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瞬きセーラー服
瞬きセーラー服
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どうにもだめな朝だった。
肺に流れる冷たい空気を、そっと追い出す。いってきますと伝えたのは随分前のことだ。前を見なくても辿り着けるのではないかという道を一歩一歩踏みしめる。
いや、本当に前を見ないのは、危ないからしないけれど。ずっと心臓が煩くて、ごうごうと音がする。
教室に入ると、佐和と果林が声をかけてきた。
「おはよう」
「おはよう、今日寒いね」
本当は寒さなんてどうでもいいくせにそんな言葉を交わす。頭の上を通り過ぎてゆく昨日のテレビの話とか、誰かの好きな人の話なんかをぼうと聞いていた。相槌は上手く打てない。何かを不審に思った二人が目配せをしているのにも気付いていたが、大丈夫だよとも話を促す言葉も音にはならなかった。ごめん、を心の中で呟いて唇を噛む。
大丈夫? なんて聞かれて大丈夫じゃないと言う勇気は、私にはないから。
心臓は、まだうるさい。
だめだな、と思う。多分だめだ。今日の私はどうしようもなく、だめ。
そう思ったのは、予鈴が鳴る五分前だった。クラスメイトの大半が教室に集まって、談笑をしている。部活の朝練も終わった頃だろう。数分ごとに騒がしくなる教室に、ちらりと心が揺れてしまった。友人たちは、私のことを気にしつつも会話に花を咲かせている。少しだけ、良かったと思う。
受験勉強が終わって、クラスにもほど良く馴染んだ。友人も出来たし、家族もみんな仲が良い。不満なんて特になかったし、悩みなんかもべつにない。流れていく日常を消化して朝になる。そういう繰り返し。これでいいんだと思う。これが幸せってやつなんだと思う。
でもこのすかすかした隙間は。この隙間は一体どうすればいいというのだろう。
鞄の中の教科書を取り出して、机にしまった。飲み物だけを押し込めて、ジッパーを閉じる。私の周りだけやたらと空気が静まり返っていた。その空気が、窓から舞い込む秋風を更に冷たくした気がして。
本当にだめだな、とわかってしまったのだ。
机の横に下げていた皮鞄をきゅっと掴む。手に柔らかい取っ手が沈んで、少し心許ない。けれどもう止まれなかった。息を吸って、吐いて、この感情を逃してしまうのにも行き止まりが来ていたから。
がたん、と脹脛の裏で椅子を押しやる。
「芽吹?」
佐和の不思議そうな声が机の上に落ちる。
「具合悪いの?」
果林がそう重ねて問うが、私は目尻をぎゅうと下げて笑ってみせた。
「そうみたい、帰るね」
それだけ口にして、ぽかんとした二人を置いて逃げ出すみたいに扉へ向かう。お大事にとか何とかどちらかがいった気がする。でももう振り向く気には慣れなくて上履きを扉の外へと滑らせた。
本当は熱もないし、目眩さえなかったけど。
この不明瞭な感情を抜けたかっただけだ。抜け出すための嘘をつく方法はもう知っていた。大人が思うほど私たちは、幼くはなかったから。でも幼いふりをしていることにしていた。それが今をやり過ごす方法なんだって思っていたいから。
一歩廊下に出ると、剥き出しの外風が舞い込んでくる。スカートをぶわりと揺れ動かす強い風。階段を降りていると、中庭の落ち葉が少しだけ赤くなり始めていた。風に煽られて落ちた葉っぱの音が心地いい。舞い上がるスカートを鞄で押さえながら残りの段数を降りた。
「そこの女子生徒、授業あと五分で始まるぞ。どこのクラスだ?」
校門に差しかかると、生徒指導の熊先生に声をかけられた。熊先生というのはあだ名だ。本当は三木先生という名前なのだけれど、筋肉がムキムキで見るからに熊みたいなのでみんなにそう呼ばれている。
「二年三組の沢原です。今日は熱があったので帰宅するよう言われました」
風に持っていかれないように声を張る。嘘をつく時には躊躇わないのがポイントだと思う。背中がそわそわと泡立った。
熊先生は眉根をぐっと寄せる。ジャージを捲り、太い腕を組んだまま低く唸った。
「…………そうか」
もうすぐ門を閉めるから早く出なさい。時計を覗き込みそう言うと、熊先生はまた門の横に仁王立ちになる。
「はい。先生、さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて」
挨拶もそこそこにして、私は門を通り抜ける。音のしない空気が、どっと緩んだ気がした。
小一時間前に来た道をゆっくりと歩く。穏やかな下り坂が続く道を、道なりに真っ直ぐ真っ直ぐ。
駆け込み登校の子たちさえいない通学路は、別の道みたいな顔をして佇んでいる。堂々と塀の上を歩く猫を眺めたり、遠くで聞こえる電車の音に耳を澄ませる。
財布の中、お小遣いいくら残っていたっけ。
取り出した財布の中身は、千円札が一枚と百円玉が三枚。それから一円玉が一枚。鞄の内ポケットから携帯電話を取り出して電車を調べる。ここから一番遠い駅まではいくらかかるのかな。
木陰から伸びてくる日差しが、暖かくて後ろめたかった。逃げるように駅までの足を早める。改札に着いたときには、息が切れていた。は、は、と心臓から絞り出した白が短く吐き出されて消えてゆく。
電子マネーの残金は千円もない。路線図と財布を見比べる。一番遠い駅。出来るだけ、ここから遠い駅。
「…… 水白駅?」
それは聞いたことのない駅名だった。もちろん行ったこともない。普段乗らない方向なのだから当たり前なのだけれど、こんな駅あったかなと首を傾げる。そもそもこっちの方面はなかなか行かないし、それで知らないだけかもしれない。
終点まで行けないのは気に入らなかったが、仕方がない。うん、ここにしよう。
改札を通ってホームへのエスカレーターに足を乗せる。駅員が少ないこの駅は、通りすがりの学生なんぞ見ている暇などないだろう。見ていたとしても、さっきと同じ理由を口にすればいい。
ピッと鳴った電子音が、頭の中でこだましていた。どこかへ行くための音。本当は鳴ってはいけない音なのだとわかってはいるけれど。
ホームに上がると、丁度電車が入ってくるところだった。ガタンゴトンと車体が近づいて、アナウンスが流れる。人はぱらぱらとしかいなかった。するすると開く扉をゆっくりと通って、一番隅っこの席に座る。遮光ブラインドが下された席は陽の光が届かなくて、でも車内の暖房でちっとも寒くはなかった。
まもなく扉がまたするすると動き、帰宅路と逆方向へ景色が動き始める。
耳にしたことのある次駅の名前を聞きながら、早くもっと遠くに行ってしまえばいいのに、と思う。
はやく、はやく。ここから、連れ去って。
穏やかな温度にうつらうつらしていると、知らない景色が向かい側の窓に流れていた。
「次は淡雪淡雪駅」
車掌さんのがらがら声が人気のない電車に響き渡る。気がついたら、車両は私一人だけになっていた。路線図を見て、ほっと心臓が緩む。どうやら寝過ごしてはいないようだ。
ぷしゅう、と音がしてまた扉がするする開く。人は一人降りたかどうか。あっという間に閉まった扉、またガタンゴトンとかすかに車体が揺れる。
