マトリョシカ

アジャバ

文字の大きさ
4 / 14

ファウストの犬 (二)

しおりを挟む
 奇跡はいつも有難いものとは限らない。今回の奇跡は一時には有難いものと思えていたが、中長期的に見ると私に破滅をもたらしかねない危険な奇跡であった。

 此処で起きた一つの奇跡。高橋に連れて行かれた先には、先程イチョウの木の下で見失った女性が居たのである。他には一人、酒豪漢らしい顎髭を蓄えた体格の良い男が居た。私はどうしてか、この奇跡的な出会いに少しも驚く事はなかった。何となしにこうなる予感がしていたのである。場は酔いどれて此処には異様な空気に包まれている。そんな場所においてはきっと奇跡など容易に起こり得るに違いない。

 「はじめまして、塚本静です。」

 彼女はそう言って爽やかに過ぎる微笑みを私に与えた。私はその眩さに彼女の目を直視する事が出来ず、素っ気無く自己紹介を済ませた。静と初めて対面して感ぜられたのは、その無菌室のような清涼さである。誰にも礼儀正しく、笑顔を絶やす事なく、常に上機嫌を保つ彼女は、一目見るなり好感を持つに値する女性であると確信させられた。何処か育ちの良さを感じる彼女に、秋の公園がよく似合っていた。ついでに言えば、男の方は伊藤と云うらしかった(これも同様。プライバシー云々である)。

 私たち四名はすぐに意気投合した。伊藤は実によく飲み、よく食べた。宴会において、常に台風の目になり得る男であったろう。話をする内に知れたのは伊藤には男友達が少ない事(高橋曰く「薄っぺらな奴だから。あと、我儘に過ぎる」)、その代わりに女友達が多く、そんな彼女らによって都合の好く利用されているという事、静もその数多いる女友達の一人であった事。私は、そんな伊藤に対して好感を持って接した。彼に友達がいないのが不思議に思えたが、おそらく彼は一日やそこらで人に欠点を見せない質なのだろう。今日を持って、彼の好印象たるイメージを封印し、二度と会わぬが好いかも知れない。そう思った。

 合流してから数時間経った。四人が四人共、酔いに酔っていた。私達は、あれこれと沈黙を生む事無く話続けたが、その中でも静だけはあまり饒舌にならなかった。私や高橋、伊藤が冗談を言い合うのに合わせて相槌を打ったり、あの美しい笑みを浮べていたりした。

 酒に酔っても清楚さを失わない彼女は、まさに十全の名を欲しいままにしていた。この時点において静の持っている負の面について知れたのは唯一つのみであった。伊藤に男友達がいないのと同様に、静には女友達がいないと云う事である。高橋が私に話してくれた事に拠れば、彼女のあまりに美しい事に周りの女が嫉妬した事、彼女の周囲に媚びる事を良しとしない性格が原因であったらしい。彼女はその美しさが故に周囲の強い反感を得る事になり、それが否が応にも彼女を孤高たらしめていたのである。私は、彼女を受け入れまいとする女性たちに憤って見せて、不平不満の限りに言葉を尽くした。静は、私の一言一言に微笑みを与えてくれた。

 そのようにして少しずつ静と打ち解けていった私は、私と静と友のいる秋の風景の中に確かな幸福を感じていた。

 時を経る毎に、私は静に特別な感情を抱くようになっていた。殊に、私が好いたのは彼女の微笑みであった。彼女の笑顔の美しいのは、そこに醜いcomplexが一筋たりとも現れて来ないからだったろう。Complexは想像よりもずっと深く世の中を蝕んでいる。その証拠に大抵の女は自分より美しい女を心の中では酷く憎んでいる。相手の持つ圧倒的な美しさの中に、自らの決定的なcomplexを見つけてしまうからである。そうなってしまえば、必死になって美しき者を痛烈に批判し、冷笑する他に何も出来る事は無い。「気取屋なのよ。可哀想に友達の一人もいないのよ、きっと」「高飛車で嫌みな女じゃない」…などと、影で罵って止まない。醜き者たちのギルドを組み、懸命に結束して安心を得るのである。何しろ、世の中に美しい女は一握りしか存在しておらず女のほとんどが醜い女であるから、その嘲笑は世の中の主流の意見となってしまう。Complexが、世の中の定説を生み出すのである。しかし、一方で美しき女たちも心の内に醜き者たちを見下している。醜き女の挙動の一つ一つに腹を抱えて笑っているのだ。であるから、彼女たち美しき女とその他の醜き女とは全く人種を別としているのであろう。
 私は、静と出会った。今まで私を取り巻いて来た人種とは違う、真に美しき女に出会ったのだ。彼女の笑顔はそうした突然の幸福を十二分にも感じさせるものであった。
 
 肺に染み行く冷たい空気が秋の景色に心地良いようにして、彼女はごく自然と、晴れやかな表情を持って、私の心に侵入しようとしていた。私は、その清涼なる出会いを疑う事なく歓迎した。

 『己たちを興がらせてくれたのだから、その礼に、お前を手厚くもてなしてやる』かのファウストは、メフィストフェレスの化けた黒犬に言った。ファウストよ。お前は、その一分の油断から地獄へ落ちるののだ。悪魔と手を結んでからでは最早すべて後の祭りである。享楽の限りを握らされて、天を背いた人間を待つのは唯一つ、破滅へと続く路である。

 「少年、〈惑い〉は実に美しかろう?」
 
 「〈惑い〉? 彼女は、美しいに違いないが。」

 「ああ、そうかい。彼女は女神に違いなかろうよ。」
 
 「珍しく、お前も褒めるのだな。」

 「いや、そうじゃない。己は、復讐の女神の事を云ったのさ。」

 そして、如何にも嬉しそうに笑みを零しながら、悪鬼は霧となって何処かへ姿を隠してしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

【完結】少年の懺悔、少女の願い

干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。 そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい―― なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。 後悔しても、もう遅いのだ。 ※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。 ※長編のスピンオフですが、単体で読めます。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

二年間の花嫁

柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。 公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。 二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。 それでも構わなかった。 たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。 けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。 この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。 彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。 やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。 期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。 ――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。

処理中です...