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05.不朽の功績

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「ところで、お父様はこれまで、とても尊敬するようなことを成し遂げたり、達成したりした人に出会ったことはありますか?」
「師だ。師は絵画を通して、多くの人の心に潤いを与えた。絵を通して、人を感動させたか未だにわからない。師の絵は今日も誰かのこころを癒やしている」
 師ほどていねいに絵を教えてくれる先生を、ほかに知らない。タダノが人並みに絵を描けるのは、師のご指導のたまものだった。感謝してもしきれない。
「師は亡くなられていますよね」
「ああ。残念だった」
「しかし、彼の人生にとても意味があったのではないでしょうか」
「誰かの人生に意味があるとしたら、師がそうでしょう」
「彼の人生と共に、彼が成した人生の意味は減じましたか」
「いいや。意味深かったという事実は変わらない」
「閲覧者がひとり残らず感謝の気持ちを持ち合わせておらず、彼の絵のことを覚えていなかったらどうでしょう」
「それでも師の人生の意味は失われていない」
「彼とその弟子たちの絵が全て失われ、最後に作品を見た人がお亡くなりになられたとします。それでも彼の人生の意味は残っていますか?」
「彼の人生が意味深いものであったという事実は、失われることはない」
「では、改めて問い直します。彼が自分の作品と向き合い、正直に悩んだことを、だれかが取り除くことはできますか?」
「できない」
「どうですか。彼が残した成就や達成を誰かが取り除いてしまうことはできるのでしょうか、お父様」
「できない。できるはずがない」
「そうです。あらゆる行為がそれ自体の記念碑なのです。一度でも起こったことは、何一つこの世から拭い去ることはできません。わたしたちの存在がどんなに儚かろうと、過去存在の中にしまいこまれ、たくわえられるのです。過去存在の中で失われて持ち帰れるものはなく、しまわれてしまって失いようがありません。人は過ぎ去った刈田だけを見て、過去存在という豊かな穀倉のほうは、見逃しがちなのです」
 そうであると思いたい。そうでなければ、自分はともかく、師の人生の意味がいつか失われることになってしまう。いや、師どころか、今を生きる全人類の意味がいずれ失われることが確定してしまう。人はいずれ、死ぬ。人類の歴史もまた、宇宙また、永遠にくらべればほんのいっしゅんの出来事に過ぎない。
「人生において大切なのは、なにかを成し遂げることです。それはまさに、お父様の師と同じく、お父様も成されてきたことなのです。お父様は生みの苦しみを引き受けて、わたしの兄や姉を創造しました。これは、お父様の人生で不朽の功績と存じます。この事実はもはや、誰にも消すことは叶いません」
「そうか、俺は自分を誇っていいのか」
 レーベンは、キャンバスをよけて、タダノのとなりに立つと、背中に手をそえてきた。
「もちろんです」
 ふと、外を見ると、もう暗くなっていた。
「また、あした、続きを話しましょう」
「ああ、今日はもう疲れた」
 レーベンはえしゃくすると、布団を準備し始めた。
「お父様の体、どこから拭きましょうか。やはり顔から……手も捨てがたいですね。はあぁ、でもその前に歯磨き……」
 徐々に息が荒くなり、言葉がうわずるレーベンへ、タダノは言った。
「銭湯行ってくる」
「ああ! そんなぁ、お父様! 期待させるだけさせておいて、おあずけなんて、ひどすぎますぅ!」
 ごねるレーベンを置いて、タダノは銭湯へ出かけた。
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