携帯を見ると、まだ十時を少し過ぎたところだった。電子の数字が浮かぶ画面に、沢山の通知がぽこぽこと並んでいる。一通りさらさらとスクロールして、私は電源ボタンに力を込めた。何かを押し込めるようにぎゅうぎゅうと。少ししてそろりと見た画面は真っ黒で、またほっとした。今は知った名前を見ることさえ嫌だった。級友の私を心配するメッセージを見るくらいなら、ダイレクトメールの方がましだと思った。
〝大丈夫?〟
一言目に入っていた言葉が私の喉の奥にぐっと刺さる。これは魔法の言葉だ。悪い方の魔法の言葉。
だってこれを言われたら、私は大丈夫としか言えなくなる。その言葉が善意を固めて丸めて、差し出したような形をしていればしているほど。本当のことなんて何も言えなくなる。
でも、今日の私は。大丈夫、とは言わなかった。
「次は水白駅、水白駅」
がらがら声が再び車内に響く。真っ暗になった薄い板を鞄に放り込んだ。定期ケースへ意味もなく手を伸ばす。ガタン、と少しだけ大きく揺さぶられて電車が到着の信号を鳴らした。降りそびれないよう、急いで扉の近くに立つ。ぷしゅう、と空気の漏れるような音がして数秒後、私は知らないホームを踏んだ。
降りたお客は私だけだった。今回も扉が閉まるのはとても早くて、私が降り立ったのを確認した車掌さんは何か合図のようなものを出してすぐに運転席へと戻っていった。そして若草色の短い車体はガタンゴトンと体を揺らしながら目の前を駆け抜けていく。電車の尾が見えなくなるのはあっという間だった。確かこの電車は各駅停車のものだったのに。
風を遮るものがなくなった瞬間、冷え切った温度が吹き付けてきた。ぼろぼろの看板が少しだけカタカタと揺れた。よく見れば「水白駅」と書かれた駅の表示だけがペンキで綺麗に塗りなおされている。薄く淡い、名前通りの白と水色の表示だった。綺麗な色だ、と思う。まあその周りはあちこち錆びていたけれど。
水白駅は小さい停留所のようだった。周りは雑草なのか、蔦なのかわからない植物が青々と茂っていて改札はひとつだけ。改札口まで足を動かしながら、さてこれからどうしようかと、実は何にも考えていなかったことを思い出した。見たところ特に目立ったものも、美味しい食べ物も何もなさそうだ。本当に田舎、緑緑緑の連続。学校の駅より小さな駅を知らなかったが、ここは通い慣れた駅よりもうんとこじんまりしていた。
ポケットの電子端末に手をかけて、ぱっと離す。ナビで探せば何かあるだろう。そんなことはわかっていたけれど、何か、何か嫌だった。改札へ辿り着くと、のんびりしてそうなおじさんが一人駅舎に立っていた。無人駅じゃなかったんだ、というのが正直な感想だ。
駅員さんは私の方をちらりと見遣って、それから興味なさそうにふいと顔を逸らした。それは私にとって好都合だったので、知らぬふりをしてカードを軽く改札に触れさせる。何気ないように、さもそれが当然のように、胸を張って。
どくどくと鳴る心臓には知らんふりをした。改札から数メートル離れたところでそっと、そっと息を吐いた。校門で先生とすれ違った時よりずっと、心臓がばくばくしている。ゆっくり首だけ振り返ってみると、駅舎の屋根だけが眩しく反射していた。駅員さんはもともといなかった人のように、もうどこにも見当たらなかった。
鞄からペットボトルを引っ張り出して、ごくりと喉に流し込む。冷たくなった液体とコート越しの冬風に、身体と頭が冷えていく。
さて、どうしようか。
このまま帰ってしまうのは勿体ないと思った。片道三九〇円もかかったのだ。それにこの場所に用がある風に降りたのだから、すぐ戻ればあの駅員さんが怪しく思うに違いない。
駅の前は平坦な道が続いていた。時折り吹き付ける風にスカートを押さえながら、コンクリートを踏む。
どれくらい歩いたのだろうか。何せ時間がわかるものがなかったので感覚でしかわからないが、十分ぐらい歩いていたと思う。思ったよりもここは何もない町だった。街じゃなくて、町。人はほとんど歩いていない。今までにすれ違ったのは犬の散歩をしたおじいさんかおばあさん。子供連れのお母さんも一組見かけた。そのぐらいで、日中ということもあってか学生は見かけることはなかった。
それはできるだけ人に会いたくない私にとってはまたもや好都合だったけれど、ちょっとだけ心細かった。駅までの道は迷わない自信があるが、こうも何もないとなると退屈と不安が一緒くたになって足元から染み込んでくる。
いよいよ、人とすれ違わなくなってきた。そろそろ帰ろうかな、そう思った時だ。一つの看板が私の目に映り込んできた。
〝水白水族館はこの先十メートルです〟
うっかりすると見落としてしまいそうな、駅の表示よりさらに地味な看板だった。小さくて、剥げたペンキ、目を凝らすとそれは魚とペンギンの絵だとやっと理解することができた。
いかにも流行ってなさそうな水族館。一体何年前からあるものなのだろう。
私は立ち止まって、財布の中身を覗く。こんなに古い水族館なら、もしかしたら。
別に特別魚が見たいとか、イルカが見たいとか、そういうのはまるでなかった。ただ、少し時間が潰せるかなと思ったのだ。それだけだった。おまけにここから十分。まあこういうのは大概短めに書いてあるので、多く見積もって十五分というところだろう。多分、そんなに遠くない。
吹き付ける木枯らしに、コートの前を押さえながら足を早めた。建物の中ならこの寒さもましだろうし。
看板の矢印通りに足を進めると、その建物はにゅっと顔を表した。音で表すととおかしいかもしれないが、実際にそんな印象だったのだ。
所々にある看板のおそらく最後、〝こちら水白水族館〟という矢印の角を曲がると、大きな水色のイルカと目が合った。
「わ」
ここがどうやら入り口らしい。奥にはドーム状のこじんまりとした建物が見えた。敷地へ一歩入ると、ピンクと、オレンジ、黄緑に、紫と様々な色のイルカの置物がある。近くに行って見上げると黒々としたつぶらな瞳が太陽光をぴかぴかと映していた。
「こんなの……ちょっとした遊園地だよ……」
あまりにも賑やかな入り口に、思わず独り言を溢す。所々また例の看板のように剥げている水色の身体はこの建物が年季ものであることを物語っていた。
「お客さん、いるのかな」
沢山居たら、やめよう。でも居なさすぎても、やめよう。愛嬌のある顔としばらく見つめあって、私はそう決めた。ようこそとカラフルに書かれた地面を踏みながら、入り口へ向かう。やっぱりペンキは剥げていた。
ガラスの扉は手動式だった。ぐっと力を入れて押す。思っていたよりも扉は重く、もう一度体ごとガラスを押し込んだ。
今度は力を入れ過ぎたらしく、ドアの隙間から体が入り込んで拍子抜けする。よく効いた暖房の空気が指先を温めていく。外の風音も聞こえない静かなその空間は柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。イルカショー十時、十四時、十六時。大人(高校生以上)一六〇〇円、小中学生一〇五〇円、幼児五〇〇円。一足そこに踏み入れると、カラフルな見出しが目についた。
財布の中をもう一度見る。千円札が一枚と、小銭が少し。今月のお小遣いはこれで全部だ。水族館なんて、そんなの。
好きでも嫌いでもない、けど。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか」
落ち着いた、心地の良い低音がエントランスに響いた。
「ひっ!」
いつのまにか現れた人の姿に、思わず飛び上がる。喉の奥でひゅっと音がした。
