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第一話 引きこもり青年
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「君は夜勤介護者だ。四十人近い要介護者を、三人で看る。介入は原則一対一。二人がかりは、植物状態の患者のおむつ交換くらい。寝返り一つで二人取られては、仕事が回らない」
そう語ったのは、革製のペストマスクに、黒い長髪、手袋、トレンチコートの怪異だった。
ダウンジャケットに、ボロボロのサンダルを履いた青年は、白い息を吐いた。
「難儀な仕事だ」
樹海を抜ける風は、どこまでも冷たい。
「そこに彼が来た。寝たきりで、指一つ動かせない。回復の見込みもない。持病のせいで超肥満体型。身体でベッドの大半を占める。娯楽は病院食、テレビ、ラジオだけ」
骨折で入院した時の記憶を頼りに、想像する。病室の様子が、ありありと目に浮かんだ。
「さらに難儀だな」
「動けないため、定期的に『寝返りしたい』と言う。だが、百キロ超えの身体は、二人がかりでも大変だ。枕を外し、柵に当たらぬよう体をずらし、向きを変える。その後は枕の位置を、本人の気が済むまでやり直す。少しでも気になると『すいませ~ん』と呼び戻される。黙るまで五分、長ければ十分以上」
真っ暗闇の中で一人、奥歯を噛みしめながら寝たきりの男を介護する、介護者の姿を思い浮かべた。
「それでも、仕事は仕事だ」
「彼以外の三十九人も待っている」
鳴り止まぬナースコール。走って止めねばならない、転倒防止のセンサーコール。看護師からの呼び出し……。
「全員が入院費を払っている以上、彼だけに構っている訳にはいかない。だが彼は言う。『常に側にいて欲しい』。寂しい、という理由だけで、数分おきに呼び出されたら、どう思う?」
「止めてくれ、と思う」
「そう。介護者も人間だ」
「身に覚えがある」
青年は目を瞑った。
頭の奥で、いつだったか耳にした声が響く。
『人数が足りないのに、新患ばかりよこしやがって』
『安月給でベテランは皆やめた』
『残業確定なのに、さらに新人教育だ』
『患者はたいした用もないのにナースコールを押しまくる』
『安全ベルトは外す、脱走する』
『挙げ句の果てに、退院の準備だから外出したい、連れていけ?』
『看護師に相談しろ。介護者は、召し使いじゃねぇんだぞ』
疲れきった、痛々しい声だった。
「――そして彼は、ナースコールを押さなくなった」
「なぜ、俺に話す」
「『生きるだけで他人から憎まれる』『現状以上の変化は望めず、人生に希望がない』『死にたいと思うが、死ぬ手段がない』。何が違う?」
青年は思わず、目をそらした。自分を徹底分析し、ようやく言葉を紡いだ。
「身体が動く」
「同じだ。心の苦しみは他者と比較できない。状況がどうあれ当人が『死に値する心の苦しみである』と感じれば等価だ」
感じたら、死ぬしかない。本当に、そうなのだろうか。
いや――
「恵まれた環境で自殺する人も、強制収容所で奮起する人もいる……」
「そうだ。どんな環境も『根拠なく絶望する脳』に生まれた前提は覆らない」
「根拠なく?」
「死後について何一つ知らないのに、死んだ方がましだと思い込む。生き抜いた事もないのに、生きる意味はないと思い込む」
「少なくとも、俺の人生ではそうだった」
ペストマスクは満足げに頷き、低く、暗く、優しい声で言った。
「勿論、社会存続のために、希死を病、実行は罪だと教え込まれる。その全てを超えてなお、人生退出を願うのは、ごく少数だ」
いつの間にか握りこぶしがうっ血していた。
「まるで呪いだ……」
「その通り。人は幸福になろうとするが、幸福になれるよう作られてはいない。個の幸福よりも、多様性による種の保存を優先した人間の、根本的な欠陥」
「じゃあなんだ。頭を薬で弄ればそれで解決か?」
「最善ではないが最良の手がある。自殺幇助による不幸回避だ。道徳的に考えて、不幸を減らす義務の方が、幸福を増やす権利より優越するのは当然だ」
この震えは、寒さだけによるものではなさそうだ。
「それが正しいのなら、不幸な人から順に、人類を排除する事になる。エスカレートすれば、死ぬ必要のない人まで、排斥することになるんじゃないのか」
「だからこうして、時間をかけて意思を確認しているんじゃないか」
胸の痛みが、青年を過去へ誘った。
話し相手のいない学校生活に止めを刺したのが、腰を痛めての野球部退部だった。『人生の最初にこんな失敗をした自分は、もうやり直しが聞かない』。それからというもの、授業は頭が入らず、クラスメイトからの些細な一言で傷つき、相対することが多くなった。
そこからはあっという間に転落した。学校に行けなくなった。知人と会うのが怖く、家の外にも出れなくなった。
ある日、家の窓から下校中の野球部員が見えた。とびきり辛くなって、外に飛び出し自動販売機でビールを一気飲みした。それでも足りず、親の酒を盗み飲んだ。
緊張感から解放され、カーテンレールにベルトをかけた時、視界の端に黒い何かが映った。
――もう、十年以上前の話だ。
「不幸の連鎖は可能な限り早期に止めるべきだ。伴うリスクや払うべきコストに躊躇し、苦しむ人々の救済を先延ばしにすることは、不合理極まりない」
青年は頷いた。
返事を待たずして、ペストマスクは懐に手を差し込んだ。
