『火薬よりも軽い命 ――影足軽戦記』

ガツキー

文字の大きさ
2 / 10

第二話「犬丸、牙を剥く」

しおりを挟む
第二話「犬丸、牙を剥く」

犬丸が人を殺したのは、その次の月のことだった。

 それは戦ではなかった。刃を交えた相手は、敵ではなく、味方――いや、少なくとも、味方と呼ばれていた側の人間だった。

 一蔵が斥候任務から戻ったあと、前線は動いた。
 徳川軍の動きが活発化し、小競り合いが続く中、彼らの隊も砦の建設地に移動させられた。

 砦とは名ばかりの、崖っぷちに木を組んだだけの陣である。兵の大半は飯も満足に食えず、毎日木材を担いで登り降りするだけの生活をしていた。

「これ、絶対崩れるよな。」

 犬丸は、薪を運びながら言った。

「味方が先に死ぬな。」

 一蔵は苦笑して、それでも崩れそうな足場を踏みしめた。

 だが、この「崩れる」の意味を、ふたりはまだ知らなかった。

***

 砦の補強工事の最中、事件は起きた。

 昼休みの時間、一蔵と犬丸は小川で顔を洗っていた。
 すると、背後から誰かの怒鳴り声が聞こえた。

「おいコラ、下っ端の分際で何を飲んでやがる!」

 振り返ると、兵糧係の役人・塚原が立っていた。背の低い男だが、奉行の遠縁というだけで幅を利かせていた。

 塚原は一蔵たちの手元を見て、顔をしかめた。

「水は貴重品だ。貴様ら下賤に流していい水じゃねぇ。」

「川水でさえですか?」

 一蔵が思わず返すと、塚原は目を吊り上げた。

「逆らう気か、小僧!」

 そして、突如犬丸に歩み寄ると、頭をはたいた。
 ごん、と鈍い音が鳴った。犬丸は数秒、静かにその場に佇み、顔を上げた。

「……なぁ。」

 低い声だった。

「てめぇ、いま、俺の頭、叩いたな?」

「叩いたさ。何か文句でもあるか、下郎!」

 その瞬間だった。

 犬丸は素早く腰の小刀を引き抜き、塚原の喉元に突きつけた。

 一蔵は目を見開いた。
 だが、塚原は怯むどころか、鼻で笑った。

「脅しか? 斬れるもんなら斬ってみろよ、犬ころが。」

 静かだった。

 風の音すら消えた。

 そして――犬丸は、迷わなかった。

 刃は一瞬で塚原の喉を裂いた。
 血が噴き出す。塚原の目が見開かれる。

 どさり、と音がした。

 その音だけが、あまりにも静かだった。

***

 犬丸は逃げなかった。
 一蔵も、叫ばなかった。ふたりは、沈黙のまま川の横に座り込んだ。

「やっちまったな。」

「……ああ。」

「……お前、怖くねぇのか?」

「怖いよ。震えてる。」

 犬丸は、自分の手を見つめた。小刀にはまだ血がこびりついていた。

「でもな、あのとき斬らなかったら、俺、俺じゃなくなってた気がするんだ。」

 そう言って、犬丸は笑った。その顔には、悲しみも、後悔も、怒りも混じっていた。
 一蔵には、それがとても人間らしく思えた。

「死ぬのはわかってる。でも、あんなやつに、犬のままで殺されたくなかった。」

「お前は、犬なんかじゃねぇよ。」

 それが一蔵の本音だった。

 だが、現実は非情だった。
 塚原は奉行の遠縁。殺したとなれば、犬丸は即刻打ち首となる。

 それでも、犬丸は逃げなかった。

「逃げても、どこ行っても“犬”に戻るだけだ。」

 犬丸は笑った。

「だったら、牙を剥いて死ぬ。俺は犬丸じゃねぇ。今日から“狼丸”だ。」

 その言葉が、本気なのか、やけっぱちなのか、一蔵にはわからなかった。

 だが――その夜、一蔵は初めて「人を守るために戦う」という言葉の意味を、少しだけ知った。

翌朝、砦の空気は一変していた。

 塚原の死体はすぐに見つかった。喉を裂かれ、血に染まった衣服のまま、草の上で冷たくなっていた。
 隊内は騒然となり、兵たちは「賊の仕業だ」「敵の間者だ」などと口々に叫び立てたが、誰もが気づいていた。
 あの場にいたのは、犬丸と一蔵だけだと。