「これはこれは驚かせてしまい、申し訳ございません。お一人、で間違いないようですね」
「一人です、けど……」
まだ入るとは決めていない、とは言いづらくて口の中でもごもごと言葉を絡ませる。
「ああ、失礼致しました。ここは水白水族館。私は支配人の紫野と申します」
何を勘違いしたのかその男の人は簡単に自己紹介をすると、ぎゅうと目尻を下げてみせた。百八十センチをゆうに越えた身長、グレーがかった髪はきちんとセットされていて無精髭もない。真っ黒な制服に、アイロンがぴしっと掛けられているであろう白のシャツ。おじさんには違いないその人──紫野さんはおじさんと一括りにするのはちょっと違う雰囲気の人だった。
「この水族館は小さいですが、一息つくにはとてもいい場所だという声も頂いたりするのですよ」
さっと振り返って、紫野さんは中へ進む道に腕を指し示す。燕脂色の絨毯の上に招くような素振り。
「はあ」
何と言っていいかわからず、気の抜けた返事をしてしまった。そんな私を見て、彼はくすりと笑う。
「生憎、今日はお客様もほとんどいませんので」
眉をへにゃりと下げた紫野さんは、困ったように頭を掻いた。それがおじさんにしては可愛らしかったので、私は思わず頬が緩んでしまう。
「……じゃあ、せっかくだし」
入場料の受付カウンターに向かおうとした私に、また低く静かな声が耳を打った。
「お代は結構ですよ」
「え?」
「あなたに当館をおすすめしたのは私ですから」
そう囁くように小さな声で告げると、彼はしぃっと自分の唇に指を当てた。
「あの、そんなの……大丈夫です、お金あります」
差し出した財布が二人の間で彷徨っている。
「では当館を楽しんでいただくこと。これがお代でいかがですか?」
それに、と彼は今度は悪戯っ子みたいな笑みを浮かべた。
「きっと気に入っていただけると思いますよ。当館の展示は素晴らしいものばかりですから」
さあ。紫野さんはくるりと背を向ける。この話は終わったとでも言うように。暖色の灯りが差し込む入り口があまりにも柔い空間に見えて、私は吸い込まれるように館内へと足を進めた。だってせっかく遠くまで来たのだし。お金もいいって言われたし。それに、さっきまでの寒空の下に逆戻りはさすがにこたえる。水族館って歳でもないんだけどなあ。そう思いながら紫野さんがとっくに姿を消した館内を覗き込んだ。あの自信がありそうに輝いた、深いグレーの瞳が私の何かを引き止めていた。
そうだな、申し訳ないけれどつまらなければ適当に見て帰ればいいんだし。
携帯に手を伸ばして、また引っ込めた。それは触れてはいけないタイムマシンのような気がして。私は今度こそ館内へと伸びるふかふかの絨毯を踏んで進んだ。
はじめのフロアでは、様々な形の水槽に入った小さな魚たちが私を迎え入れてくれた。まるいもの、四角いもの、細い筒状のもの、大きな金魚鉢みたいなもの、更には三角形のものまである。
水族館なんて小学校の遠足で行ったきりだったが、今はこんなに様々な形の水槽があるんだ。形だけではなくて色もたくさんの種類があった。私は一つずつ見て回ることにする。入り口のところから順番に。
ふと壁のテーマが目につく。どうやらこの水族館は各ブースごとにテーマがあるらしかった。しまった、どうせなら入り口でパンフレットをもらっておけばよかったと思う。
「空を泳ぐ水魚たち、か」
なんとなくテーマを口にして一つ目の水槽を覗き込んだ。大きな金魚鉢型の真夏の青空のような空間の中で、軽やかにそれは踊っていた。銅の長い真っ白な美しい魚だった。照明の光をガラス越しに受けた背鰭が空色に染まって見える。なるほど、空を泳ぐと言われればそう見えるな。
次に覗き込んだのは、三角錐の形をした夕焼けのような橙色の水槽だった。水草が縦に長く伸びている。隙間から顔を出したのは、深い紅色の魚。さっきの魚よりも随分と小さく、メダカと同じぐらいの大きさだ。その魚は高く聳え立っている三角錐の天辺近くまで優雅に泳いで戻ってきてを繰り返していた。よく見ていると一匹で高く泳ぐものはほぼおらず、二匹、または三匹ですいすいと昇っていくのだった。
次の水槽へ足を向ける。それは、おばあちゃんの家に行った時に見上げた夜空の色だった。深い濃紺の水槽は真四角で、一番飾り気がなかった。友達の家で見た家庭用の水槽よりかなり大きかったけれど、ここまで変わった形が続いていたので何の変哲もないように見えた。
その角ばった水槽の中で泳いでいる魚を見るまでは。
それは一言で表してしまえば、〝宝石の魚〟だった。
純白のオパール、深紅のルビー、冴え渡るサファイア。エメラルドは森の雫を垂らしたような色であったし、アメジストは道端のすみれを溶かしたような可憐さだった。それらは今までの魚と違って、形も色も何一つ同じではなかった。ただ各々自由に泳いでいることだけが等しく同じだった。ひらり、ひらりと長い尾鰭を水の流れに任せながら。
それらの唯一似通った部分があるとするならば、この尾鰭ぐらいだろう。体の大きさは金魚ぐらいのものから、拳二つ分ぐらいまでと様々だった。背鰭が尖っているもの、丸いもの、平たいもの、丸々としているもの。本当に全てがばらばらだったのだった。
魚たちは私がガラス越しに覗き込んでいることなんてどうでもいい、あるいは興味がないとでもいうように横長の水の中を進んで目の前を通り過ぎていく。蛍光灯が差し込む近くですれ違うと、薄く透けそうな尾鰭が水の中で互いの色を映し込んだ。
私はほう、と息を吐く。自分でも音になるまで気がつかなかった溜め息。自分が、美しいものを見て溜め息が出る人間だとは知らなかった。今の今まで。
えっと、この魚の名前は。
「おや、まだこんなところにいたのですか」
私が魚の名前に目を凝らそうとした時だった。聞いたことのある音が耳に届く。
「紫野さん」
ふらりと現れた彼は後ろ手を組んで美しいでしょう、と静かに言った。
「当館の展示はどれも私の気に入りですが、魚に興味を持っていない人でも思わず見惚れてしまう。そんな魅力がありませんか?」
ちらりと寄越された視線に俯く。そういえばつまらなければ帰ろうと思っていたのだったっけ。
「ここの魚たちは皆様を一番にお迎えする場所でもありますからね。いつも煌びやかに美しく舞ってくれるのです」
紫野さんは口角を持ち上げて、満足そうに微笑む。
「どの水槽がお好きでしたか?」
優しく見下ろされた瞳に、私は口を開いた。
「この、濃紺の水槽です。その、どれも綺麗でしたけど……この中で泳ぐ魚たちがまるで宝石みたいに見えて、それで」
しばらく黙っていたせいで、長い言葉が上手く回らなかった。つっかえながらやっとそう言うと、紫野さんは凛とした目元を柔らかくして頷く。
「夜空の水槽、ですね。確かにこれはとても珍しい魚なのです」
骨張った手が顎を撫でる。
「私もこんな綺麗な魚は見たことありません。って言っても、魚は全然詳しくないんですけど。水族館なんて子供の頃行ったきりですし」
「そうですか。たまにはいいでしょう。ゆったりと夜空を泳ぐ宝石を眺めるのも」
「はい」
私はこくりと首を振った。
「では、ちょっとした小話でもしましょうか」
首を傾げる私に紫野さんの目は悪戯っぽく光っている。
「私の退屈しのぎに少し付き合っていただけませんか?」
