているとはいえ、少ししか、まだ走れないけれど。
ああ、やっぱりだ! 裏の小道で、どぶに向かって中学生たちが石を投げている。木の棒で奥をつついているのを見ると、あそこに猫が逃げ込んだのだろう。
「こらあっ!! 弱いものいじめしないっ」
私が我知らず怖いような声音で一喝すると、中学生たちはびくりと振り返って、みんな逃げ出した。その様を美夕が見つめていて、美夕がはにかんだ。
「さくらちゃん」
「ん?」
「強く、なったね」
「......ありがとう」
二人でどぶの中をのぞくと、震える子猫がいた。かわいそうにがたがたと音が出そうに震えて、親猫とはぐれたのかよほど怖かったのだろう。私がすくいあげて、微笑む。
「もう、大丈夫よ子猫ちゃん」
すると子猫は眼を大きく見開いて、きょとんとしていた。
「可愛いね。とら柄だ。この子どうする? 里親募集なら私ポスター作るよ」
「いや」
私が思わず首を振る。
「この子は私が飼うよ。ずっと」
「えっ本当!! 」
やった、と美夕が喜び勇む。
「......何喜んでるの」
「だって、さくらちゃんが飼うとなったら、私いつでもこの子猫ちゃんに会えるじゃん」
「っていつでも来る気かいっもうー」
私たちがまた声を出しておなかをおさえる。子猫はやっぱりきょとんとしている。
「名前は? 名前はどうする」
「......とらお」
「......そのまんまだね」
それから美夕が、少し低いような声音で私に問うた。
「ねえ、さくらちゃん。あのさ」
「うん?」
「手術、どうするの」
この問いかけに、私は答えに窮して、再び目をとらおに転じた。
「迷ってるの」
「受けるか、どうかを?」
「うん」
アメリカの先生による完治のための手術を受けられる。その話が来たのは二週間前だった。その手術を受ければ、ほぼ完治が望める。ただし、最新の医術をもっても七時間に及ぶ大手術で、成功例もまだ多くない。ようするに、死ぬ、かもしれない。だけれど、だけど、このままではいずれ、早く死ぬ。受けたい。手術を、だけれど、やっぱり怖い。
そこで、私はまたあの人を見た。精悍な顔立ちをした、長身の男の人、少し、年を重ねたように見えた。私を見つめたまま、角を曲がっていく。
「待ってっ」
「さくらちゃん!?」
とらおを美夕に預けて、私は走り出した。少し先で、彼は私を待っていた。気づかないままに袖をひこうとする。だけれど透けていて、ちっともつかめない。
「あなた、誰なの?」
私が訊いても、彼は答えない。ただ少しだけ、笑って。
「さくら、君を待っているよ」
また――。そうして彼は消え去っていった。後にはどうしたらいいか分からない私だけが残された。
◆
それからひと月後。とらおはすっかり元気になった。私の家のリビングでごろごろとおなかを見せて転がっている。テレビの楽しい番組。あたたかな夕飯。フローリングに転がるとらお。それをお父さんとお母さんが微笑ましく眺めている。
美夕からメールが来ている。
【とらおちゃんの画像プリーズ! 】
もう、馬鹿だなあ、と思う。そんな彼女が大好きだ、とも。また明るい話をしようとしているんだろうな。私が手術を受けることになったから、幼い時みたいに、明るい話で、励まそうとしてくれている。私は手術を受けることにした。まだ私は、生きていたいから。生きて、生きてみんなともっと世界を見ていたい。あの人も、ずっと待っているというあの人にも、会えるかもしれないし。
だけれど。
「延期、ですか?」
再び病院に入院して、私の心構えが出来ていた手術が突然、延期になった。お医者様はそうは言わなかったけれど、おそらく検査の数値が悪くなったのだ。
また一人の白い病室。私が眠ったと思ったらしく、お父さんたちが家に帰っていく。こっそりつけていって、驚かせようと思ったのに。玄関近くの待合室に二人は座して、歔欷の声をあげていた。
「このままじゃ、手術の成功率五十パーセントって。どうして、どうしてあの子にこんな過酷な現実ばかり来るんでしょう」
「しっかりするんだ。あの子なら大丈夫だ。きっとうまくいく」
「だけど私怖いの。あの子が、手術室から真っ白になって無言で帰ってきたらどうしようって、たまらない気持ちになることがあるの」
私はひそやかに踵を返して、病室に行く途中の廊下で泣いてしまった。怖い、怖い。
半分しか、半分の可能性でしか生きられない。どうして、私にこんな運命が訪れるのだろう。怖い、どうしたらいいの。
「あ......」
薄暗い廊下に、私はその時、あの人の姿を見た。その手に、可愛らしい女の子と。あたりはあんまり眩しくて、まるで光に包まれているようだった。
「あ、なたは......」
私がとぎれとぎれに呟くと、彼は。
「待っているよ」
とまた優しく言った。私の眼から涙が溢れる。その瞬間、二つ結びをした女の子が叫ぶ。
「お母さん! 待ってるね!」
あの人は、あの人たちは――。そうして彼らはまた消え去っていった。もう姿も見えない。だけれど涙が止まらなかった。あの人たちは、もしかして――。
◆
「知っているか。由香」
珈琲と焼きたてパンの香りが漂う、幸福な朝食。そこで、武がぽつりと、娘に質問する。
