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1.〈憤怒〉の境界線
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その問いかけに雁井が息を飲む。
『それだけ』?
娘への愛と憎しみ。その二重思考に懊悩する自分に、他にどんな感情があると言うのだろうか。
おそるおそる顔を上げると、日生神父の水晶めいた両目と合った。眼鏡越しでも、その清らかさが分かる。
しばらくの間、祭壇の傍らにある大きな古時計の音が場を支配した。
「子ども……」
静寂を破ったのは日生神父だった。
「子どもというものは、真っ白ですよね」
「え……?」
面食らう雁井に、彼はくすっと笑う。
「私も子どもを一人、育てていましてね。少々ワケありで」
眼鏡のブリッジを指先で直し、滔々と続けた。
「生まれた時から世話をしているのですが、この世に生を享けたばかりの子どもは、色に喩えれば真っ白です。
だから、どんな〈色〉にも染められる。
天使のように白い心の持ち主になるか、悪魔のように黒い心の持ち主になるかーー親次第で、どんな人間にも成らせます」
雁井は大いに戸惑った。唐突におかしなことを語り出す彼に。
これが町で評判の『神父さま』なのだろうか。
妻や娘からこの神父の話を聞いていた。若いが人をよく見ており、『告解』という形で悩み相談に乗ってくれる、と言う。
彼と話すうちに自然と心と思考の整理がついて、解決への糸口をつかめるようになるらしい、と。
だが、胸元の銀の十字架を指先でもてあそぶこの男は。
明らかに、得体が知れなかった。
「分かりますか? 我々『親』は、『子ども』をどんな人間にもできるんですよ。うまくやれば育てる側の理想どおりに育ちます。そう、ちょうど――」
日生神父はつと人差し指を立て、
「この蝶のように」
どこから入って来たのか、大きな蝶が指に留まった。
蝶の翅は白く、降ったばかりの新雪を思わせる。
神父は立ち上がり、どこへともなしに呼びかけた。
「小鳥。出ておいで」
カタン、と音がして、奥の部屋へと通じる扉が開いた。
白い服の子どもが顔を覗かせた。奇妙なことに、その足は裸足だった。
外国人なのだろうか。髪と瞳は輝くような蜂蜜色で、愛らしい顔立ちをしている。
「……何?」
気怠げな声の返事。
甘ったるい美貌に少女かと思ったが、声の感じや雰囲気からして男のようだ。
小鳥と呼ばれた少年が用件を問うと、日生神父は視線だけで蝶を示した。
少年が「あっ」というような表情になると、蝶はひらりと指から離れた。
「ちゃんと管理しなさい」
少年のもとへ羽ばたく蝶。
神父は短く咎め、蝶は少年のもとに戻っていく。
雁井の目には、白百合の花びらが風にさらわれたように映った。
美しい。
少年の肩に蝶が留まり、そのまま奥へ引っ込もうとするが、
「小鳥。こちらの方にご挨拶は?」
「……こんにちは」
振り向きもせずに、少年はさっと扉の向こうに消える。
白昼夢のようなひとときだった。
「すみません。愛想がありませんで。まあ、そこがとても可愛いのですが」
「は……?」
養い子の非礼への詫びなのか親バカの惚気なのか。よく分からない。
首を傾げる雁井に、日生神父はいっそう笑った。
「そして、そう育てたのは私なんですよ」
何でもないことのように言うと、再び雁井の顔を覗き込んだ。
「愛と憎しみ。雁井さんのお嬢さんに対する思いは、それだけですか?」
雁井は困惑し、徐々に日生神父の言葉に飲み込まれていく。
「どうぞ胸の裡を告白してください。ここには誰もいません。あなたがどんな醜い感情を露わにしても、咎める存在は何も無いのです」
不思議だった。
神父に見つめられているうちに、徐々に無意識の海に沈み込ませた感情が浮かび上がってくる。