紫野さんはまた茶目っ気を覗かせた声で、フロア中央のスツールへと私を促した。古いがよく手入れされたカーペットを数歩歩いてそれへ腰掛ける。水模様の光を浮かべているスツールは、ひんやりとしていた。私はスカートが皺にならないように慌てて引き寄せる。
「あの子達はね。ああ、子と言ってしまうのは私の癖なのですが……あの魚達はグンジョウアセウオと言いまして、全て同じ魚なのです」
「え?」
私の反応がわかっていたというように、紫野さんは声を弾ませた。
「驚きますよね。あんなに姿も色も何もかもが違うのに、もとは一種類なのですよ」
「一種類……」
「ええ、そうですとも。色もはじめは透明、形も同じで大きさは小指の先ほど。でもね、一年二年と時が経つにつれて不思議と少しずつ変化していきます。色、形、大きささえ、全く同じものにはならないのです。例えば兄弟や親子でだって。不思議でしょう?」
こくこくと頷く私を横目で見ながら、紫野さんは続ける。
「そしてあの子達はとても長生きなのですが、十数年するとまた変化の現れるものもいまして。最後は皆また透明な姿へと変化をします。元に戻ると言った方が正しいかもしれませんね」
「みんな透明になってしまうんですか?」
「そうです、形は変わらないですが色だけはどんなに鮮やかでも最後は透明になります。少し寂しいのですがね。そんな変化からあの子達はグンジョウアセウオと呼ばれているのですよ。ほんのいっときだけ、青春の最中にだけ、この上なく輝いてやがて陰り、褪せた色になることを指しているのでしょう」
にっこりと弧を描く紫野さんの口元。私を映している細められた目をまじまじと見る。こんな話は聞いたことがない。テレビでだって見たことがない。この人は私を揶揄っているのだろうか。
まるで私の考えていることを見通したように、しばらく目を丸くしている私にくすくすと彼は笑った。
「御伽噺のような、真っ赤な嘘のようなそんな話だとお思いでしょう?」
私は何と言っていいか分からずにもごもごと口を動かすが、結局言葉にはならなかった。
「貴方が嘘だとお思いになるならそれはきっとそうなのでしょう。そんなことはね、どうだっていいと思うのですよ、私は。ただそういう話もあるだけです。本当か嘘かわからないものは、まだまだたくさんある。けれどあの美しさだけは本当です。それだけは、確かなのです」
そう結んで、彼は再び濃紺の水槽に視線を移した。もう彼が何も話すつもりがないのは、なんとなくわかった。遠目でもわかる、光に反射した鱗がきらきらと眩しかった。
「綺麗ですね、とても」
捻った感想さえ出てこなくて、ただありのままを言葉にする。
「ええ」
静かな柔い音が響いて、すぐにそれも無くなった。
一瞬しか輝けない魚、透明になる最後、濃紺に広がる宝石色。
それはまるで私たちみたいだと思った。
こんなに綺麗じゃない、眩しくない。でもどこか似ている。触れるものによって形を変えて、交わる人間によって色も変わる。
ああ、そうか。
私はなぜこの魚たちに惹きつけられたのか、わかった気がした。美しいからだけじゃない。目まぐるしいほど目の前を過ぎる鮮やかさは、今の私たちにとても似ていたからだ。
私はいつのまにか隣から姿を消していた紫野さんを探す。すっと伸びた背筋を、奥のフロアに消える寸前に見つけた。
「紫野さん、私がきっと気にいるものがあるって! そう言っていましたよね!」
荒げた声は高い天井に吸い込まれて、キンと反響する。
「あれは、この魚のことですか? グンジョウアセウオを私に見せたかったんですか?」
ごうごうと耳元で鳴る何かに急き立てられるように、息を吸う。私の言葉にぴたりと足を止めた彼は振り返ってしぃと人差し指を唇に当てた。
「当館はお客様にお見せするものを選んだりはいたしません」
きっちりと線を引くような言葉。
「じゃあ、なんで……」
「しかしながらここは、お客様が見たいものを見せる水族館です。本日お客様はグンジョウアセウオをご覧になった。それが事実で、唯一の確かなことですよ」
革靴の音がする。踵をぴったりと揃えてゆっくりお辞儀をすると、紫野さんは私に背を向けた。コツンコツンと靴音が遠くなってゆく。ぽっかりと暗い空間に今度こそ彼は飲み込まれていった。
紫野さんと話したのはそれが最後だった。私は自分以外いないフロアでしばらくの間、宝石たちが泳ぐ水槽を眺めていた。
私があの中の魚なら。一体どんな色なのだろう。そもそもあんなに美しく輝いているのだろうか。一人透明なままではないのか。
いいや、違うのだ。紫野さんは言っていた。グンジョウアセウオは全てに色がつくと。どんな形にでも、どんな色にでも、何にでも。
そうだ、何にでもなれる。多分私はどんな色にでもなれる。例え最後はまた透明になろうとも。多分何にでもなれるのだ、まだ今ならば。
私は携帯を取り出して、電源ボタンを長押しする。眩く光るディスプレイに薄目を開きながら、ポコポコ上がってくる通知を消した。時間はとうにお昼を過ぎていた。わかった途端、ぐうとお腹が悲鳴を上げる。
私は現金な自分の胃袋に可笑しくなりながら、ポケットに携帯を滑り込ませた。
まだたくさん展示物はあるのだろう。でも何故だかもう十分に見た気がした。見るべきものを見た気がしたのだ。帰ろう、そう思った。
明るいエントランスから一歩外に出ると、冷たい風がびゅうとスカートを攫っていく。その一陣で私は夢の中から現実に戻ってきたような不思議な感覚になる。
振り返ってみると、〝水白水族館へ、ようこそ〟の文字。ドーム状の建物に、絶妙に可愛くないペンギンのマスコットキャラクター。どこにでもありそうな場所。お客さんなんてほとんどいない寂れた水族館だ。私は指先を握りしめる。
そして違和感に気づいた。そろりと指をほどく。手のひらのなかには半券があった。今日の日付、大人一人。あれ? と思う。
「私、チケットなんて買ってないのに……」
確かエントランスで紫野さんに会って、内緒ですよと言われてそれで。でも少し折り曲がってしまったこれは間違いなく水白水族館と書いてある。
私はもう一度その建物を振り返る。古びたカーペット、薄暗くて心地の良い空気、夜空を泳ぐ宝石色の魚たち。確かにそれらはここにあった。今、見てきたばかりなのに、それなのに。
心が妙にざわざわした。もう二度とここには来られないような気がした。それは確信にも似た感覚で。
あの、不思議に柔らかい目元にくすくすと笑われた気がした。
「結局、紫野さんにお礼言えなかった」
多分もう彼と会うことは二度とないだろう。そして多分ここにもきっともう二度と。
「……帰るか」
なんとなく独り言を呟いて、私はマフラーをぎゅっと首に巻きつけた。
寂しいような、懐かしいような、変な気持ちだった。それでもやっぱり帰りたいと思った。
私は、私の水槽へ。
あの小さく平和な水槽へ、きっと帰るべきなのだろう。冒険はおしまい。逃避行もおしまいだ。
手の中で震えた携帯に目を落とすと、友人からのメッセージが立て続けに入っていた。
〝大丈夫?〟
その言葉はもう無慈悲で意地悪な言葉には見えなかった。
「大丈夫、大丈夫」
口にしたものと同じ言葉を打ち込んで、画面を切った。
今から私たちはどんな色になるのだろう。
どろりとした赤かもしれない、全てを包んでしまう黒かもしれない。それは、まだわからない。
けれどきっと。もっとずっと、うんと先に私は自分自身が何色であったかを思い出す時が来るのだろうと思う。その時にああ美しかったと、そう思えたならば。