「……頼む。俺はもう生きるのに疲れた」
一本のメスを引き抜き、青年へ差し出した。
「さあ、メスに触れるのだ。君の願いはそれで叶う。代わりに、死んだときに放たれる『希死の想い』を頂く。次の誰かを助けるために……」
そう語ったのは、革製のペストマスクに、黒い長髪、手袋、トレンチコートの怪異だった。
ダウンジャケットに、ボロボロのサンダルを履いた青年は、白い息を吐いた。
「難儀な仕事だ」
樹海を抜ける風は、どこまでも冷たい。
「そこに彼が来た。寝たきりで、指一つ動かせない。回復の見込みもない。持病のせいで超肥満体型。身体でベッドの大半を占める。娯楽は病院食、テレビ、ラジオだけ」
骨折で入院した時の記憶を頼りに、想像する。病室の様子が、ありありと目に浮かんだ。
「さらに難儀だな」
「動けないため、定期的に『寝返りしたい』と言う。だが、百キロ超えの身体は、二人がかりでも大変だ。枕を外し、柵に当たらぬよう体をずらし、向きを変える。その後は枕の位置を、本人の気が済むまでやり直す。少しでも気になると『すいませ~ん』と呼び戻される。黙るまで五分、長ければ十分以上」
真っ暗闇の中で一人、奥歯を噛みしめながら寝たきりの男を介護する、介護者の姿を思い浮かべた。
「それでも、仕事は仕事だ」
「彼以外の三十九人も待っている」
鳴り止まぬナースコール。走って止めねばならない、転倒防止のセンサーコール。看護師からの呼び出し……。
「全員が入院費を払っている以上、彼だけに構っている訳にはいかない。だが彼は言う。『常に側にいて欲しい』。寂しい、という理由だけで、数分おきに呼び出されたら、どう思う?」
「止めてくれ、と思う」
「そう。介護者も人間だ」
「身に覚えがある」
青年は目を瞑った。
頭の奥で、いつだったか耳にした声が響く。
『人数が足りないのに、新患ばかりよこしやがって』
『安月給でベテランは皆やめた』
『残業確定なのに、さらに新人教育だ』
『患者はたいした用もないのにナースコールを押しまくる』
『安全ベルトは外す、脱走する』
『挙げ句の果てに、退院の準備だから外出したい、連れていけ?』
『看護師に相談しろ。介護者は、召し使いじゃねぇんだぞ』
疲れきった、痛々しい声だった。
「――そして彼は、ナースコールを押さなくなった」
「なぜ、俺に話す」
「『生きるだけで他人から憎まれる』『現状以上の変化は望めず、人生に希望がない』『死にたいと思うが、死ぬ手段がない』。何が違う?」
青年は思わず、目をそらした。自分を徹底分析し、ようやく言葉を紡いだ。
「身体が動く」
「同じだ。心の苦しみは他者と比較できない。状況がどうあれ当人が『死に値する心の苦しみである』と感じれば等価だ」
感じたら、死ぬしかない。本当に、そうなのだろうか。
いや――
「恵まれた環境で自殺する人も、強制収容所で奮起する人もいる……」
「そうだ。どんな環境も『根拠なく絶望する脳』に生まれた前提は覆らない」
「根拠なく?」
「死後について何一つ知らないのに、死んだ方がましだと思い込む。生き抜いた事もないのに、生きる意味はないと思い込む」
「少なくとも、俺の人生ではそうだった」
ペストマスクは満足げに頷き、低く、暗く、優しい声で言った。
「勿論、社会存続のために、希死を病、実行は罪だと教え込まれる。その全てを超えてなお、人生退出を願うのは、ごく少数だ」
いつの間にか握りこぶしがうっ血していた。
「まるで呪いだ……」
「その通り。人は幸福になろうとするが、幸福になれるよう作られてはいない。個の幸福よりも、多様性による種の保存を優先した人間の、根本的な欠陥」
「じゃあなんだ。頭を薬で弄ればそれで解決か?」
「最善ではないが最良の手がある。自殺幇助による不幸回避だ。道徳的に考えて、不幸を減らす義務の方が、幸福を増やす権利より優越するのは当然だ」
この震えは、寒さだけによるものではなさそうだ。
「それが正しいのなら、不幸な人から順に、人類を排除する事になる。エスカレートすれば、死ぬ必要のない人まで、排斥することになるんじゃないのか」
「だからこうして、時間をかけて意思を確認しているんじゃないか」
胸の痛みが、青年を過去へ誘った。
話し相手のいない学校生活に止めを刺したのが、腰を痛めての野球部退部だった。『人生の最初にこんな失敗をした自分は、もうやり直しが聞かない』。それからというもの、授業は頭が入らず、クラスメイトからの些細な一言で傷つき、相対することが多くなった。
そこからはあっという間に転落した。学校に行けなくなった。知人と会うのが怖く、家の外にも出れなくなった。
ある日、家の窓から下校中の野球部員が見えた。とびきり辛くなって、外に飛び出し自動販売機でビールを一気飲みした。それでも足りず、親の酒を盗み飲んだ。
緊張感から解放され、カーテンレールにベルトをかけた時、視界の端に黒い何かが映った。
――もう、十年以上前の話だ。
「不幸の連鎖は可能な限り早期に止めるべきだ。伴うリスクや払うべきコストに躊躇し、苦しむ人々の救済を先延ばしにすることは、不合理極まりない」
青年は頷いた。
返事を待たずして、ペストマスクは懐に手を差し込んだ。
「……頼む。俺はもう生きるのに疲れた」
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