この水晶のような、奇妙な眼のせいだろうか。
それが鏡の役割を果たして、雁井の本心を映しているのだろうか。
「怒りを、覚えました……よくも私を騙したな、と……」
「そうですね」
「そして、気づきました……」
「はい」
「娘が、妻に……由仁が多津乃に、非常によく似ていることを……」
多津乃を愛したきっかけは、一目惚れだった。
化粧は薄めで目立たないタイプの美人である彼女の容姿は、雁井を虜にするものだった。
もはや多津乃はおらず、その娘が雁井と同じ家にいる。
十三歳になったばかりの由仁は、確かにまだ子どもだが、そのうち背丈も伸びて、体つきも少しずつ女らしくなり、多津乃にそっくりになるのだろう。
いつか最愛の女性の生き写しになるーー『他人』。
「神父さま、私は……娘に、あんな幼い子どもに、あらぬ欲望を抱いてしまったのです……」
ああ、なんておぞましい。
自らへの嫌悪感のあまり雁井は死を願った。
しかし、日生神父はまったく態度を変えなかった。
「先ほども言ったとおり、親は子どもをどんな『形』にもできるのですよ。
見た目が理想的なら、なお良いのではないでしょうか。大切に育てて、慈しんで、仕向けて……今度こそ、絶対に雁井さんを裏切らない『理想の女性』を造り上げることができます」
それどころか、まるで聖書を読み上げるような調子で悪魔めいた言葉を囁く。
「けれど、雁井さんには気長に育てるほどの心の余裕がない、待ちきれないーーそういうことですね」
何もかも神父の言うとおりだった。
顔から火が出そうだ。
「あなたが恐れるのは、ひどい形でお嬢さんを傷つけてしまうかもしれない御自身。……だから、そんなものを持つほどまでに苦しんでいる」
神父がするりと、冷たい手で雁井の頬を撫でた。
雁井を見下ろす神父の眼に射竦められ、思わず、懐に忍ばせていたものが手を離れる。
「あなたに、救いの手を差し伸べましょう」
天啓のような神父の声は、雁井が持っていたナイフと共に、床に落ちた。
『それだけ』?
娘への愛と憎しみ。その二重思考に懊悩する自分に、他にどんな感情があると言うのだろうか。
おそるおそる顔を上げると、日生神父の水晶めいた両目と合った。眼鏡越しでも、その清らかさが分かる。
しばらくの間、祭壇の傍らにある大きな古時計の音が場を支配した。
「子ども……」
静寂を破ったのは日生神父だった。
「子どもというものは、真っ白ですよね」
「え……?」
面食らう雁井に、彼はくすっと笑う。
「私も子どもを一人、育てていましてね。少々ワケありで」
眼鏡のブリッジを指先で直し、滔々と続けた。
「生まれた時から世話をしているのですが、この世に生を享けたばかりの子どもは、色に喩えれば真っ白です。
だから、どんな〈色〉にも染められる。
天使のように白い心の持ち主になるか、悪魔のように黒い心の持ち主になるかーー親次第で、どんな人間にも成らせます」
雁井は大いに戸惑った。唐突におかしなことを語り出す彼に。
これが町で評判の『神父さま』なのだろうか。
妻や娘からこの神父の話を聞いていた。若いが人をよく見ており、『告解』という形で悩み相談に乗ってくれる、と言う。
彼と話すうちに自然と心と思考の整理がついて、解決への糸口をつかめるようになるらしい、と。
だが、胸元の銀の十字架を指先でもてあそぶこの男は。
明らかに、得体が知れなかった。
「分かりますか? 我々『親』は、『子ども』をどんな人間にもできるんですよ。うまくやれば育てる側の理想どおりに育ちます。そう、ちょうど――」
日生神父はつと人差し指を立て、
「この蝶のように」
どこから入って来たのか、大きな蝶が指に留まった。
蝶の翅は白く、降ったばかりの新雪を思わせる。
神父は立ち上がり、どこへともなしに呼びかけた。
「小鳥。出ておいで」