私は駅への道を足早に歩く。ぐうぐうと鳴るお腹の音が私を早く早くと急き立てていた。
肺に流れる冷たい空気を、そっと追い出す。いってきますと伝えたのは随分前のことだ。前を見なくても辿り着けるのではないかという道を一歩一歩踏みしめる。
いや、本当に前を見ないのは、危ないからしないけれど。ずっと心臓が煩くて、ごうごうと音がする。
教室に入ると、佐和と果林が声をかけてきた。
「おはよう」
「おはよう、今日寒いね」
本当は寒さなんてどうでもいいくせにそんな言葉を交わす。頭の上を通り過ぎてゆく昨日のテレビの話とか、誰かの好きな人の話なんかをぼうと聞いていた。相槌は上手く打てない。何かを不審に思った二人が目配せをしているのにも気付いていたが、大丈夫だよとも話を促す言葉も音にはならなかった。ごめん、を心の中で呟いて唇を噛む。
大丈夫? なんて聞かれて大丈夫じゃないと言う勇気は、私にはないから。
心臓は、まだうるさい。
だめだな、と思う。多分だめだ。今日の私はどうしようもなく、だめ。
そう思ったのは、予鈴が鳴る五分前だった。クラスメイトの大半が教室に集まって、談笑をしている。部活の朝練も終わった頃だろう。数分ごとに騒がしくなる教室に、ちらりと心が揺れてしまった。友人たちは、私のことを気にしつつも会話に花を咲かせている。少しだけ、良かったと思う。
受験勉強が終わって、クラスにもほど良く馴染んだ。友人も出来たし、家族もみんな仲が良い。不満なんて特になかったし、悩みなんかもべつにない。流れていく日常を消化して朝になる。そういう繰り返し。これでいいんだと思う。これが幸せってやつなんだと思う。
でもこのすかすかした隙間は。この隙間は一体どうすればいいというのだろう。
鞄の中の教科書を取り出して、机にしまった。飲み物だけを押し込めて、ジッパーを閉じる。私の周りだけやたらと空気が静まり返っていた。その空気が、窓から舞い込む秋風を更に冷たくした気がして。
本当にだめだな、とわかってしまったのだ。
机の横に下げていた皮鞄をきゅっと掴む。手に柔らかい取っ手が沈んで、少し心許ない。けれどもう止まれなかった。息を吸って、吐いて、この感情を逃してしまうのにも行き止まりが来ていたから。
がたん、と脹脛の裏で椅子を押しやる。
「芽吹?」
佐和の不思議そうな声が机の上に落ちる。
「具合悪いの?」
果林がそう重ねて問うが、私は目尻をぎゅうと下げて笑ってみせた。
「そうみたい、帰るね」
それだけ口にして、ぽかんとした二人を置いて逃げ出すみたいに扉へ向かう。お大事にとか何とかどちらかがいった気がする。でももう振り向く気には慣れなくて上履きを扉の外へと滑らせた。
本当は熱もないし、目眩さえなかったけど。
この不明瞭な感情を抜けたかっただけだ。抜け出すための嘘をつく方法はもう知っていた。大人が思うほど私たちは、幼くはなかったから。でも幼いふりをしていることにしていた。それが今をやり過ごす方法なんだって思っていたいから。
一歩廊下に出ると、剥き出しの外風が舞い込んでくる。スカートをぶわりと揺れ動かす強い風。階段を降りていると、中庭の落ち葉が少しだけ赤くなり始めていた。風に煽られて落ちた葉っぱの音が心地いい。舞い上がるスカートを鞄で押さえながら残りの段数を降りた。
「そこの女子生徒、授業あと五分で始まるぞ。どこのクラスだ?」
校門に差しかかると、生徒指導の熊先生に声をかけられた。熊先生というのはあだ名だ。本当は三木先生という名前なのだけれど、筋肉がムキムキで見るからに熊みたいなのでみんなにそう呼ばれている。
「二年三組の沢原です。今日は熱があったので帰宅するよう言われました」
風に持っていかれないように声を張る。嘘をつく時には躊躇わないのがポイントだと思う。背中がそわそわと泡立った。
熊先生は眉根をぐっと寄せる。ジャージを捲り、太い腕を組んだまま低く唸った。
「…………そうか」
もうすぐ門を閉めるから早く出なさい。時計を覗き込みそう言うと、熊先生はまた門の横に仁王立ちになる。
「はい。先生、さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて」
挨拶もそこそこにして、私は門を通り抜ける。音のしない空気が、どっと緩んだ気がした。
小一時間前に来た道をゆっくりと歩く。穏やかな下り坂が続く道を、道なりに真っ直ぐ真っ直ぐ。
駆け込み登校の子たちさえいない通学路は、別の道みたいな顔をして佇んでいる。堂々と塀の上を歩く猫を眺めたり、遠くで聞こえる電車の音に耳を澄ませる。
財布の中、お小遣いいくら残っていたっけ。
取り出した財布の中身は、千円札が一枚と百円玉が三枚。それから一円玉が一枚。鞄の内ポケットから携帯電話を取り出して電車を調べる。ここから一番遠い駅まではいくらかかるのかな。
木陰から伸びてくる日差しが、暖かくて後ろめたかった。逃げるように駅までの足を早める。改札に着いたときには、息が切れていた。は、は、と心臓から絞り出した白が短く吐き出されて消えてゆく。
電子マネーの残金は千円もない。路線図と財布を見比べる。一番遠い駅。出来るだけ、ここから遠い駅。
「…… 水白駅?」
それは聞いたことのない駅名だった。もちろん行ったこともない。普段乗らない方向なのだから当たり前なのだけれど、こんな駅あったかなと首を傾げる。そもそもこっちの方面はなかなか行かないし、それで知らないだけかもしれない。
終点まで行けないのは気に入らなかったが、仕方がない。うん、ここにしよう。
改札を通ってホームへのエスカレーターに足を乗せる。駅員が少ないこの駅は、通りすがりの学生なんぞ見ている暇などないだろう。見ていたとしても、さっきと同じ理由を口にすればいい。
ピッと鳴った電子音が、頭の中でこだましていた。どこかへ行くための音。本当は鳴ってはいけない音なのだとわかってはいるけれど。
ホームに上がると、丁度電車が入ってくるところだった。ガタンゴトンと車体が近づいて、アナウンスが流れる。人はぱらぱらとしかいなかった。するすると開く扉をゆっくりと通って、一番隅っこの席に座る。遮光ブラインドが下された席は陽の光が届かなくて、でも車内の暖房でちっとも寒くはなかった。
まもなく扉がまたするすると動き、帰宅路と逆方向へ景色が動き始める。
耳にしたことのある次駅の名前を聞きながら、早くもっと遠くに行ってしまえばいいのに、と思う。
はやく、はやく。ここから、連れ去って。
穏やかな温度にうつらうつらしていると、知らない景色が向かい側の窓に流れていた。
「次は淡雪淡雪駅」
車掌さんのがらがら声が人気のない電車に響き渡る。気がついたら、車両は私一人だけになっていた。路線図を見て、ほっと心臓が緩む。どうやら寝過ごしてはいないようだ。
ぷしゅう、と音がしてまた扉がするする開く。人は一人降りたかどうか。あっという間に閉まった扉、またガタンゴトンとかすかに車体が揺れる。
携帯を見ると、まだ十時を少し過ぎたところだった。電子の数字が浮かぶ画面に、沢山の通知がぽこぽこと並んでいる。一通りさらさらとスクロールして、私は電源ボタンに力を込めた。何かを押し込めるようにぎゅうぎゅうと。少ししてそろりと見た画面は真っ黒で、またほっとした。今は知った名前を見ることさえ嫌だった。級友の私を心配するメッセージを見るくらいなら、ダイレクトメールの方がましだと思った。