「国際科学技術連盟が、タイムマシンの開発に成功したって。それの実験体を募集しているって」
由香が愛らしく小首をかしげる。
「えええー由香知らなかったー!」
「もうあなた、実験体なんて言葉使わないで」
私がいなすように言うと、武がすまん、と笑う。まるで反省していないな、こいつ。
あの大手術の成功から六年、私は二十六歳になり、結婚した。運命の人と。あの私の危機のたびに現れてくれた男性と、よく似た人と。
「ねえ、私たちどこかで会ったことない?」
そう出会った頃訊いたけれど、
「口説いてるの?」
と笑われておしまいだった。
美夕の彼氏、あのサークルの同じだった、ハンサムで優しい、からの紹介だった。こんな病気があったのよ。人生に何回も絶望したの。そう言っても、彼は私にずっと、手を差し伸べてくれた。そして、由香が生まれた。今は大きくなったとらおと家族四人、仲良く暮らしている。広くとられたリビングには朝の光が射して眩い。
「あ、幼稚園のバスが来たっ」
由香が楽しそうに声を出して、家を出て走っていく。私が慌てて追いかける。
「由香―バッグ忘れてるよー!」
「あ、本当だ、お母さんありがとー! 行ってくるねー!」
もう、走ってもなんともない。結婚式の時号泣していた父も母も、近所で仲良く暮らしている。私は確かに、幸福の中にいた。だからこそ、時折怖くなる。あの日、もし若かりし頃に、死んでいたら、こんな幸福を味わえなかった。絶望していたまま、死んでいた。だから、今の幸福が消えないよう、私はいつも祈っていた。
由香を見送り終えて、家に戻りリビングのテーブルに腰かけると、武がこちらを見つめていた。この上なく優しく、穏やかに。
「あなた、どうしたの」
「いや、あのさ、俺」
武がはにかみながら、告げる。
「あのタイムマシンのテストマンに選ばれたんだ」
え......。思わず私は絶句してしまう。
「それって、どういう、こと......?」
「どうも、テストマンになると、タイムマシンに乗って、過去に行くことが出来るらしいんだ。過去に行くと、俺の身体も少しずつ若くなるって。過去の人に、一言だけ話かけられるんだそうだ」
「でも......そんなの、危なくないの? 身体に負担もかかるんじゃ......」
わからない。武が微笑む。精悍な顔立ちで、優しく。私は急に不安になって、首を振ってしまう。
「じゃあ、そんなの......」
「でも、俺さ」
武の瞳はまっすぐだった。
「俺は、お前を待っていたいんだ。昔、お前が日記を見せてくれたことがあったろう? あの時の、お前の顔が忘れられなくって。お前が過去に絶望していたことは知っている。そんなお前に、待っている人がいるってことを、知らせたいんだ」
「あ、なた......」
私は次には涙が溢れて、言葉を失ってしまった。ああ、そうだ。この人は、私の夫は、いつも待っていてくれたのだ。この人は、ずっと、私を――。そうして私は、私の日記を片手にタイムマシンに乗る彼を何度も見送った。
そうして、月日が流れて。四回目のテストがあった。朝の新鮮な光のなか、彼が発とうとする。
「じゃあ、由香、さくら、俺またテストに行ってくるからな」
いつものように彼がテストに行く後ろ姿を玄関先で見送ろうとした。すると学校が休みだった由香が、二つ結びを揺らして走り込んできて、こんなことを言った。
「お父さん、私も行きたいっ」
「由香はダメよ」
「いいさ、おいで」
武が由香を抱き上げて、連れていこうとする。
「あなた、でも、小さい子なんて危ないんじゃ......」
私が不安に襲われて言うと、由香ははつらつとした声で叫んだ。
「でも由香、今より若いお母さんに会いたい!」
武もはにかんで告げる。
「大丈夫だよ。今はタイムマシンもテストマンを三百人も超して、全員無事に帰ってきているんだ。一回目とは違うよ」
「じゃあ、お母さん行ってくるねー」
(大丈夫かしら......)
私は二人の後ろ姿を見送った先から、ドアを閉じて泣き出してしまった。怖い、どうしよう。この人たちが帰ってこなかったら、どうしたらいいの。この幸福が、壊れてしまったら――。家事もなかなか手につかず、茫然と時間を過ごす。その時、またあたりが光に包まれた気がした。あの手術の日と、同じに――。
「お母さん」
優しい、声音が響いた。ああ、由香の、声だ。私が顔をもたげる。そこには、少し年をとった夫と、可愛らしく成長した由香と、老いたとらおと、そして、私がいた。
「ずっと待っていたよ」
私の眼は涙を振りこぼしてやまなかった。ああ、待っていてくれたのだ。ずっと、ずっと、私を、みんな待っていてくれたのだ。私は彼らに、言わなくてはならない言葉があった。涙で声に詰まって、微かになってしまったけれど、私は告げる。彼らに、ありったけの気持ちを。
「ありがとう......みんな」
幸福そうな家族四人が微笑む。私も微笑む。彼らが光の中に消えていく。
涙をぬぐって、立ち上がろうとした、その時。幸福が待っていた。ドアが開く。
「お母さん、ただいまー!!」
了
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