 すぐに二人は詰所に呼び出された。

 村井小隊長は黙って二人を見つめていた。背後には武士が二人、手には縄。

「犬丸。お前がやったのか?」

 犬丸は頷いた。

「そうだ。」

「何か弁明はあるか?」

「ねぇよ。」

「一蔵。お前は見ていたか?」

 問われた一蔵は、一瞬だけ犬丸を見た。

 その目は、いつものように笑っていた。が、どこかで「言うな」と告げていた。
 一蔵は、唇をかんで答えた。

「俺は……見てません。」

「そうか。」

 小隊長は深く溜息をつき、犬丸に言った。

「処分は上で決まる。それまで拘束する。覚悟はあるな?」

「ああ。」

 縄がかけられた。そのとき、犬丸はふっと笑った。

「なあ、一蔵。」

「……なんだ。」

「命ってさ、軽ぇな。でも、それを選べるのは、自分だけだよな。」

 一蔵は答えられなかった。
 ただ、犬丸が連れていかれる背中を、最後まで見送っていた。

***

 その晩、一蔵は眠れなかった。
 犬丸の笑い声が頭の中で響いていた。

 「選べるのは、自分だけだ」

 ――それが、あいつの言葉だった。

 夜半。
 小さな物音がして、一蔵は外に出た。

 物陰に、村井小隊長がいた。灯を持たず、目だけが光っていた。

「……お前は、犬丸を助けたいか?」

 その言葉に、一蔵の心がざわめいた。

「助けられるんですか……?」

「条件がある。お前が斥候として、敵陣の配置図を手に入れてこい。うまくいけば、上への手土産になる。」

「それで……犬丸の命が?」

「保証はしない。ただ、見逃す余地はできる。」

 一蔵は、拳を握った。

 命は、軽い。だが、誰かの命の重さは、自分の選択で変えられる。
 そう思った。

「……やります。」

「よし。」

 小隊長はうなずき、一枚の地図を手渡した。

「今夜出ろ。明け方までに戻れなければ、犬丸は処刑される。」

***

 真夜中。
 一蔵は砦を抜け、山中を駆けた。

 敵陣は谷の向こう。見つかれば即、死。
 心臓の音が耳の奥で鳴る。

 気づけば、自分はまた命を捨てる任務にいた。だが、今回は違った。

 これは“生きて帰るため”の任務だった。

 敵の陣に忍び込み、地図を盗む。
 鉄製の杭を打ち、焚き火の数を数え、見張りの動線を紙に記す。

 足音ひとつで殺される空間。

 だが、今の一蔵は、震えていなかった。
 犬丸を――あの“狼丸”を守るためなら、なんでもできると思っていた。

 夜明けが近づく。月が沈む。
 帰り道、足を滑らせて転んだ。手を切った。血が流れた。

 それでも走った。

 「お前は犬じゃねぇ」
 あの言葉を、守るために。

***

 朝、砦に戻ったとき、村井小隊長は無言で地図を受け取った。
 それから一時間後、犬丸の処分は「追放」と決まった。

 首は斬られなかった。

「……ありがとう。」

 犬丸は、一蔵にだけそれを言った。

「これから、どこに行くんだ?」

「わかんねぇ。でも、犬としてじゃなく、人間としてどっかで生きてみるさ。」

 そして、握手をした。

 それが、最後だった。

 一蔵はその夜、日記にこう書いた。

「狼丸、砦を去る。
 命の重さを、他人のために使うことを覚えた。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

処理中です...