〝大丈夫?〟
一言目に入っていた言葉が私の喉の奥にぐっと刺さる。これは魔法の言葉だ。悪い方の魔法の言葉。
だってこれを言われたら、私は大丈夫としか言えなくなる。その言葉が善意を固めて丸めて、差し出したような形をしていればしているほど。本当のことなんて何も言えなくなる。
でも、今日の私は。大丈夫、とは言わなかった。
「次は水白駅、水白駅」
がらがら声が再び車内に響く。真っ暗になった薄い板を鞄に放り込んだ。定期ケースへ意味もなく手を伸ばす。ガタン、と少しだけ大きく揺さぶられて電車が到着の信号を鳴らした。降りそびれないよう、急いで扉の近くに立つ。ぷしゅう、と空気の漏れるような音がして数秒後、私は知らないホームを踏んだ。
降りたお客は私だけだった。今回も扉が閉まるのはとても早くて、私が降り立ったのを確認した車掌さんは何か合図のようなものを出してすぐに運転席へと戻っていった。そして若草色の短い車体はガタンゴトンと体を揺らしながら目の前を駆け抜けていく。電車の尾が見えなくなるのはあっという間だった。確かこの電車は各駅停車のものだったのに。
風を遮るものがなくなった瞬間、冷え切った温度が吹き付けてきた。ぼろぼろの看板が少しだけカタカタと揺れた。よく見れば「水白駅」と書かれた駅の表示だけがペンキで綺麗に塗りなおされている。薄く淡い、名前通りの白と水色の表示だった。綺麗な色だ、と思う。まあその周りはあちこち錆びていたけれど。
水白駅は小さい停留所のようだった。周りは雑草なのか、蔦なのかわからない植物が青々と茂っていて改札はひとつだけ。改札口まで足を動かしながら、さてこれからどうしようかと、実は何にも考えていなかったことを思い出した。見たところ特に目立ったものも、美味しい食べ物も何もなさそうだ。本当に田舎、緑緑緑の連続。学校の駅より小さな駅を知らなかったが、ここは通い慣れた駅よりもうんとこじんまりしていた。
ポケットの電子端末に手をかけて、ぱっと離す。ナビで探せば何かあるだろう。そんなことはわかっていたけれど、何か、何か嫌だった。改札へ辿り着くと、のんびりしてそうなおじさんが一人駅舎に立っていた。無人駅じゃなかったんだ、というのが正直な感想だ。
駅員さんは私の方をちらりと見遣って、それから興味なさそうにふいと顔を逸らした。それは私にとって好都合だったので、知らぬふりをしてカードを軽く改札に触れさせる。何気ないように、さもそれが当然のように、胸を張って。
どくどくと鳴る心臓には知らんふりをした。改札から数メートル離れたところでそっと、そっと息を吐いた。校門で先生とすれ違った時よりずっと、心臓がばくばくしている。ゆっくり首だけ振り返ってみると、駅舎の屋根だけが眩しく反射していた。駅員さんはもともといなかった人のように、もうどこにも見当たらなかった。
鞄からペットボトルを引っ張り出して、ごくりと喉に流し込む。冷たくなった液体とコート越しの冬風に、身体と頭が冷えていく。
さて、どうしようか。
このまま帰ってしまうのは勿体ないと思った。片道三九〇円もかかったのだ。それにこの場所に用がある風に降りたのだから、すぐ戻ればあの駅員さんが怪しく思うに違いない。
駅の前は平坦な道が続いていた。時折り吹き付ける風にスカートを押さえながら、コンクリートを踏む。
どれくらい歩いたのだろうか。何せ時間がわかるものがなかったので感覚でしかわからないが、十分ぐらい歩いていたと思う。思ったよりもここは何もない町だった。街じゃなくて、町。人はほとんど歩いていない。今までにすれ違ったのは犬の散歩をしたおじいさんかおばあさん。子供連れのお母さんも一組見かけた。そのぐらいで、日中ということもあってか学生は見かけることはなかった。
それはできるだけ人に会いたくない私にとってはまたもや好都合だったけれど、ちょっとだけ心細かった。駅までの道は迷わない自信があるが、こうも何もないとなると退屈と不安が一緒くたになって足元から染み込んでくる。
いよいよ、人とすれ違わなくなってきた。そろそろ帰ろうかな、そう思った時だ。一つの看板が私の目に映り込んできた。
〝水白水族館はこの先十メートルです〟
うっかりすると見落としてしまいそうな、駅の表示よりさらに地味な看板だった。小さくて、剥げたペンキ、目を凝らすとそれは魚とペンギンの絵だとやっと理解することができた。
いかにも流行ってなさそうな水族館。一体何年前からあるものなのだろう。
私は立ち止まって、財布の中身を覗く。こんなに古い水族館なら、もしかしたら。
別に特別魚が見たいとか、イルカが見たいとか、そういうのはまるでなかった。ただ、少し時間が潰せるかなと思ったのだ。それだけだった。おまけにここから十分。まあこういうのは大概短めに書いてあるので、多く見積もって十五分というところだろう。多分、そんなに遠くない。
吹き付ける木枯らしに、コートの前を押さえながら足を早めた。建物の中ならこの寒さもましだろうし。
看板の矢印通りに足を進めると、その建物はにゅっと顔を表した。音で表すととおかしいかもしれないが、実際にそんな印象だったのだ。
所々にある看板のおそらく最後、〝こちら水白水族館〟という矢印の角を曲がると、大きな水色のイルカと目が合った。
「わ」
ここがどうやら入り口らしい。奥にはドーム状のこじんまりとした建物が見えた。敷地へ一歩入ると、ピンクと、オレンジ、黄緑に、紫と様々な色のイルカの置物がある。近くに行って見上げると黒々としたつぶらな瞳が太陽光をぴかぴかと映していた。
「こんなの……ちょっとした遊園地だよ……」
あまりにも賑やかな入り口に、思わず独り言を溢す。所々また例の看板のように剥げている水色の身体はこの建物が年季ものであることを物語っていた。
「お客さん、いるのかな」
沢山居たら、やめよう。でも居なさすぎても、やめよう。愛嬌のある顔としばらく見つめあって、私はそう決めた。ようこそとカラフルに書かれた地面を踏みながら、入り口へ向かう。やっぱりペンキは剥げていた。
ガラスの扉は手動式だった。ぐっと力を入れて押す。思っていたよりも扉は重く、もう一度体ごとガラスを押し込んだ。
今度は力を入れ過ぎたらしく、ドアの隙間から体が入り込んで拍子抜けする。よく効いた暖房の空気が指先を温めていく。外の風音も聞こえない静かなその空間は柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。イルカショー十時、十四時、十六時。大人(高校生以上)一六〇〇円、小中学生一〇五〇円、幼児五〇〇円。一足そこに踏み入れると、カラフルな見出しが目についた。
財布の中をもう一度見る。千円札が一枚と、小銭が少し。今月のお小遣いはこれで全部だ。水族館なんて、そんなの。
好きでも嫌いでもない、けど。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか」
落ち着いた、心地の良い低音がエントランスに響いた。
「ひっ!」
いつのまにか現れた人の姿に、思わず飛び上がる。喉の奥でひゅっと音がした。
「これはこれは驚かせてしまい、申し訳ございません。お一人、で間違いないようですね」
「一人です、けど……」
まだ入るとは決めていない、とは言いづらくて口の中でもごもごと言葉を絡ませる。