カタン、と音がして、奥の部屋へと通じる扉が開いた。
白い服の子どもが顔を覗かせた。奇妙なことに、その足は裸足だった。
外国人なのだろうか。髪と瞳は輝くような蜂蜜色で、愛らしい顔立ちをしている。
「……何?」
気怠げな声の返事。
甘ったるい美貌に少女かと思ったが、声の感じや雰囲気からして男のようだ。
小鳥と呼ばれた少年が用件を問うと、日生神父は視線だけで蝶を示した。
少年が「あっ」というような表情になると、蝶はひらりと指から離れた。
「ちゃんと管理しなさい」
少年のもとへ羽ばたく蝶。
神父は短く咎め、蝶は少年のもとに戻っていく。
雁井の目には、白百合の花びらが風にさらわれたように映った。
美しい。
少年の肩に蝶が留まり、そのまま奥へ引っ込もうとするが、
「小鳥。こちらの方にご挨拶は?」
「……こんにちは」
振り向きもせずに、少年はさっと扉の向こうに消える。
白昼夢のようなひとときだった。
「すみません。愛想がありませんで。まあ、そこがとても可愛いのですが」
「は……?」
養い子の非礼への詫びなのか親バカの惚気なのか。よく分からない。
首を傾げる雁井に、日生神父はいっそう笑った。
「そして、そう育てたのは私なんですよ」
何でもないことのように言うと、再び雁井の顔を覗き込んだ。
「愛と憎しみ。雁井さんのお嬢さんに対する思いは、それだけですか?」
雁井は困惑し、徐々に日生神父の言葉に飲み込まれていく。
「どうぞ胸の裡を告白してください。ここには誰もいません。あなたがどんな醜い感情を露わにしても、咎める存在は何も無いのです」
不思議だった。
神父に見つめられているうちに、徐々に無意識の海に沈み込ませた感情が浮かび上がってくる。
この水晶のような、奇妙な眼のせいだろうか。
それが鏡の役割を果たして、雁井の本心を映しているのだろうか。
「怒りを、覚えました……よくも私を騙したな、と……」
「そうですね」
「そして、気づきました……」
「はい」
「娘が、妻に……由仁が多津乃に、非常によく似ていることを……」
多津乃を愛したきっかけは、一目惚れだった。
化粧は薄めで目立たないタイプの美人である彼女の容姿は、雁井を虜にするものだった。
もはや多津乃はおらず、その娘が雁井と同じ家にいる。
十三歳になったばかりの由仁は、確かにまだ子どもだが、そのうち背丈も伸びて、体つきも少しずつ女らしくなり、多津乃にそっくりになるのだろう。
いつか最愛の女性の生き写しになるーー『他人』。
「神父さま、私は……娘に、あんな幼い子どもに、あらぬ欲望を抱いてしまったのです……」
ああ、なんておぞましい。
自らへの嫌悪感のあまり雁井は死を願った。
しかし、日生神父はまったく態度を変えなかった。
「先ほども言ったとおり、親は子どもをどんな『形』にもできるのですよ。
見た目が理想的なら、なお良いのではないでしょうか。大切に育てて、慈しんで、仕向けて……今度こそ、絶対に雁井さんを裏切らない『理想の女性』を造り上げることができます」
それどころか、まるで聖書を読み上げるような調子で悪魔めいた言葉を囁く。
「けれど、雁井さんには気長に育てるほどの心の余裕がない、待ちきれないーーそういうことですね」
何もかも神父の言うとおりだった。
顔から火が出そうだ。
「あなたが恐れるのは、ひどい形でお嬢さんを傷つけてしまうかもしれない御自身。……だから、そんなものを持つほどまでに苦しんでいる」
神父がするりと、冷たい手で雁井の頬を撫でた。
雁井を見下ろす神父の眼に射竦められ、思わず、懐に忍ばせていたものが手を離れる。
「あなたに、救いの手を差し伸べましょう」
天啓のような神父の声は、雁井が持っていたナイフと共に、床に落ちた。
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