「ああ、失礼致しました。ここは水白水族館。私は支配人の紫野と申します」
何を勘違いしたのかその男の人は簡単に自己紹介をすると、ぎゅうと目尻を下げてみせた。百八十センチをゆうに越えた身長、グレーがかった髪はきちんとセットされていて無精髭もない。真っ黒な制服に、アイロンがぴしっと掛けられているであろう白のシャツ。おじさんには違いないその人──紫野さんはおじさんと一括りにするのはちょっと違う雰囲気の人だった。
「この水族館は小さいですが、一息つくにはとてもいい場所だという声も頂いたりするのですよ」
さっと振り返って、紫野さんは中へ進む道に腕を指し示す。燕脂色の絨毯の上に招くような素振り。
「はあ」
何と言っていいかわからず、気の抜けた返事をしてしまった。そんな私を見て、彼はくすりと笑う。
「生憎、今日はお客様もほとんどいませんので」
眉をへにゃりと下げた紫野さんは、困ったように頭を掻いた。それがおじさんにしては可愛らしかったので、私は思わず頬が緩んでしまう。
「……じゃあ、せっかくだし」
入場料の受付カウンターに向かおうとした私に、また低く静かな声が耳を打った。
「お代は結構ですよ」
「え?」
「あなたに当館をおすすめしたのは私ですから」
そう囁くように小さな声で告げると、彼はしぃっと自分の唇に指を当てた。
「あの、そんなの……大丈夫です、お金あります」
差し出した財布が二人の間で彷徨っている。
「では当館を楽しんでいただくこと。これがお代でいかがですか?」
それに、と彼は今度は悪戯っ子みたいな笑みを浮かべた。
「きっと気に入っていただけると思いますよ。当館の展示は素晴らしいものばかりですから」
さあ。紫野さんはくるりと背を向ける。この話は終わったとでも言うように。暖色の灯りが差し込む入り口があまりにも柔い空間に見えて、私は吸い込まれるように館内へと足を進めた。だってせっかく遠くまで来たのだし。お金もいいって言われたし。それに、さっきまでの寒空の下に逆戻りはさすがにこたえる。水族館って歳でもないんだけどなあ。そう思いながら紫野さんがとっくに姿を消した館内を覗き込んだ。あの自信がありそうに輝いた、深いグレーの瞳が私の何かを引き止めていた。
そうだな、申し訳ないけれどつまらなければ適当に見て帰ればいいんだし。
携帯に手を伸ばして、また引っ込めた。それは触れてはいけないタイムマシンのような気がして。私は今度こそ館内へと伸びるふかふかの絨毯を踏んで進んだ。
はじめのフロアでは、様々な形の水槽に入った小さな魚たちが私を迎え入れてくれた。まるいもの、四角いもの、細い筒状のもの、大きな金魚鉢みたいなもの、更には三角形のものまである。
水族館なんて小学校の遠足で行ったきりだったが、今はこんなに様々な形の水槽があるんだ。形だけではなくて色もたくさんの種類があった。私は一つずつ見て回ることにする。入り口のところから順番に。
ふと壁のテーマが目につく。どうやらこの水族館は各ブースごとにテーマがあるらしかった。しまった、どうせなら入り口でパンフレットをもらっておけばよかったと思う。
「空を泳ぐ水魚たち、か」
なんとなくテーマを口にして一つ目の水槽を覗き込んだ。大きな金魚鉢型の真夏の青空のような空間の中で、軽やかにそれは踊っていた。銅の長い真っ白な美しい魚だった。照明の光をガラス越しに受けた背鰭が空色に染まって見える。なるほど、空を泳ぐと言われればそう見えるな。
次に覗き込んだのは、三角錐の形をした夕焼けのような橙色の水槽だった。水草が縦に長く伸びている。隙間から顔を出したのは、深い紅色の魚。さっきの魚よりも随分と小さく、メダカと同じぐらいの大きさだ。その魚は高く聳え立っている三角錐の天辺近くまで優雅に泳いで戻ってきてを繰り返していた。よく見ていると一匹で高く泳ぐものはほぼおらず、二匹、または三匹ですいすいと昇っていくのだった。
次の水槽へ足を向ける。それは、おばあちゃんの家に行った時に見上げた夜空の色だった。深い濃紺の水槽は真四角で、一番飾り気がなかった。友達の家で見た家庭用の水槽よりかなり大きかったけれど、ここまで変わった形が続いていたので何の変哲もないように見えた。
その角ばった水槽の中で泳いでいる魚を見るまでは。
それは一言で表してしまえば、〝宝石の魚〟だった。
純白のオパール、深紅のルビー、冴え渡るサファイア。エメラルドは森の雫を垂らしたような色であったし、アメジストは道端のすみれを溶かしたような可憐さだった。それらは今までの魚と違って、形も色も何一つ同じではなかった。ただ各々自由に泳いでいることだけが等しく同じだった。ひらり、ひらりと長い尾鰭を水の流れに任せながら。
それらの唯一似通った部分があるとするならば、この尾鰭ぐらいだろう。体の大きさは金魚ぐらいのものから、拳二つ分ぐらいまでと様々だった。背鰭が尖っているもの、丸いもの、平たいもの、丸々としているもの。本当に全てがばらばらだったのだった。
魚たちは私がガラス越しに覗き込んでいることなんてどうでもいい、あるいは興味がないとでもいうように横長の水の中を進んで目の前を通り過ぎていく。蛍光灯が差し込む近くですれ違うと、薄く透けそうな尾鰭が水の中で互いの色を映し込んだ。
私はほう、と息を吐く。自分でも音になるまで気がつかなかった溜め息。自分が、美しいものを見て溜め息が出る人間だとは知らなかった。今の今まで。
えっと、この魚の名前は。
「おや、まだこんなところにいたのですか」
私が魚の名前に目を凝らそうとした時だった。聞いたことのある音が耳に届く。
「紫野さん」
ふらりと現れた彼は後ろ手を組んで美しいでしょう、と静かに言った。
「当館の展示はどれも私の気に入りですが、魚に興味を持っていない人でも思わず見惚れてしまう。そんな魅力がありませんか?」
ちらりと寄越された視線に俯く。そういえばつまらなければ帰ろうと思っていたのだったっけ。
「ここの魚たちは皆様を一番にお迎えする場所でもありますからね。いつも煌びやかに美しく舞ってくれるのです」
紫野さんは口角を持ち上げて、満足そうに微笑む。
「どの水槽がお好きでしたか?」
優しく見下ろされた瞳に、私は口を開いた。
「この、濃紺の水槽です。その、どれも綺麗でしたけど……この中で泳ぐ魚たちがまるで宝石みたいに見えて、それで」
しばらく黙っていたせいで、長い言葉が上手く回らなかった。つっかえながらやっとそう言うと、紫野さんは凛とした目元を柔らかくして頷く。
「夜空の水槽、ですね。確かにこれはとても珍しい魚なのです」
骨張った手が顎を撫でる。
「私もこんな綺麗な魚は見たことありません。って言っても、魚は全然詳しくないんですけど。水族館なんて子供の頃行ったきりですし」
「そうですか。たまにはいいでしょう。ゆったりと夜空を泳ぐ宝石を眺めるのも」
「はい」
私はこくりと首を振った。
「では、ちょっとした小話でもしましょうか」
首を傾げる私に紫野さんの目は悪戯っぽく光っている。
「私の退屈しのぎに少し付き合っていただけませんか?」
紫野さんはまた茶目っ気を覗かせた声で、フロア中央のスツールへと私を促した。古いがよく手入れされたカーペットを数歩歩いてそれへ腰掛ける。水模様の光を浮かべているスツールは、ひんやりとしていた。私はスカートが皺にならないように慌てて引き寄せる。
「あの子達はね。ああ、子と言ってしまうのは私の癖なのですが……あの魚達はグンジョウアセウオと言いまして、全て同じ魚なのです」
「え?」
私の反応がわかっていたというように、紫野さんは声を弾ませた。
「驚きますよね。あんなに姿も色も何もかもが違うのに、もとは一種類なのですよ」
「一種類……」
「ええ、そうですとも。色もはじめは透明、形も同じで大きさは小指の先ほど。でもね、一年二年と時が経つにつれて不思議と少しずつ変化していきます。色、形、大きささえ、全く同じものにはならないのです。例えば兄弟や親子でだって。不思議でしょう?」
こくこくと頷く私を横目で見ながら、紫野さんは続ける。
「そしてあの子達はとても長生きなのですが、十数年するとまた変化の現れるものもいまして。最後は皆また透明な姿へと変化をします。元に戻ると言った方が正しいかもしれませんね」
「みんな透明になってしまうんですか?」
「そうです、形は変わらないですが色だけはどんなに鮮やかでも最後は透明になります。少し寂しいのですがね。そんな変化からあの子達はグンジョウアセウオと呼ばれているのですよ。ほんのいっときだけ、青春の最中にだけ、この上なく輝いてやがて陰り、褪せた色になることを指しているのでしょう」
にっこりと弧を描く紫野さんの口元。私を映している細められた目をまじまじと見る。こんな話は聞いたことがない。テレビでだって見たことがない。この人は私を揶揄っているのだろうか。
まるで私の考えていることを見通したように、しばらく目を丸くしている私にくすくすと彼は笑った。
「御伽噺のような、真っ赤な嘘のようなそんな話だとお思いでしょう?」
私は何と言っていいか分からずにもごもごと口を動かすが、結局言葉にはならなかった。
「貴方が嘘だとお思いになるならそれはきっとそうなのでしょう。そんなことはね、どうだっていいと思うのですよ、私は。ただそういう話もあるだけです。本当か嘘かわからないものは、まだまだたくさんある。けれどあの美しさだけは本当です。それだけは、確かなのです」
そう結んで、彼は再び濃紺の水槽に視線を移した。もう彼が何も話すつもりがないのは、なんとなくわかった。遠目でもわかる、光に反射した鱗がきらきらと眩しかった。
「綺麗ですね、とても」
捻った感想さえ出てこなくて、ただありのままを言葉にする。
「ええ」
静かな柔い音が響いて、すぐにそれも無くなった。
一瞬しか輝けない魚、透明になる最後、濃紺に広がる宝石色。
それはまるで私たちみたいだと思った。
こんなに綺麗じゃない、眩しくない。でもどこか似ている。触れるものによって形を変えて、交わる人間によって色も変わる。
ああ、そうか。
私はなぜこの魚たちに惹きつけられたのか、わかった気がした。美しいからだけじゃない。目まぐるしいほど目の前を過ぎる鮮やかさは、今の私たちにとても似ていたからだ。
私はいつのまにか隣から姿を消していた紫野さんを探す。すっと伸びた背筋を、奥のフロアに消える寸前に見つけた。
「紫野さん、私がきっと気にいるものがあるって! そう言っていましたよね!」
荒げた声は高い天井に吸い込まれて、キンと反響する。
「あれは、この魚のことですか? グンジョウアセウオを私に見せたかったんですか?」
ごうごうと耳元で鳴る何かに急き立てられるように、息を吸う。私の言葉にぴたりと足を止めた彼は振り返ってしぃと人差し指を唇に当てた。
「当館はお客様にお見せするものを選んだりはいたしません」
きっちりと線を引くような言葉。
「じゃあ、なんで……」
「しかしながらここは、お客様が見たいものを見せる水族館です。本日お客様はグンジョウアセウオをご覧になった。それが事実で、唯一の確かなことですよ」
革靴の音がする。踵をぴったりと揃えてゆっくりお辞儀をすると、紫野さんは私に背を向けた。コツンコツンと靴音が遠くなってゆく。ぽっかりと暗い空間に今度こそ彼は飲み込まれていった。
紫野さんと話したのはそれが最後だった。私は自分以外いないフロアでしばらくの間、宝石たちが泳ぐ水槽を眺めていた。
私があの中の魚なら。一体どんな色なのだろう。そもそもあんなに美しく輝いているのだろうか。一人透明なままではないのか。
いいや、違うのだ。紫野さんは言っていた。グンジョウアセウオは全てに色がつくと。どんな形にでも、どんな色にでも、何にでも。
そうだ、何にでもなれる。多分私はどんな色にでもなれる。例え最後はまた透明になろうとも。多分何にでもなれるのだ、まだ今ならば。
私は携帯を取り出して、電源ボタンを長押しする。眩く光るディスプレイに薄目を開きながら、ポコポコ上がってくる通知を消した。時間はとうにお昼を過ぎていた。わかった途端、ぐうとお腹が悲鳴を上げる。
私は現金な自分の胃袋に可笑しくなりながら、ポケットに携帯を滑り込ませた。
まだたくさん展示物はあるのだろう。でも何故だかもう十分に見た気がした。見るべきものを見た気がしたのだ。帰ろう、そう思った。
明るいエントランスから一歩外に出ると、冷たい風がびゅうとスカートを攫っていく。その一陣で私は夢の中から現実に戻ってきたような不思議な感覚になる。
振り返ってみると、〝水白水族館へ、ようこそ〟の文字。ドーム状の建物に、絶妙に可愛くないペンギンのマスコットキャラクター。どこにでもありそうな場所。お客さんなんてほとんどいない寂れた水族館だ。私は指先を握りしめる。
そして違和感に気づいた。そろりと指をほどく。手のひらのなかには半券があった。今日の日付、大人一人。あれ? と思う。
「私、チケットなんて買ってないのに……」
確かエントランスで紫野さんに会って、内緒ですよと言われてそれで。でも少し折り曲がってしまったこれは間違いなく水白水族館と書いてある。
私はもう一度その建物を振り返る。古びたカーペット、薄暗くて心地の良い空気、夜空を泳ぐ宝石色の魚たち。確かにそれらはここにあった。今、見てきたばかりなのに、それなのに。
心が妙にざわざわした。もう二度とここには来られないような気がした。それは確信にも似た感覚で。
あの、不思議に柔らかい目元にくすくすと笑われた気がした。
「結局、紫野さんにお礼言えなかった」
多分もう彼と会うことは二度とないだろう。そして多分ここにもきっともう二度と。
「……帰るか」
なんとなく独り言を呟いて、私はマフラーをぎゅっと首に巻きつけた。
寂しいような、懐かしいような、変な気持ちだった。それでもやっぱり帰りたいと思った。
私は、私の水槽へ。
あの小さく平和な水槽へ、きっと帰るべきなのだろう。冒険はおしまい。逃避行もおしまいだ。
手の中で震えた携帯に目を落とすと、友人からのメッセージが立て続けに入っていた。
〝大丈夫?〟
その言葉はもう無慈悲で意地悪な言葉には見えなかった。
「大丈夫、大丈夫」
口にしたものと同じ言葉を打ち込んで、画面を切った。
今から私たちはどんな色になるのだろう。
どろりとした赤かもしれない、全てを包んでしまう黒かもしれない。それは、まだわからない。
けれどきっと。もっとずっと、うんと先に私は自分自身が何色であったかを思い出す時が来るのだろうと思う。その時にああ美しかったと、そう思えたならば。
私は駅への道を足早に歩く。ぐうぐうと鳴るお腹の音が私を早く早くと急き立てていた。
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